其ノ十五『長き夜を凍てし雪月』①
十二月十二日、午後六時十五分頃。
数年ぶりに帰って来た『フルムーン区』は、沈鬱な静寂に包まれていた。
巷を騒がせているE・Cから身を守るための「緊急事態宣言」が出ている影響だろう。従い、住民は自宅に籠っているのだろう。
不要不急の"外出禁止"に従い、ほとんどの住民は自宅に避難し籠っている。
濃紺の秋空へ手を伸ばす樹々と木枯らしは、不気味な音を奏でる。
街を無防備に彷徨く者の恐怖を煽って嘲笑うように。
今のフルムーン区は、慰め程度の街灯のみが瞬く、まさに廃墟町だ。
「(どうなるかと思ったけれど、今はむしろ好都合だわ)」
暗い地下鉄の通路を潜り抜けた先から地上のフルムーン区へ出ていた。
幸い襲撃も気配もなく、E・Cの魔の手は、フルムーン区域とその地下には至っていないようだ。
欧風な街並みを彩る、赤褐色と黄土色の煉瓦を交差させる土瀝青の床。
土瀝青を秋色に染める木枯らしや梢をなるべく避け踏みながら足を進めていくのは唯一人。
「(まさかこんな形で故郷の区に帰ってくるとは。思わなかったわ)」
ルーナ警察署・霜月班長の刑事官である蛍・櫻井は沈着に呟いた。
蛍の目的地はフルムーン区の『国立・満月図書館』だ。
復旧の目処がない通信障害のせいで、光達と未だ連絡がつかないのは心許ないがやむを得ない。
こんな時ばかりは、既に絶滅した旧時代の遺物――公衆電話とその対価たる物理貨幣を切望した。
今回の事件にも関与している、と疑わしい人物――蛍の義兄・深月と逢う。
そして、大三区で発生中の安全装置と通信障害の元凶を断つ。
事件解決となる鍵は、国立満月図書館にあるはずだ、と蛍は目星を付けた。
自宅で記録資料を分析した結果、得られた確信を蛍は私用電話で光へ伝えようした矢先――自宅の番犬機械人形も、住居登録IDで管理された防犯装置の扉を破壊された。
蛍の住居を突き止めたE・Cの人間達は強引に押し入り、彼女を捕らえようとしたのだ。
「それにしても、仕方がないとはいえ、とんだ"災難"だったわね……私も」
E・Cの奇襲に遭った際、咄嗟に身を翻したおかげで蛍自身は無事だった。
蛍の蹴り技を受けたE・Cが怯んでいる隙に、自室の窓から災害避難時用の縄梯子で降りて逃げた。
しかし、蛍の携帯電話は金属バットで叩き落とされてしまった。
仲間との唯一の連絡手段を断たれてしまった状況は、当然ながら非情に心許ない。
とはいえ、自宅ですら己の身の安全を保障できなくなった今、蛍自ら判断して動くしかなくなった。
逃亡道中、街中で暴れ巡るE・Cの眼を掻い潜り、時折今まさに襲われていた一般市民の救出にも足止めをくらいながら蛍は目的地を目指した。
E・Cの徘徊する地上で警察官一人いるだけで目立ってしまう。
E・Cの眼と追手を撒くために、蛍は全ての電車が停止中を逆手に取った。
地下の線路の闇道を走り抜け、誰にも見つからずにフルムーン区へ辿り着けた。逆手に取って、目的地のあるフルムーン区を目指した。
我ながら悪くない発想だった……とはいえ。
「真っ暗な地下線路を"人間の足"で、一時間半も走ったのは、さすがに堪えたわね……」
蛍は警察官として心技体の鍛錬を常に怠らない。
とはいえ、不慣れな険しい闇道を長く駆けた脚の筋肉は軋み、喉と胸は酸素を求めて荒ぶる。
冬へと歩む秋の夜風は、汗に濡れた蛍の身体を容赦なく突き刺す。
それでも蛍は、凍える手足に燃える血液の肉体へ鞭打って前へ進む。
もうすぐ、そこにあるはず。
フルムーン区の駅辺りから地上へ出て右方向。
銀杏の樹々とと深緑色の街灯の並ぶ煉瓦道を進んで、約十五分――。
「懐かしいわね……」
懐かしむ郷愁を吐露した蛍の瞳に、目的の「国立満月図書館」の正門が映る。
子どもの頃に深月義兄さんとよく訪れ、時折待ち合わせ場所にも利用した馴染みの図書館。
生まれ育ったこの区域を離れてから、まだ数年程しか経っていない。
けれど、大人になって久しぶりに訪れたせいか、大きな図書館は昔よりも小さくなったような錯覚へ陥る。
『本日休館』の札は立っていたが、蛍は構わず煉瓦造りの塀をよじ登ろうとした。
頑丈な長靴に守られた片足を上げ、煉瓦の隙間へ引っかけた矢先。
「――おいでなさいって、事かしら」
固く閉じたはずの漆黒の門扉は、キィッ……と不気味な音を奏でながら勝手に開いた。
夜の不法侵入者である蛍を歓迎するように。
つまり、定休日で無人であるはずの図書館の中に、もう一人の侵入者が一足先に潜んでいる証拠。
恐らく、館内の安全管理装置を掌握し、監視カメラ越しに蛍の姿を窺っているに違いない。
もしも蛍の推理が正しければ、深月・斎賀は今もこの懐かしき場所で、彼女を待ちわびている。
何らかの特別な"期待"を蛍へ寄せ、一見昔と変わらない微笑みを咲かせて。
ここは既に敵の腸と同義だと実感する中、蛍は意を決して者の向こう側へ踏み込んだ。
次に石畳の道を進み、玄関扉の黄金の月と太陽の取手を掴んで入る。
しかし、蛍が出入り口を通り抜ける度に、バンッ……! と背後の門や扉がひとりでに閉じる不気味な音は、心臓を後ろから掴まれるような緊張感を与えた。
しかし、こんなことで怖気付く事はない。
既に覚悟を決めている蛍は薄氷の瞳を揺らさずに、ただ前だけを見つめた。
荘厳な夜の闇と静寂に満ちた図書館内へ、蛍自身を溶け込ませた。
あまりの懐かしさのせいか。
久遠の夜の"夢"へ沈んでいくように奇妙な感覚がした。
久しぶりに訪れた館内も、やはり大人になった蛍の瞳には一回り小さく映る。
そんな錯覚を除けば、壁のシミも家具の位置すら、"あの頃"とほとんど変わっていなかった――義兄の深月と同様に。
館内は一階から三階までが吹き抜け構造で、どの階からも他所の階層が展望できる。
中央の床から天井には、巻貝を彷彿させる螺旋階段が昇り建っている。
透明硝子の天蓋からは、朧満月の淡い光は降り注いでいる。
まるで、幻想的な夜の夢を彷彿させる美しさは、夜の図書館の支配者のみが知るだろう。
「図書館に来たら最初にする事は、"著書検索"ね……」
今は思い出と感傷に浸っている場合ではない。
深月が密かに残した「宿題」へ、蛍は「答え」を持って行き、"決着"をつけるのだ。
図書貸出所付近にて、唯一青白い光を放つ一台の箱型旧式PCは、蛍を静かに誘っている。
早速、蛍はPCを使って或る「四冊の本」の題名を検索し、印刷も設定した。
途端、音程の歪んだ歌声さながらの機械音と共に印刷用紙は抽出された。
黄ばんだ巨大豆腐のような箱型PCも、年季の入った横の印刷機と古い紙も昔と変わらないらしい。
『人間は何のために生きるのか―― 』
『世界は何故存在するのか――』
ルーナシティICT化計画の実現以降、あらゆる情報資料は電子情報へ変換、PCにて情報基盤化された。
物理的柵なき電子世界での保管と閲覧が主流となった現在、もはや紙媒体は稀有で旧時代の遺物だ。
『偉大なる先人は、己の人生と命をかけて追及した真理を"本"という形に残した――』
『"文字"とは、人と人の心を媒介するために昔から存在する重要なツール』
しかし、満月図書館に限っては、中央都市の波に流される事なく、"従来の図書館"の形態と機能を維持している。
歴史を遡れば、箱型電脳演算機も印刷機も非常に画期的な発明と謳われたが。
格調高いチョコレートブロックのような本棚の整列は、目の前で高くそびえる。
本棚には膨大な数の本が隙間もなく詰め挟まれている。
紙の一頁ごとに凝縮された、"人類の歴史"そのものを尊ぶように。
『過去の歴史から未来を記した本を辿れば、過去と未来に生きる人間と対話をした気持ちになれる』
なるほど――そういう意味では、"人類の歴史を最も尊ぶ"のに相応しい施設だ。
『だから僕は"本"が好きだ――本は、人類の歴史と叡智の結晶そのものなんだ』
昔から、本をこよなく愛する深月義兄さんだからこそ、この満月図書館を選んだのだろうか。
人類の歴史と叡智の結晶たる"紙の本"を、今も大切に蔵書するこの場所への敬意と愛を込めて。
蛍は胡桃色の折畳梯子を使い、各階の本棚に陳列された本へ手を伸ばしていく。
自分では到底届かない本へ手を伸ばすべきか否か。
幼い頃の私が逡巡していた時も、深月義兄さんは迷いなく目当ての本を手に取ってくれた。
今思えば、深月義兄さんは私の読みたい本の在り処を"視線だけで"直ぐに見抜いていた。
時に「蛍、気を付けて」、と穏やかに微笑んだ義兄さんは、幼い私の両脇を抱えたり、肩車させたりして、高い位置の本を自分で取らせてくれた。
目的の本を一つ手に取っていく度に、義兄との優しい思い出は蘇る。
一つ一つは甘い火の粉となって、蛍の胸をチリチリと灼き焦がした。
四冊目の本を確保した後、蛍は螺旋階段で三階まで上がり、左側の渡り廊下の奥へ迷いなく進む。
『関係者以外は立入禁止』
『満月・多目的広間』
雪色に染められた百年もの風の扉を発見した。
扉の室内は読書会や地域の祭事等にのみ利用される『多目的広間』だ。
現在使用不可であると示す立札を無視して、蛍は扉の横にある視線を移す。
扉の施錠と管理のために搭載された『ID読取機』。
蛍が読取機の真下に記された図書館の管理責任者の氏名を見つけた瞬間――心の中で霧散していた図の欠片はようやく揃った。
「満月図書館・第二館長兼管理責任者……幸助・小笠原大臣」
蛍がネットで検索した満月図書館の公式サイトには、館長と管理責任者の欄に小笠原大臣――『第一猟奇殺人事件』の被害者の名前が載っていたのだ。
「彼の遺体の怪文章も、財布から盗まれたIDカードも、全てはこのためだったのね」
小笠原大臣を殺害後、犯人は彼の財布からIDカードのみを盗んだ。
満月図書館の管理責任者でもある小笠原のIDカードから、この扉を自由に開けるための"暗証番号"を知るためだ。
己の推理が確信へ至ったとはいえ、蛍の心には暗澹たる雲のような感情が立ちこもる。
きっと今も、深月は誰も滅多に立ち寄らない多目的広間に潜伏している。
E・Cへ遠隔指示を仰ぎ、クラッキングらしき手段で大三区の安全装置、と警察署本部のコンピューターシステムを破壊し、人々と街を翻弄している。
何故、あえて思い出の地である満月図書館を選んだのか。
そして、自らの力で義兄へ辿り着いた蛍を招いた後は、一体何を企み望んでいるのか。
数年ぶりの再会を果たして以降、蛍の心は常に迷走している。
義兄の思考も感情も、真意も目的すら、蛍には未だまるで理解できないのだ。
「深月義兄さん……いえ、あなたは一体、何を求めているの……っ?」
一体何の"目的"があって、深月義兄さんは"罪"を犯していくのか。
幼かった私をいつも撫でてくれたあの温かい手を――彩りの物語を紐解いた、初雪のように優しい指を――"人殺し"の血で染めてまで。
そして、義妹である私に何を望むのか。
心傷ついた人々を狡猾に操り、弄んでまで。
連続猟奇殺人事件から始め、E・C事件においても復讐を教唆し、惨劇を幇助する"冬影の犯罪者"――。
今この瞬間を逃せば、深月の目的と真意を知る機会は、恐らくもう舞い降りない気がした。
「決着をつける場所はここで間違いないのね?」
深月・斎賀という人間そのものの"歴史"を紐解いても尚、未だ謎めいたその"心"を、義妹である私に理解ってほしい。
案外、義兄さんはそれも一つ望んでいるのかもしれない。
もし、そうであれば私は――私が行かなければならない。
これ以上、誰かが傷つき、尊い命まで犠牲になる惨劇を収束させるために。
犯罪者へ堕ちた義兄さんを救うために――。
「サルトルの『存在と無(三四五)』。ニーチェの『善悪の彼岸(二八八)』、キルケゴールの『死に至る病(四五六)』。そして……」
蛍の読み上げる三冊の題名は、連続猟奇殺人の被害者三名の遺体にあった怪文章――その引用元となる著書。
三冊から"鍵穴"は構築される。そして。
「『ヴォルスンガ・サーガ(五三二)』――」
最後の四冊目が揃って、初めて扉は開かれる。
そう解釈すれば、多目的広間へ繋がる「四つの暗証番号」は揃う。
暗証番号を完成させるために決して欠かせない四冊目――『ヴォルスンガ・サーガ』を、唯一人知る者あり、"鍵を持つ者"こそは、蛍だ。
そして、手紙にわざわざ"鍵の頭"と綴られていたのにも、必ず意味はある。
「第一事件の『存在と無』は、登録番号の一桁目の『三』……第二事件『善悪の彼岸』は『二』、第三事件『死に至る病』は『四』……」
四冊の背に刻まれた登録番号を、猟奇殺人事件の順番に「番号の頭数字」を四つ並べる。
四冊の本から「四桁の暗証番号」を推理した蛍は、読取機の入力画面を震える指でそっと触れていく。
「そして『ヴォルスンガ・サーガ』は、四桁目の『五』で揃えれば……"三二四五"となる――」
脳内に刻んだ四桁の数字、指先が選んだ数字、そして画面に表示された数字は全て一致しているか。
一つずつ丁寧に確認しながら、慎重に入力し終えた後は「完了」を押した。
「――本当に、開くなんて」
認証機の画面には「承認」の文字が映っていた。
重厚な扉はゆっくり左右へ横開いていく。
深月とE・Cが挑ませた謎の答えを、見事導き出せた蛍を讃えるように。
しかし、達成感へ浸る余裕もなく、即座に蛍は護身用の拳銃を構えた。
緊張に高鳴る鼓動と共に固唾を呑むと、そっと足を踏み入れる。
蛍は周りへ神経を研ぎ澄ませながら、深月の姿を視線で探す。
「(どこにいるの……? 深月義兄さん……っ)」
幼少期ぶりとなる多目的広間も、暗証番号式の新たな安全装置搭載を除けば、懐かしいくらい何も変わらない。
多目的広間は平面図で確認すると、十字型の広い一室を半円状の硝子の天井が覆っている。
出入口から真っ直ぐ先に見えるのは、約五〇人分の座席の整列、と真紅のベルベット天幕の舞台。
広間にはもう一つの階層が吹き抜けで存在している。
細長い螺旋階段で登れる二層目は、室内を壁沿いで囲っており、広間全体を見下ろせる。
多目的広間を感慨深く見渡す最中、静かな足音は蛍の鼓膜を震わせた。まさか。
硝子天井越しに降り注ぐ月光の眩さ、と融け合う夜闇が視界を霞ませていた。
しかし今、蛍は人の気配を確かに感じられる。
心臓へ注がれる血は灼けるように、されど身体中を巡る血潮は凍てつくほどに。
奇妙な緊張感を覚える中、ゆっくり前へ歩み寄った。
月光と夜闇に融け込むように佇む"一人の存在"のもとへ。
「やあ、蛍――」
神聖に煌めく月光の中へ、蛍自らも踏み入れる。
すると、十字路の中央でたおやかに微笑む相手の顔をようやく明識できた。
「――深月、義兄さん」
「君なら必ず来てくれる。僕は、そう信じていたよ」
月光に照らされる蛍を映す冬空色の瞳は、満足そうに細められる。
まさに悪戯を成功させた子どものように無垢で愉しげな微笑み。
それでいて、大地を清めるような雪色に耀く姿は神聖な美しさに満ちて。
「っ……どうして」
氷のような嘲笑と雪のように柔らかな熱情の溶けた瞳に映る蛍は、動揺に打ち震えていた。
一方、月照りの薄氷みたいな蛍の瞳に入り込んだのは、深月の足下にいる―― 彼のひどく痛ましい姿だった。
絶望の亀裂から動揺を零した瞳に、彼を映した蛍はたまらず悲痛な叫びをあげた。
「どうして、あなたがここにいるの? 光――!!」
蛍の視線の先には、苦悶の顔から血を流して床に倒れている光の姿。
光の左頬は柘榴色に腫れあがり、パックリ開いた額から流れる真紅の血は瞳から首筋を汚す。
肋骨をやられたらしく、胸板と腹の辺りを押さえて激痛を堪えている。
ギバスムーン区の十三夜美術館にて、E・Cの人質立て篭り事件に対応しているはずの光は、何故満月図書館にいるのか。
そして何故、満身創痍の状態で義兄の深月に押さえつけられているのか。
蛍は目の前の状況も経緯も呑み込めなかった。
一方、月夜の静寂を壊した蛍の叫ぶような声に、深月は恍惚と耳を澄ましていた。
三日月さながら吊り上がった薄紅色の唇に、歪んだ愉悦の笑みを美しく咲かせて。
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