『長き夜を凍てし雪月』③
「……何だと?」
心傷ついた人間を氷のような復讐心で麻痺させ、利用する冷酷な狡猾さで罪を重ねてきた。
そんな男の台詞とは思えないほどに、どこか切ない感情を揺らめかせた深月に、光は一緒言葉を失った。
「君も聞いているとは思うが……子どもの頃から、僕と蛍はずっと一緒だった。僕にとって蛍は、何にも代えられない存在。蛍にとっても、僕は唯一無二の存在だ。今でも、ずっと僕を想ってくれている」
もう一度、蛍と共に生きるため――そう呟いた深月の声は、嘘偽りのない愛情と執着に澄んだ色を揺らめかせて。
唯一無二の家族を大切に想う、"ごく普通の人間に"しか見えないほどに。
「そんな二人が、もう一度昔のように一緒にいたいと感じるのも……その"障害"となる存在を徹底的に"排除"することも、ごく自然なことだとは思わないかい?」
蛍に灯す切ない愛情と執着は本物だろう。
しかし最後の発言こそ、目的には手段すら厭わない冷徹さと利己的な考えがある。
冷然と微笑むこの男から、今まで自分が犠牲にしてきた者への罪悪感は欠片も感じられない。
「……! ふざけたことを言うな。それなら何故、お前は数年前に蛍の前から姿を消した?」
蛍への愛情を吐露する深月に一瞬絆されそうになった。
しかし、この男に関する一つの揺るぎない"事実"は光の目を覚ました。
「蛍の気持ちを考えるなら、何故あいつの傍にいてやらなかった? こんなふざけた犯罪ばかりに手を染め、罪のない人達を傷つけてまで」
「……そうだね。数年ぶりに蛍と再会し、共に過ごした"あの三日間"。僕にとっても、何にも代えがたい幸福な瞬間だった。本音を言えば、あのまま蛍を帰したくはなかった」
揺るぎない愛情と柔らかな慈しみを唯一人へ捧げる一方、目の前の生命を容赦なく凍て殺す冷酷無比な知性――。
相反の性質を併せ持つ深月は、清雅なでありながらも万物を冷徹に凍りつかせる"真冬の神"を彷彿させる。
「なら、答えろ。あの時、お目は蛍を三日間も攫った。だが、何故あえて警察署の前に帰した?」
己の戦慄を振り払おうと、光は深月との対話を強気に続ける。
今投げかけた光の問いも、以前から抱いていた小さな疑問の一つだ。
「いずれは、必ず蛍のほうから僕のもとへ帰ってくる――だから、一旦君の元へ送り帰した。それだけさ」
蛍が自ら望んで深月のもとへ帰る――有り得ない。
またしても、意味不明だと光は言葉を失った。
「常に傍にいることだけが"愛"とは限らない。二人の愛を守るためには、あえて"離れる選択"を迫られることもあるのさ」
暫く数秒は呼吸も瞬きすら忘れて、深月の台詞の真意を探ろうと耳を傾けた。
「っ……戯言ばかり言いやがって。卑劣な罪を犯したお前は、必ず俺が逮捕する。蛍を、お前の思い通りになんかさせない!」
「まったく、その通りだね」
途中、光は聞くに堪えないとばかりに激昂した。
しかし、相変わらず深月は薄氷の水面さながら揺るがない。
「蛍が望んで僕のもとに来なければ意味がないんだ。僕が愛するのは、己の揺るぎない意志を持つ蛍の"心の美しさ"――彼女自身にこそ価値があるんだ。だから僕は蛍が欲しいし、蛍しかいらない」
「貴様」
「蛍は――僕だけのものだ」
「黙れ。蛍は蛍だ! あんたのものでも、ましてや誰かの所有品でもない」
深月が恍惚と奏でた聞き捨てならない台詞に、光の心は怒りに爆ぜた。
深月の激しく糾弾する中、光は蛍のことを想った。
普段は冷静沈着で凛とした姿勢を崩さない氷のような蛍。
しかし心の奥ではずっと、行方不明だった義兄を忘れる事なく、ずっと無事と再会を祈っていた。
しかも、その大切な家族が凶悪犯罪へ手を染めていることに胸を痛めていないはずはない。
社会正義と一般市民のために警察官の役目を果たしながらも、深月を救うために最善を尽くす。
己の痛みすらも顧みずに。
「あんたのほざく蛍への想いも、決して愛じゃない。ただの執着だ!!」
誰よりも真っ直ぐで健気な蛍のことを、この男がちゃんと考えているとは到底思えない。
しかも、蛍を己の所有物と見なす口ぶり。
自分が張り巡らせた策謀の蜘蛛糸で蛍を狡猾に絡め誘おうとした。
そのくせ、蛍の主体的意志を尊重するとほざく、あまりに矛盾した言動。
深月の全ては光のあらゆる神経を逆撫でし、血液が灼けそうなほどの怒りへ掻き立てた。
特に深月の台詞の端々から感じ取れる、蛍への尋常ならぬ執着――その正体を、光だけは既に見透かし、空寒いものを覚えた。
形は違えど、蛍という同じ女性を想う者同士だからこそ、深月の歪んだ感情を敏感に察知できた。
「僕への不満を喚くのは自由だ。しかし、今の君にできることは何もない。あるとすれば、蛍がここに来るまでの間、僕の"退屈しのぎ"の相手をするくらいだろう」
殺伐とした空気の中、光は銃口を決して逸らさない。
一方深月は、むしろ、散歩するような優雅さで光の闘争心を一層煽ってくる。
深月の余裕は、光の弾丸なんか決して貫かせない――そう錯覚させるほど、まさに超越的な"冬の神"さながら静謐に冷え渡っている。
「生憎、俺は暇じゃないんだ。蛍が到着するよりも早く、ここで今すぐお前と決着をつけてやる。蛍には手を出させない」
「ふふふっ……君のその言葉、そっくりそのまま返そう。蛍への手土産として、まずは君から先に消してあげるよ」
光と深月の双方は、互いの存在を瞳に映す。
静謐の炎と義憤の炎。
相反する感情と共に蛍の存在を映す瞳は激しくぶつかり合う。
「臨むところだ! 蛍の気持ちを顧みないお前に、蛍は決して渡さない。蛍は俺が守ってみせる――!」
静謐の月のように微動だにしない深月へ向かって、まずは銃を構えた光は駆け出した。
双方の距離は手を伸ばせば触れる位置まで縮まる。
瞬間、機の熟した花が開くような微笑みは深月の顔にじわりと咲き広がった。
ルーナシティの平和と市民の命運、そして唯一人の女を巡る双方の闘いは、凍てつく秋の月下で幕を開いた――。
*
透明な隔たり越しに秋の朧月夜で満たされる多目的広間。
対峙する"三人"の抱える感情は、炎のように激しく交差する。
ルーナシティでの惨劇の黒幕である義兄を止めるべく、蛍は彼との思い出の眠る夜の満月図書館へ、一人で足を踏み入れた。
しかし、己の社会正義と家族への愛情という葛藤に引き裂かれそうになる中、氷のように固く澄んだ覚悟を胸に赴いた蛍を待ち受けていたのは――。
「まさか、深月義兄さんがやったの?」
「やった、とは……果たして、どれのことを指しているのかな。蛍」
昔と変わらない柔和な微笑みは、深月の美しい顔にふわりと咲いた。
蛍を歓迎する深月の足下には――苦悶の表情で血を流しながら、床に這いつくばるように倒れ伏せる恋人の姿。
光の無残な姿を映す蛍の双眸は、信じられないと動揺に震える。
そもそも光は如何にして、蛍よりも先に深月の居所に辿り着いたのか。
それとも、蛍の知らない間に、深月は何らかの罠で恋人の光をおびき寄せたのか。
いずれにせよ、あの「再会の三日間」にて、深月が光の存在を言及した時点で、蛍は密かに抱いていた一つの懸念。
案の定、蛍の嫌な予感は今まさに現実となって的中した。
一方、今の深月は足下にいる光の存在がまるで見えていない素振りだ。
冬に燃える炎のような感情を静かに揺らめかせる瞳は、蛍の存在のみを忠実に映していた。
蛍は動揺を抑え凍らせながらも、冷徹に問い詰めた。
「E・C ――かつて隠蔽された犯罪の"未成年被害者"だった人達の集まり。その加害者への復讐を唆し、裏で糸を引いていたのは、サイトの管理人スノームーン――つまり、深月義兄さんなのね?」
「その通りだよ」
「十三美術館の爆発と人質立て篭もり事件に乗じて、ルーナ警察署のコンピューターまで乗っ取り、クレセントとニュームーン、ギバス三区での安全装置故障と通信障害を起こしたのも、義兄さんの意思で間違いないのね……?」
「どういうわけか、僕は昔から優秀な才能と専門性を備えた"援助者"に恵まれているんだ」
ルーナシティ中央区域を混沌と恐怖へ陥れた黒幕は自分だ、と深月はあっさり認めた。
深月の言及した"援助者"とは、恐らく彼が糸を引いてきた犯罪の"共犯者"と同義である。
今思い返せば、レギンのように強靭な肉体と残虐性を活かした殺戮能力に始まり、警察の包囲網すら乗っ取るクラッキングと変装技術など、大掛かりで巧妙な手口ばかりだ。
決して深月単独では成し得ない、非常に高度な専門技術が要求される。
満月図書館で蛍を待っていた深月自身、もしくは彼の"援助者"はクラッキングによる遠隔操作でルーナシティ大三区の安全装置と通信機能を侵蝕した。
元凶たるクラッキング、と電子病原毒を解除すれば、警察署本部と中央区域の安全・通信機能は復旧する。
そのためには、目の前の深月を倒すことが最優先事項となる。
「蛍が今何を考えているのか、その氷のような瞳越しでも分かるよ。僕を封じた後、如何にしてルーナシティ大三区域と警察署のクラッキングを解除させるのか……そうだろう?」
薄氷の眼差しで深月へ焦点を定める蛍の胸の内を見透かしたらしい。
深月は双眸を微かに細めながら、まさに蛍の思考を代弁した。
「分かっているのなら、その忌々しいクラッキングを解除してくれる? それとも、その方法を教えてくれるのかしら? 深月義兄さん」
「焦るのも分からなくはないが、せっかくまた会えたんだ。もう少し会話を楽しまないかい?」
「生憎、義兄さんの話に付き合っていられるほど、私はもう暇ではないの」
戯れるように会話をする深月に対して、蛍は冷然とした返答と要求を零す。
一見冷静沈着で強気な蛍の態度に深月は肩を竦めるが、やはり冬空色の瞳は揺るがない。
「そうなのかい? てっきり、今はコレのことで君は内心ひどく焦っている、と思ったのだけれど」
「蛍、に、逃げ……ろ……がはっ」
深月の足下でうつ伏せに倒れている光は、精一杯の警告を吐いた。
光は床に手を付けると、激痛に軋む上肢から懸命に起こそうとする。
顔面に浮かぶ赤紫の創傷や腫れはひどく痛々しく、見ているだけで蛍の胸にも別種の痛みが波紋した。
しかし、顔を上げた光の瞳には、苦痛に耐え忍びながらも、大切な人を守ろうとする絶対の意志が燃えている。
己の身よりも蛍のことを第一に案ずる光の愛情と勇敢さに、蛍は胸を打たれると同時に、焦りが湧きあがる。
蛍自身は既に"悟っている"のだ。
"義兄であって義兄ではない"男は、光の勇気も優しさもその命ごと平気で踏みにじるのに迷いがない事を。
蛍の悪い予感は的中し、深月は床に這いつくばる光の背中を思い切り踏みつけた。
平静を装ってきた蛍の焦燥と恐怖をあぶり出すために
「ぐっ! あぁあ……っ!!」
「! 光……!」
肋骨を痛めた背中へ直撃した容赦ない踏みつけに、光は微かな血と共に強い苦悶を漏らした。
目の前で恋人を痛めつけられる光景に、さすがの蛍も彼の名前を悲痛に叫んだ。
「これ以上、光に手を出さないで! 深月義兄さんっ。どうして、こんなひどいことを。早く、手当しないと」
「何も心配いらないよ、蛍。彼の方から僕へ、少しばかり嚙みついてきたからね。君を待つ間の"退屈しのぎ"だったのさ」
「何を言って……」
「血のせいで傷は派手に見えるが、急所は避けてあげた……蛍に免じて、彼はもう暫く生かしてあげるよ」
逃げろ、と告げるのが精一杯の光を真っ先に心配せずにいられなくなった蛍に対し、深月は至極穏やかな態度のままだ。
不安に震える子どもをあやすような口ぶりで、蛍を安心させるつめりの言葉を紡いだ。
しかし、深月の場にそぐわない穏やかさは、かえって蛍の不安を増長させた。
つまり、蛍の態度と深月の気まぐれ次第では、光の呼吸と心臓は"永遠に"閉ざされることもある――。
温和な声で紡がれた台詞は、遠回しの"脅し"とも捉えられた。
蛍の胸に宿る痛みや焦り、弱点すら、深月は全てを見透かしている。
そのうえで、蛍の心の最も脆い部分を容赦なく抉ってくる。
たとえ数年を経ても、深月義の透明な眼差しからは決して逃れられない。
冷凛とした"氷の戦女神"の警察官も、深月の眼差しと智力の前では形無しと化す。
「深月義兄さん、やっぱりあなたが」
「そんなことよりも、僕は蛍の今の気持ちを……君自身の"答え"を早く聞きたいな」
「何のことを」
「そのためだけに、僕はこの瞬間を――君をずっと待っていた――」
蛍は恐怖と痛みに耐える祈りから、無意識に胸へ手を当てる。
数年ぶりの蛍の気弱な姿を、深月はどこか恍惚とした眼差しで見つめる。
後輩の香坂刑事官の殺害を自白した時と同じ表情だ。
冬のように虚ろで透明な眼差しには、何の躊躇も痛みも映らない。
その眼差しを見ただけで、蛍は瞬時に理解できた。
今ここで深月を止めることが叶わなければ、より多くの人間は傷つけられ、彼は罪を塗り重ねる。
最悪、深月の足に押さえ付けられている光まで、香坂刑事官と同じように――。
深月を止めるために、今自分の取るべき最善の行動は何なのか。
否、己へ問うまでもない。
「動かないで」
氷柱のように滑らかな手に握られた拳銃。
無機質な銃口は、悠然と表情を崩さない深月へ正確に焦点を定めた。
蛍が第一に選んだ行動は、警察官としての使命を果たす――それに尽きる。
「ほう、なるほど。まずは"刑事官"としての役割を果たすのか、蛍は」
深月の冬空色の瞳は、興味津々とばかりに小さく見開かれた。
「深月・斎賀――不法侵入、傷害罪及びに公務執行妨害の現行犯で、あなたを逮捕します。他にも、殺人及び教唆・幇助等、E・C事件に関する数々の嫌疑があります。大人しく同行しなさい」
"氷の戦女神"と畏敬される刑事官――冷凛とした顔つきに戻った蛍は、氷色に澄んだ声で深月を牽制しようとする。
「いくら、蛍からのお願いであっても、それはできないな」
「これは"命令"よ。抵抗するというのならば――」
「僕を撃てばいいよ。蛍の弾丸なら、僕は喜んで受けよう」
「!? 何を言って……っ」
蛍が"氷"であれば、深月は"雪"のようだ。
いかなる言動にも揺るがず、雪のように柔らかく受け止める態度。
氷柱のように冷徹な蛍の牽制にも深月は臆さなかった。
さすがの蛍も、氷の刑事官としての仮面が再び揺らぎそうになる。
それでも、蛍は氷柱のように尖った眼差しと共に銃口を向ける。
単なる脅しではないことを伝えるために、蛍は深月へ慎重に歩み寄る。
「至極単純な話だよ、蛍。君が本当に僕を止めたければ、その銃で僕の胸を貫けばいい。だが、再会した時にも"予告"した通りだ……蛍」
深月との距離を段々縮めても、深月の表情は崩れない。
それどころか、白い翼のような両手を左右に広げながら挑発すらしている。
それでも、銃口を向けられるという殺伐とした光景――にも関わらず、深月の仕草も表情も、愛しい我が子や妹を迎える家族のような雰囲気すら纏っている。
「君は――決して、僕を殺せない――」
銃口を深月に向けたまま凍りつく蛍を映す冬空色の瞳。
恐怖やハッタリは決して感じられず、奥には恍惚とした炎すら灯して。
蛍は戦慄で呼吸まで凍りつきそうになる。
「っ――……」
冬の白い荒野さながら、どこまでも虚ろに澄んだ瞳で世界を見つめる――深月は目の前に在る人間だけでなく、己の命すら勘定に入れていないのだ。
目の前にいる人は、確かに敬愛してきた深月義兄さん。
そのはずなのに、まるで知らない人のよう。
蛍には深月を殺せない――以前も耳にした台詞は、この状況ならある意味では正しい。
己や他者の生命窮地へ陥らない限り、警察官が加害者を射殺することは、過剰防衛罪の法律違反へ触れかねない。
しかし、物騒な言葉にそぐわない雪のように柔らかく澄んだ深月の声と台詞が示唆しているのは……蛍を縛る警察官の"制約"ではない。
蛍ですら、深月を止められない――つまり蛍達の圧倒的敗北の予言。
しかし、今の蛍にとって最も大切なことは、当然深月を殺すことでもない。
ましてや、清廉色に罪を隠す深月の肉体を裁きの弾丸で貫き、血の赤に染めることでもない。
蛍の義務も希望も、その答えは既に一致している。
「確かに私は、義兄さんを殺せない。けれど、義兄さんを止めることはできる。ルーナシティも、大切な人達も、私が守る――」
ルーナシティの市民を、子ども達の笑顔を守ること。
そのために自分は、社会正義に仇なす者、無辜の命を弄ぶ諸悪の根源・深月を何としても止めて――救ってみせる。
そのためには先ず――。
「先ずは、深月義兄さん――ちゃんと、あなたと話し合いたい」
「……やはり君は本当に、尊いほどに真っ直ぐで美しい。どこまでも、僕を愉しませてくれる――」
しかし、蛍も光も未だ理解っていなかった。
蛍のひたむきな祈りは、深月の心に巣窟する冬闇を満たす太陽にすらならないのだ、と――。
やがて、身を裂かれるような"絶望と別離"を再体験することになるとは――蛍も夢にすら思わなかった――。
***続く***




