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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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其ノ十六『嗤う雪月は光すら凍りつかせて』①

 蛍自身の意思は、事件の黒幕である深月を逮捕する前に――深月の"想い"を知ることだ。

 冷凛とした蛍の強い言葉は、多目的広間の凍てついた空気を一瞬で灼き溶かした気がした。

 勇敢にも深月へ歩み寄る蛍に、光は制止の声と共に苦悶の吐息を漏らす。

 一方深月は、冬空色の瞳を軽く見開いてから、ふっと気の抜けたような微笑みを浮かべる。

 氷柱のように鋭くも凛とした眼差しが深月を射抜くこと数秒――蛍は深月へ向けていた銃口をそっと下ろした。

 さらに安全装置(セーフティ)施錠(ロック)すると、拳銃を床へ置いた。

 紺碧色の絨毯(じゅうたん)に放置された拳銃から、蛍の意思と行動は読めた。


 何をしている、馬鹿、逃げろ。


 声にならない必死の訴えを送る光。


 ごめんね。でも、大丈夫だから。


 しかし、蛍は切なげな一瞥を無言で返すのみ。

 光への謝罪と同時に励ましを含んでいる気はした。


 「深月義兄さん……あなたと話し合う……そのために、私はここへ来た」


 蛍と深月の距離は双方が手を伸ばせば、指先が触れ合うまでに縮まる。

 己と仲間の命を守るはずの銃を置いてまで、蛍はあくまで義兄の心へ歩み寄ろうとする。

 蛍は"話し合い"によって、深月へ何を伝えて、何を問うのか。

 蛍の勇敢な試みは、深月自身にとっても興味を煽られたらしい。

 蛍を一心に映す深月の瞳は一層愉しそうに細まる。

 一方の蛍は、薄氷の瞳に切なくも力強い意思を澄み映しながら、真っ直ぐ見つめ返してくる。

 ようやく、蛍の淡い唇は最初の言葉を奏でた。


 「深月義兄さん――私は、()()()()()()()()()()()()()。数年前、あなたが姿を消した理由も。あなたが人の命を弄ぶ罪を冒す目的も」

 「……」

 「でも、E(アーストワイル)C(チルドレン)の事件だけじゃない。『猟奇連続殺人事件』の捜査でも、私は感じたの。それは、深月義兄さん――あなたは、あなたなりの方法で傷ついた人達……"かつて傷つけられた子ども達"を()()()()()()の? ――傷つけた人間への"復讐"を手伝うことで」


 深月の想いを受け止めたい――。

 蛍の強い覚悟と祈り。

 そして、唯一無二の家族である深月を想う痛みに、薄氷の瞳に切なさの亀裂が浮かび揺らぐ。


 「それは……また興味深い見解だね。何故、そう感じるんだい?」


 対照的に、冬空色の眼差しは悦びも悲しみすら映さずに、宙を虚ろに彷徨(さまよ)っていた。


 「深月兄さんの関わった犯罪者達……石井被疑者やレギンだけじゃないわ。E・Cも皆、被害に遭った過去と"心の傷"を抱える者の巣窟」

 「その通り。E・Cもレギン達も皆、人間の身勝手な欲望を満たす道具として利用され……あるいは、自分の存在価値を正当化するための生贄にされた憐れな羊」


 蛍なりの事件への見解に対して、やはり深月はどこまでも透明な眼差しで耳を傾けている。


 「同時に、偽りの正義と善意で成立している社会から漏れ出した、醜い罪と悪の(うみ)そのもの」


 途中、深月は蛍へ解説をするような口調で、E・Cの存在意義やその悪しき存在を生み出した社会を揶揄(やゆ)した。

 深月の怜悧な言葉の一つ一つは、蛍の胸へ氷柱のように突き刺さった。


 「E・Cを"悪"だ、と一方的に糾弾し、彼らの大切なものを奪った人間達に―― E・Cを救おうとしなかったこの"社会そのもの"に()()()()()

 「っ――」

 「蛍……彼らの"声なき叫び"も痛みも、()()()()()()()()()()()()()じゃないか?」


 虚を衝かれた蛍の瞳は悲痛に見開く。

 E・Cの声なき痛みと叫び、怨念と復讐。

 それらを理解したうえで、深月は彼らを唆し、犯罪を幇助(ほうじょ)した。

 深月は蛍の複雑な心境と過去すら抉り出そうとする。

 己の罪深き行為への肯定と同意を求めるように。


 「っ――()()()()は――」


 深月が示唆しているのは、蛍にとって遥か遠い過去――。

 実母・『朝子(あさこ)・櫻井』による"虐待と育児放棄"だ。

 当時五歳だった幼い蛍は、実の母親によって存在を否定され続け、命そのものを憎まれた。

 暴力と死と絶望の汚泥に溺れ浸かるような日々だった――。

 今は顔すら思い出せなくなった実母との日々を思うだけで、蛍は脳天を焼鏝(やきゴテ)で貫かれるような眩暈(めまい)と頭痛に襲われた。

 しかし、今だからこそ、肯定はできないが()()()()()()()()()

 かつて子どもだった蛍の命、その存在価値を苦痛と飢餓をもって、完膚無きにまで傷つけた――。

 許され難いその"罪"は、蛍の実母一人に背負わせてはいけなかった。


 『……愛しています……あなたを愛している……ずっと、愛している……!』


 幼き蛍の耳朶を満たしたのは、決して慈しみや母性愛ではなかった。

 深月の失踪後、櫻井の姓に戻った蛍が独自に調べた際、或る"時日"は判明した。

 蛍を虐待・育児放棄の末に命を落とした蛍の実母は、いかに()()()()()()のか。

 蛍が生まれる前、母は唯一人"愛を誓い合った男性"と離れ離れになった。

 愛する男性との間に授かった生命を、たった独りで育む空虚と寂寥(せきりょう)

 夫と呼ぶことすら許されない相手への愛で凝り固まった身と心を、ひたすら擦り切らせていくだけの日々。

 二度と会うことすら叶わない男性へ死ぬまで焦がれ続けた母の愛と孤独は、誰にも理解されなかった。

 母を嘲笑う孤独の地獄は、やがて母を精神的な死へ追いやった。

 やがて、肉体的な死を()》に母は憎悪と悲嘆をまき散らして終わった。

 今思えば、母の愛した男性が母を捨てなければ――母を迎えに来てくれていれば。

 あるいは、せめて親族や職場の人間が母を罵り、嘲笑い、搾取した末に追放しなければ――。

 せめて、生命の鼓動が弱まるより早い段階で、児童救済相談所が駆けつけたのなら――。

 ただ、我が子を虐待する冷血な母親と見なさず、誰かが母へ手を差し伸べていれば――。

 あんな非業の最期を遂げることはなかったのかもしれない。

 たとえ、親子の愛と絆を修復することは叶わなくても。

 今更無意味だと理解していても、そんな想像をせずにはいられない。

 幼き日の蛍もE・Cと同様に、"傷つけられた子ども"だった。

 蛍を傷つけた実母もまた、社会から排斥された被害者。

 かつての蛍が背負った過去の古傷を、わざわざ(ひら)いてまで、深月の訴えたい事。

 その正体を蛍は意を決して問いかけた。


 「……その人達の"声なき叫び"を拾い上げ、傷ついたまま独り腐る果てる終わりを待つしかなかった彼らに、復讐の機会と力を与えたのは、深月義兄さん――社会と他人に傷つけられた"かつての子ども達"を、あなたはただ()()()()()()の?」

 「……」

 「憶測でしかないけれど、私の正義を叶えるために……そして『師走小学校殺傷事件』で犠牲になった子ども達の無念を晴らすために――義兄さんは、汚職の公務職員や加害者達を襲ったの?」


 二十年前、尊い児童の命が奪われた痛ましい殺傷事件。

 無情に奪われる命の絶叫と血飛沫の惨劇。

 そして、愛する者の命と日常を奪われた遺族の悲嘆。

 血と哀しみに濡れた"悲劇と地獄"を、その渦中で、たった九歳だった深月は幼くして目の当たりにした。


 「……へえ、あの小学校事件のことも、よく調べたものだ」


 一方、あの痛ましい事件を言及しても、深月の声も微笑みも、感傷すら感じさせなかった。

 それでも事件当時とその後、義兄を苛んだであろう血と死の記憶と恐怖。

 幼きその心情を想像するだけで、蛍は過去の深月を抱きしめてやりたいほどの痛みを覚えずにはいられない。


 「覚えている? 深月義兄さん。私が警察官になる夢を語った時の事」


 蛍と深月の対話は、一定の平行線を保ちつつも、核心へと着実に近付いていた。


 「忘れるはずがないよ。君は僕に言った。悪質な犯罪から、子ども達の"命も笑顔も"守りたい。かつての君や、犠牲になった子ども達のように、悲しい想いをする人が少しでも減ってほしい。誰かを守れる"強さ"が欲しい――と」


 数年もの間に、人の心を弄ぶ犯罪者へ変貌した義兄。

 しかし、かつて蛍の語った夢を、その純真な理想を、深月は零すことなく記憶してくれていた。

 正義と秩序をもって、人々の命と笑顔を犯罪から守る警察官。

 迷える人々の心を導く心理療法士(セラピスト)

 たとえ手法や立場は違えど、誰かの命と幸福を守りたい――共通する目標と理想、価値観を胸に生きてきたはずの蛍と深月。

 しかし、傷ついた人間の心を理解し、より良い生き方を模索する手助けを担ってきたはずの深月が辿り着いた結論は……蛍の在り方と真っ向から対立していた。


 「深月義兄さん……本当に"悲しい"わね。殺傷事件のことすら知らなかった私なんかじゃ、義兄さんの気持ちを理解できないのかもしれない。でも、あの事件で多くの命が目の前で奪われことも、深月義兄さんにとって怖くて、苦しくて、悲しかったでしょう……?」

 「……」

 「家族としても、心理療法士としても心優しかった深月義兄さんだからこそ、私の夢と理想を応援してくれた。だからこそ、知りたいの。義兄さんも私も、互いの理想と正義に大きな違いはなかったはず。それなのに」

 「蛍……」

 「どうして()()()()()をしたの――?」


 社会と法律では、そこから狭間へ零れ落ちた人々は救えない。

 人間の手で管理される社会と法律では、"真なる悪"を裁くことはできないのだ、と。

 一体、二人はどの時点から道を違えてしまったのか。

 たとえ、その手が罪と血で穢れても、深月の胸には蛍の存在、彼女の純真な理想が残存していた。

 その揺るぎなき真実に、蛍は薄氷の瞳が揺らぐのを抑えきれなかった。

 蛍を見つめる深月の瞳にも、どこか切ないような、困った色が揺らめいている。

 たまらず、深月も蛍の名前を呟いていた。


 「誰かの命を弄んで、奪って、自分が傷つけられた以上に相手を傷つける……そんな方法じゃ、誰も笑顔になれない。結局は誰も救うことはできないわ……」

 「それは……」

 「深月義兄さん……っ。"()()()"一体何が起きたの? やっぱり『師走小学校殺傷事件』が、あなたにこんなことをさせたの……?」

 「蛍、お前……」


 普段は氷のような雰囲気を崩さない蛍が、ここに来て初めて悲痛な想いをほとばしらせる。

 氷の破片さながら、鋭くも切ない哀しみに瞳を揺らし、ひたむきに言葉を紡ぐ蛍の姿に光も息を呑んだ。

 たとえ、大好きだった優しいその手が罪に濡れてしまったとしても、深月を――たった一人の大切な家族を、蛍は最後まで信じていた。

 もう、全てが手遅れだとしても。

 深月の罪とは、彼自身に宿っていた優しき理想と正義が暴走した悲しき"結果"だ、と。

 そして、人々に慕われた心理療法士(深月)に芽生えた決定的な変化、そして蛍との離別をもたらした理由――真相は児童殺傷事件の悲劇、と"あの日"にあるのだ。

 深月が音沙汰もなく忽然と姿を消してしまった、"あの日"――『冬の殺人火事件』の真実を知れば。

 深月の失踪と変貌の理由も、復讐幇助の道へ堕ちた彼の心を救う方法が見つかるのかもしれない。


 「どうか教えて、深月義兄さん。たとえ、あなたを逮捕してからも、義兄さんの想いも痛みも全て、私だけは受け止めるから――っ」


 蛍は深月へ手を差し伸べながら、真実を知りたいと訴える。

 薄氷の瞳には、刑事官の威厳よりも、義兄を心配するひたむきな義妹としての想いが濡れ揺らめいて。

 深月は自分の白い手を重ねるように、蛍の手を優しく握った。

 闇氷に閉ざした心へ差す陽光に応えるように。


 「蛍っ」


 蛍に触れた深月を見た光は、咳き込むように弱々しく激昂するが、今の蛍と深月には届かない。

 温かい雪に包まれたような懐かしい感触に、蛍は勢いよく深月を見上げた。

 さらに深月は、蛍のもう片方の手も(すく)い上げ、そっと握り返した。

 蛍は軽く驚いて見せるが、雪のように滑らかな深月の両手付きは、ひどく優しい。


 「深月、義兄さん――っ」


 希望に澄んだ声で呼んだ蛍に、冬空色の瞳は至福の色を浮かべて優しく微笑んだ。

 そして、深月が蛍に向かって咲かせた"微笑み"に浮かぶのは、絶望や憎悪、悪意と嘲笑といったものではなく――。


 「蛍、特別な理由は……()()()()()――」

 「え――?」


 蛍への執着から咲いた、どこまでも無垢で優しい微笑み。

 蛍をひたむきに映す瞳も、彼女以外の全てを"無価値"と廃する透明な冷たさを帯びている。

 "何もない"、と零した深月の真意を掴み損ねた蛍は呆然とする。


 「目の前の真実を人は理解していながらも、何らかの理由をつけて"合理化"する。あたかも矛盾のないように」

 「義兄、さん?」

 「蛍は、何か()()()をしているようだから、はっきり言うよ」


 戸惑いを隠せない蛍に対し、深月は子どもをあやすように柔らかな口調で語りかける。

 しかし、深月らしい無垢な微笑みも優しげな話し方すら、むしろ心臓を鷲掴みにされるような悪寒と不安を蛍に増長させた。


 「レギンや二郎・石井達、そしてE・Cに復讐の手助けをしたのも、君の後輩を殺したのも全ては……蛍の正義と理想のためでもない――"利用できる全てを利用した(駆使した)"――それだけの話だよ」


 深月の言葉は冬気のように蛍の耳を通り抜けていく感覚がした。

 それでも、残酷な事実を容赦なく奏でる"意味"は否が応でも伝わる。

 清冬の空気さながら澄んだ声と台詞には、冷徹なまでに嘘偽りも冗談もないからだ。


 「深月、義兄さん……? よく分からな……」

 「()()()だってそうだ」


 さらなる言葉(事実)は、動揺する蛍の胸へ氷柱のように冷酷な楔を打ち込んだ。


 「叔父さんも叔母さんも、そこに偶然居合わせた男も――()()()()()()()()()()()


 蛍の凍えた唇は「嘘、信じたくない」、と声にならない悲鳴に震えていた。

 床に伏せている光もまた、深月の衝撃的な告白に動揺を隠せない様子だった。

 光は瞳に映る深月を義憤の炎で灼かんとばかりに強く睨みつける。

 しかし、透明な冬空色の双眼は、あくまで蛍のみをひたすら映す。

 光の義憤も虚勢も全て無意味だ、と排斥するように。


 「嘘、じゃないんだよ、蛍。あの日の時点で、叔父も叔母もあの男も――僕にとっては全て"邪魔な存在"だった。だから殺した」


 聞き分けのない幼子を憐れむように微笑む深月は蛍へ語りかける。

 蛍の声なき悲鳴、零れない涙を掬い上げるように優しい手付きで彼女の頬に触れながら。


「あの家に火を放ったのは、"証拠隠滅"を図るため。それからぼくは車を盗んで遠くへ逃げた。あの男は一度攫ってから、レギンに()()させたけどね」


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