Interval⑦
冬の前触れである、ひどく寒い秋雨空の下。
二つの無垢な命を慈しんでくれた二つの愛は、この世から消え去った。
不運という名の不条理によって。
普段と何ら変わらぬ秋色に包まれていた今日。
普段通りの時間に、普段と同じ道路にて。
秋雨の中で運転していた「斎賀夫婦」は事故で命を落とした。
道路の交差点へ入る寸前、反対車線を運転していたトラックが滑って横転。
トラックの車体と斎賀夫婦の車は激突した。
トラック運転手も、斎賀夫婦も、車内で押し潰されて即死だったらしい。
「っ……お義母さん、お義父さん……」
斎賀夫婦の死亡当時。
既に公設学校を退籍していた蛍は、家庭内勉学教師の資格を持つ義兄・深月に教わっていた。
実母に捨てられ、学校ではいじめを受けていた蛍は最初、心を閉ざしていた。
しかし、血の繋がりのない蛍に対して、斎賀夫婦は本当の親のような"無償の愛"を注いでくれた。
図書館の公務職であり、彩りの物語の本を蛍へ贈り、深月というかけがえのない"きょうだい"と巡り逢わせてくれた。
そんな敬愛なる優しい夫婦の死を、蛍は純粋に悲しんだ。
十歳を迎えた蛍と十六歳の深月を遺してこの世を去った斎賀夫婦の葬式。
哀しき喪の当日を含み、二人の亡くなった日以降、延々と降り注ぐ冷たい秋雨に凍える中。
「っ……深月、お義兄ちゃん……私」
漆黒のベルベットの喪服と帽子姿の蛍は、悲嘆の滴をひたすら零していた。
止むことのない秋雨と溶け合うように。
萎れた花みたいな皺を生むほどにスカートの裾を握り締める様。
今の蛍が胸の張り裂けそうな悲しみに耐えていることは窺えた。
「蛍……」
凍えるように震える蛍の弱々しい肩を、義兄は優しく抱いた。
蛍の隣に寄り添うのは、黒い砂丘さながら整った漆黒の背広と首紐に、雪色のワイシャツ姿の深月。
淡い冬空色に澄んだ瞳には、悲嘆の波紋も涙すら見られない。
しかし、実年齢よりも大人びた清雅な顔には見る者を切なくさせる陰りが浮かんでいる。
蛍の肩を抱いたまま沈黙に徹する深月はら虚ろな眼差しで両親の遺影を眺めた。
斎賀夫婦は柔らかな愛情と微笑みを、遺された蛍と深月へ変わらず向けていた。
「っ……ねぇ、深月お義兄ちゃんは……っ」
涙の雨で霞んでいく瞳。
零れた分だけ悲しみは降り募っていく。
それでも、辛うじて見つめる事のできる唯一無二の存在――義兄の深月を瞳から離さないことだけが、今の蛍にとってこの世に残された唯一の慰め。
当たり前に存在していた大切なものは、何か一つ間違えるだけで、いとも簡単に消えてしまう。
指先で軽く触れただけで、瞬く間に溶けて、跡形もなく消える雪のように。
蛍を「いらない子」だ、と拒絶した実母と同じように。
血の繋がりのない蛍へ、無条件の愛を太陽のように惜しみなく与えてくれた義父と義母。
なら、いつか、お義兄ちゃんも――?
隣で付き添う深月にぴったりとしがみつく蛍。
行かないで、と必死に訴えるよう弱々しくも力強い手は、どこまでも小さくて儚く映る。
「蛍……今は、たくさん泣いていいよ。僕は、ずっと傍にいるから――」
沈黙していた深月も、蛍の小さな肩を抱く手へそっと力を込めた。
蛍の静かなる不安と祈りへ応えるように。
*
斎賀夫婦の不慮の死後、彼らの"弟夫婦"にあたる「斎賀叔父」が法的な後見人となった。
しかし、四人家族でささやかな幸福に満ちていたあの家には、蛍と深月の二人だけが遺された。
大切なものがずっと傍にいるのは、決して当たり前ではない。
そんな現実を思い知らされた直後、蛍は深月の傍から片時も離れ難くなった。
深月のいない生活も未来も、蛍には想像すらしたくないくらい。
深月の隣に在り続ける未来を切望した蛍は、秋晴れの空に祈った。
"これからも、ずっと、深月お義兄ちゃんの傍にいさせて"
美しくも切ない物語を共に読む。
文字で彩られた人間の心や真理を共に学ぶ。
互いの心に触れ合いながら、世界を共有していく。
これからも、ずっと――深月お義兄ちゃんと一緒に――。
ただ、それだけで、後はもう何も望まないから。
どうか、深月お義兄ちゃんと一緒に辿ってきたこの旅を終わらせないで。
どうか、永遠に――。
「ごちそうさま、蛍。あれから随分と腕を上げたね。」
「ほんと? よかった。深月義兄さんが好きだって言っていたから、練習した甲斐があったわ」
今では蛍も十四歳になった。
お義父さんとお義母さんが秋空へ還ってから、四年もの年月は瞬く間に過ぎた。
哀しき秋雨の日が過ぎ去ってからも、二人きりの穏やかな日々は続いてくれた。
今も深月義兄さんは変わっていない。
いつも、私の傍で柔らかく微笑み、優しく抱きしめてくれる。
「ああ、本当に美味しかったよ、蛍。今までどれも美味しかったけれど、その中でも格別だった。また作ってくれるかい?」
「もちろん。えへへ、照れるけど嬉しい。もっと美味しくなるように頑張るね」
「今でも十分美味しいのに。蛍は頑張り屋だな。まあ、そこが蛍のいい所だけど」
ニ十歳を迎えた深月は、医療機関の心理療法士に、家庭内勉学制度の家庭教師という二足の草鞋を履いている。
蛍は義兄から家庭内教育を受けながら、互いに寄り添い合って生活している。
深月は十八歳の頃に心理療法士の国家試験に合格し、同時に地元の医療機関に就職した。
旧時代は公認心理師と称されていたセラピストの仕事は、心理学の専門的な知識・技術を用いて、心理的な健康や生き辛さ等を抱える者を支援する職業だ。
昔から、主に心理学や哲学等に造詣の深く、相手を包み込むような優しい静謐さを醸す深月。
優秀なセラピストとして、患者と職員からの信頼と尊敬も厚く、地元でも好評だった。
余所の家庭へ勉強を教えに訪れ、医療機関で患者の心理療法と心理検査、心理的傾聴等を担当する義兄。
一見多忙かと思いきや、非常勤であるため出勤日数は少ないほうだ。
さらに自宅でも、蛍に勉強を丁寧に教えるため、二人きりの時間は十分満ち足りている。
「(今でも、昔と変わらず私の傍にいようとしてくれるのは嬉しい……けれど)」
蛍としては、敬愛する義兄と一日、一時間でも長く一緒にいられるのは嬉しい。
反面、時折蛍は不安に駆られると共に、義兄を心配した。
蛍の中では、義両親が突然亡くなって以来、義兄への精神的依存が強まっている事。
蛍を気遣ってくれる事は、義兄にとって負担になっていないか。
「"母親は、夫よりも自分の子どもの方を好む"」
静かなる憩いを与える自宅の書斎にて。
古びた光沢を放つ臙脂色のソファで、深月と蛍は肩を並べて本を黙読していた時。
「"何故ならば、我が子は"自分のもの"であることが、より確かであるから"」
優しい雨音のように静かで切なげな蛍の声は、深月の耳朶を撫でた。
アリストテレスの本に記された或る文言。
寂しい秋雨をも彷彿させる声色に、深月は本へ注いでいた視線と意識を蛍へ移した。
空虚な眼差しの蛍は、くすんだ本の頁へ視線を落としたままだ。
「アリストテレスの言葉か。世の母親の耳へ入ればすれば強く反発されそうだ。けれど、真理を深く突いている。そう、僕は思うよ」
そんな蛍に向かって、深月は撫でるような柔らかい声色で、己の意見を率直に零した。
「……どうして?」
沈んだ心を映した瞳を頁から離さなかった蛍は、そっと顔を上げながら静かに問う。
人の手では掴みようのない水底の答えを求めるように。
「夫と呼ばれる人間は、所詮他人に過ぎない。些細なすれ違い一つで亀裂が入れば、そこで関係は切れてしまう」
「けれど、血で結ばれた我が子との繋がり……これだけは中々に切っても切れない」
深月は、全て見透かすような瞳を眼差しで言葉を紡ぐ。
「たとえ、どちらか一方に憎まれても、互いに離れていても……心は相手を強く求め、互いに影響し合う」
「まるで、どうあがいても自分から切り離すことのできない、影のように」
アリストテレスの言葉を心に呑んだ蛍の、たった今感じている寂しさにも気付いて。
「我が子は、母親がいなければ決して生きていけない――。自分に依存してくれる無垢で儚い子どもでいれば、見捨てられることもない」
「我が子だけは、自分の"持ち物"と同じ。だから自分の思い通りにできるはず――そう錯覚してしまう親は、少なくはない」
冬空色の澄んだ眼差しも、穏やかな声色も普段と変わらないが、いつになく饒舌に語る深月に、蛍はふと別の疑問を投げかけた。
「……義兄さんの勤める病院にも、"そういう人達"は来るの?」
「ああ、わりと多いよ。僕達の父さんと母さんの場合は、むしろそんなものから縁遠い人達だったけど」
「――だから、私の"お母さん"にとって、蛍はいらない子だったのかな」
暗い湖の底を見つめるように淀んだ瞳の蛍が、不意に呟いた想い。
蛍にとって決して忘れられない存在。
先程から静寂を保っていた深月の瞳は、初めて軽く見開かれた。
当時はたった五歳のだった蛍を拒絶した末に、永久的な離別を余儀なくされた実母。
その憐れでもある存在については、深月も以前から亡き両親を通じて耳にしていた。
一方、自分を捨てた実母について蛍本人から深月へ語り出したのは初めてだ。
義兄も両親と同じく、蛍が養子として斎賀家へ引き取られた理由と経緯を既に聞いてある事を知ってか。
それとも、ただ、今まで自分から実母の話題へ触れる機会を逃していただけか。
「蛍がいい子じゃなかったから、お母さんは私を嫌ってたのかな」
深月が蛍と出会い、斎賀夫婦の死によって、二人ぼっちで生きるようになった今。
深月という大きな存在が、蛍の世界の全てを占めているのは確かだ。
それでも、実母の存在は影となって、未だ蛍の心に巣食って離れない。
「蛍は思い通りにならなかったから、お母さんは私のこと、いらなかったのかな」
久遠の時代から、遥か先の未来を見通していたアリストテレス。
偉人の言葉は、蛍の深淵に閉ざされていた実母への疑問を喚起させた。
蛍といい、実の親に捨てられた子どもは、親そのものを恨む者もいれば、自分のせいにする者もいる。
"自分が悪い子だったから"
"親に甘ったれていたから"
そんな風に己へ原因を帰属させ、自罰的になる。
たとえ、日の当たる世界で親に代わる他者との温かな絆を築いても。
いかなる理由があっても、暴力と支配は許されないという良識を知る大人へ成長しても。
自己の"存在意義"への否定と曖昧さは、洗脳レベルで影のように纏わりつく。
それは、蛍も決して例外ではない。
だからこそ、毎日その耀きと影向きを変える太陽のように、蛍には新たな希望と同時に不安も生まれる。
深月義兄さんも――いつも大切な人は、自分の手の届かない遠くへ消えてしまうのではないか、と。
たとえ、互いに大人になってしまってからも、深月だけは変わらず蛍へ優しく微笑んでくれるだろうか、と。
「蛍――」
一方、見捨てられる不安を必死に抑えて俯く蛍を、深月はやはり優しく見つめていた。
冬空の静けさに似た瞳で、蛍の想いの全てを見透かすように。
「僕はね、思い通りにならない蛍が、素晴らしいと思うんだ」
「え――?」
「蛍は蛍のままで、今でも十分美しくて、尊い。君の耀きを理解しようとしなかった人間のことなんか、忘れてしまえばいい」
深月の口から奏でられた予期せぬ言葉に、蛍は思わず顔を上げた。
実母も含めた"蛍の輝きを理解しなかった人間"の声なんか無視すればいい、と断言する台詞に、蛍は渇いた笑みすら浮かべた。
「僕の父さんとも母さんとも違う、僕にすらない、蛍だけの意思を持つ。そんな人間に、蛍はいつかなるんだ」
驚きや戸惑い、それ以上に"歓喜"に近しい感情に口を噤む蛍へ、深月は歌うように続ける。
「蛍の抱く感情や心、生き方も、全て蛍だけのものだ――これだけは、決して誰にも奪えないものだ」
「私だけの、心……」
「自分はどうしたいのか――己の意志と願い。それだけは、蛍が大人になっても大切にしてほしいな」
まるで、仄暗い沼底から澄み輝く青天へ昇っていくような解放感に、心満たされていく。
「そして、いつか蛍自身が選びとった強き意志を――いつか成長した君の魂の唯一性を、僕は見てみたい」
ありのままの蛍でいい――。
思い通りにならない蛍が良い――。
やはり、深月義兄さんの語りは、どこか幻惑的で掴み所がない。
じっくり覗き込まないと、底の見えない深淵のように。
けれど、義兄さんの紡いだ言葉の一つ一つは、私の心の奥底へ力強く響き渡った。
天から舞い降る雪のように淡く、けれど触れた指先から芯まで深く伝ってくるように。
初めて出会った頃から、そうだった。
誰かに拒絶されることも。
誰かに無条件に受け入れられることにすら。
他者の全てに怯えていた蛍へ、深月義兄さんは何も期待してこなかった。
蛍に何かを求めるわけでもなく、
されど、拒絶や無関心を示すでもなく。
ただ、ありのままの蛍を、深月義兄さんは澄んだ心と眼差しで受け入れてくれた。
「だから、僕が気を遣っているんじゃないかとか、蛍が気にするようなことは何もない。蛍は蛍のままでいいんだよ」
深月義兄さんだけは、ずっと変わらなかった。
当初は不安と緊張で身も心も凍り閉ざしてばかりだった頃も。
互いの絆は深まり、義両親の死によって蛍の精神的な依存が強まった時からも。
むしろ、"思い通りにならない蛍"すら素晴らしい、と言ってくれた。
深月が蛍へ向けてくれた言葉の全て。
清らかな冬の空気のように当たり前で、けれど美しく澄んだ"愛情"を感じた瞬間――ようやく蛍は確信した。
「……ありがとう、深月、義兄さん。やっぱり"凄腕のセラピストさん"だね。今の義兄さんの言葉、心にとっても温かく染み渡ってきた」
「まあ……僕の膝に乗って、ずっとくっついていた"小さな蛍"も可愛いかったさ。よかったら、久しぶりに膝に乗るかい?」
「!だ、大丈夫よ、義兄さん。私もう、そんな子どもじゃないからっ」
それなりに年頃を迎えた今、振り返ってみると照れくさすぎる。
幼い頃の思い出を蒸し返す深月のからかいに、蛍は淡い羞恥心で桃色に染まる。
あたふたと必死になって顔を横に振る蛍に、深月は相手をくすぐるような微笑みをクスクスと零す。蛍はからかわれた居心地の悪さで口を噤むが、不思議と胸の奥が温かくなるのも感じた。
「そうか、残念だ。昔は、一緒に本を読みながら一緒に眠ったこともあったのにね。でも、蛍さえよければ、いつでも歓迎するさ」
拗ねたように頬を膨らませる蛍へ、深月は爽やかな微笑みで手を差し伸べる。
気付けば、蛍は吸い寄せられるように義兄へ近付いてその手を迷いなく取っていた。
自分の手を握り返した蛍を、深月は小さな子どもをあやすように、両の腕で静かに抱きしめた。
深月義兄さんだけは、昔から何も変わらない。
たとえ、私がこの先変わってしまうことがあっても。
深月義兄さんだけは、どんな私も受け入れて、尊重してくれる。
たとえ、私がどのような道を選択しても。
深月義兄さんだけは、私を抱きしめてくれる。
たとえ、私が誰かを愛しても――。
だから、もう、私は迷うことをやめた。
そして、ようやく"己の道"を選び取る事ができた。
「深月義兄さん。私、警察官になる!」
私自身の意志と願いから萌芽した、私だけの"夢と目標"を。
深月義兄さんが述べていた、"魂の唯一性"という耀きを証明しうる場所を。
「警察官になったら、より多くの子どもを犯罪から守りたいの」
誰かを愛することも、誰かに愛されることすら阻む脅威。
そういった"悪"から、誰かを守り救う人間になることを。
かつて、深月義兄さんが、私へそうしてくれたように。
「――そうか」
蛍が警察官を目指すことを宣言すると、深月は意外そうな表情を浮かべたが、やはり微笑んでいた。
「なるほどね。警察官になる動機として、素敵だと思うよ。ところで、子どもを強調したということは、そこに何か強い思い入れでもあるのかい?」
ただ、蛍があえて警察という職業を選んだ理由へひどく興味を惹かれたらしい。
「うん。子どもを守りたいって言ってもね……よく考えたら、保育士さんとか教師とか、きっと他にも子どもと関わる仕事はある。でも……私は、警察官を目指したいの」
「それは、どうしてかな」
「私達は普段意識していないだけで、喪う哀しみも死も、隣り合わせかもしれない。最近、その事に気付いたの……お義父さんとお義母さんの時も」
今までは、蛍自身が気付かなくて、現実へ目を向けてこなかっただけだ。
周りには、瞳に映しきれないほどの多くの哀しみと死は散らばっている。
生きるために呼吸し、世界を映すために瞬きを繰り返す。
そうしている間も、どこかでまた、数多の命が雪のように瞬く間に消えている。
特に、輝かしくも儚い"子どもの命"ばかりが、傷つき、貶められ、辱められ、奪われていく不条理に刈り取られてゆく。
「あの、一か月前から、世間を騒がせていた事件があったでしょ? 犯人は一昨日捕まったけど……犠牲になった子ども達は多いの。それで、深い哀しみに暮れている人達がいる」
一か月ほど前、比較的平和なはずのこの地区を恐怖で震撼させた『児童連続通り魔事件』。
身勝手な人間の犯行によって、数人の子どもの尊い命は奪われた。幸い、或る一人の若い刑事官の機転のおかげで、連続通り魔の凶悪犯は無事逮捕された――私の目の前で。
『ひ――っ!?』
実は一昨日、勤務中の義兄を待ちながら夕飯を作っていた時のこと。
蛍は、途中で材料が足りないことに気付き、慌てて買物市場へ出かけた。
買い物を済ませた蛍は、明るい夕陽に照る閑散とした帰路を一人で歩いていた、その途中。
背後からものすごい力で、蛍の首根っこは引っ張り上げられた。
手に持っていた買い物袋が地面に落ちた事に気付いた頃には、既に遅かった。
蛍は、連続通り魔の男に羽交い締めにされ、鋭く光るナイフを口元へ突きつけられた。
蛍は恐怖のあまり声をあげることすらできず。
もう終わりだ、と涙と共に確信した――瞬間。
『大人しくしろ――』
蛍を背後から捕えていた男、と物騒に光っていたナイフは、夕日に焼かれた地面へ叩きつけられた。
代わりに、力強くもどこか安堵をもたらすぬくもりは、華奢な蛍を抱えていた。
雲灰色の作業着を身に纏っていたため、最初は分からなかった。
蛍を通り魔から救い出してくれた相手は、巡回中の「覆面警察官」であった。
警察官によって薙ぎ倒された連続通り魔は、現場へ駆けつけた他の警察官に取り押さえられた。
『平気か? 怖かったよな。でも、もう大丈夫だ』
『あ……あの』
この人がもし助けに駆けつけてこなかったら、今頃私は。
蛍を助けてくれた刑事官は、腕の中で蛍が未だに震えている様子に気付く。
すると、壊れ物を扱うように蛍を地面へ丁寧に、降ろしてくれた。
『夕飯の買い物か? お前、しっかり者だな。気を付けて帰れ』
若手警察官は、雲灰色の作業着とお揃いの帽子を目深く被っていたため、顔はよく見えなかった。
けれど、頭上から注がれたぶっきらぼうな低い声は、どこか不器用な温かさに満ちていた。
『あ、あの。助けてくれて、ありがとうございます!』
慌てて感謝を述べた蛍へ、"彼"が優しく微笑んでくれている気はした。
「あの日、親切な警察の人に助けられた時思ったの。犯罪や危険から一般市民を守ることは、命だけじゃなくて……子ども達の"笑顔"を守ることにも繋がるんじゃないかって」
「警察官に求められる知力や体術とかの"強さ"もあれば、誰かを守れる"力"を持てる……それって素敵だなって」
蛍を助けてくれた警察官の眩い強さ、ぶっきらぼうだけど優しい太陽のようなぬくもり。
蛍は、その耀きと温かさに強い憧れを抱いたと共に、大切な事を教えてもらったのだ。
「蛍は、強くなりたいのかい?」
「うん。もっと勉強して、力も強くなって、大切な人を守れるようになりたいの。もう、私や他の子ども達みたいに、悲しい想いをする人達が少しでも減るように」
「それは良い考えだね。ただ、てっきり蛍は、僕みたいに心理療法士関連の仕事を目指すのかと」
「義兄さん、ちょっと残念に思ってる?」
「まさか。予想通りにはいかない――そこが蛍の"美しさ"だ。前にもそう言っただろう?」
「そうだったね、義兄さん。ふふふっ」
「――蛍。君の崇高で大切な"夢"……僕も、応援するよ――」
あの日に出会えた"温かな強さ"へ、ひたむきに憧れて。
そして、淡雪のように"柔らかな愛情"に背中を押されて。
蛍は自分だけの大切な"夢"を見つけた。
警察官の国家試験受験条件の一つである「十八歳」へ達するまでの間。
蛍は家庭教師の深月の援助下で猛勉強に励んだ。
深月は警察学校と国家資格の試験同時対策を丁寧に指導し、蛍を全力で応援した。
蛍は十六歳になると、まずは第一関門となる警察学校を合格し、難なく入学できた。
警察学校に入学してから二年間、警察官としての知識と判断力、実技と連携法を学び、さらには耐久力や格闘能力等、厳しい訓練と勉学にも蛍は励んだ。
深月に至っては座学だけでなく、体力向上と格闘能力の指導や練習相手としても蛍に付き合った。
蛍の意志を尊重し、夢を全力で応援する深月の助力、彼女自身の努力の甲斐もあってか。
「深月義兄さん! 私、合格したよ!」
蛍は十八歳を迎えた年の警察官資格試験は、見事一発で合格した。
「おめでとう。よかったね、蛍」
「もっと、大袈裟に喜んでくれてもいいのに」
「ふふ、ごめん。でも、蛍なら必ず合格するって、僕は信じていたから」
警察官として、子どもを悪しき犯罪から守りたい。
誰かを救える強い人間になりたい。
あの日に心から決意して以降、難関な勉強や過酷な訓練も乗り越えてきた蛍は、念願の警察官になった。
長いようであっという間だった、夢の第一歩たる、狭き門の通過を達成した。
その現実があまりにも嬉しくて、私は小さな子どものように喜んだのを今も思い出せる。
歓喜と興奮を抑え切れない蛍とは対照的に、深月は相変わらず冬の静寂のように構えていた。
それでも、淡い唇に咲いた微笑みも、普段以上に深くて嬉しそうに見えた。
「私がここまでこれたのは、私一人の力じゃない……深月義兄さんが、ずっと私を応援してくれたから。私は、警察官になる夢を叶えることができたの。義兄さん、ありがとう……本当にっ、ありがとう――っ」
夢へ至る道を歩む資格を得た歓喜。
蛍を支え続けてくれた義兄への深い感謝。
これからは、一般市民を守る警察官として、新たな人生を歩み始めるのだ。
蛍は思わず感極まって涙を零しながら、はしゃぐ子どものように深月に抱きついていた。
「大袈裟だな、蛍。泣いているのかい……? 僕は、僕自身がそうしたいと思ったから、そうしてきただけさ。蛍が笑っている顔を見るのは、僕の一番の幸せだから」
「義兄さん……っ」
「ほら、涙を拭いて。蛍はもう警察官、立派な大人になったんだ。この夢の第一歩から、第二部となる君の人生と使命の"物語"は、今幕を開けるんだ――」
ようやく大人になったとは思えないほど、あどけない涙顔で喜ぶ蛍を、深月は慈しみと共に抱きしめ返す。
深月がしっかり抱きしめていなければ、足下すら危ういほどに浮き立っている蛍。
最中、蛍は閃いたように口を開いた。
「そうだ! 深月ぎ兄さん! 何か、"欲しいもの"はない?」
「え?」
「今の私じゃ、たいしたものはまだあげられないかもしれないけど……深月義兄さんに日頃の感謝とお礼がしたいの」
蛍が無邪気に零した唐突な提案は、深月にとって予想外だったらしい。
珍しくきょとん、とした表情で双眸を瞬きさせた。
数秒ほど思案した後、ふと何か思いついたらしい。
「そうだな……そしたら蛍、一つだけ、お願いしてもいいかい?」
どこか、捉えどころのない微笑みを咲かせながら静かに告げた。
「もちろん、私にできることなら何でも。義兄さんの大好きな料理を丸々一週間出すとか。何なら、この間から義兄さんの欲しがっていた本のハードカバー版を買うことだって」
「いや、そうじゃないんだ、蛍」
無垢な視線を向けてくる蛍を抱きしめたまま、深月は不意に真剣な声でそう囁いた。
「深月義兄さん?」
いつもと違い、どこか普段とは異なる不思議な雰囲気を感じ取った蛍は深月を見上げた。
社会人としての一歩を踏み出す前の自分でも、大切な義兄へ何か贈れるものはあるようだ。
この時の蛍は、ただ無邪気に喜んでいた。
「蛍――実は僕、"ずっと欲しかったもの"が、あったんだ」
今までを振り返ると、深月は自分の要求や欲しいものを強く主張してこなかった。
どちらかといえば淡泊で無欲な深月は今、絞り出すような声で何かを強く求めるのは珍しい。
薄氷の湖さながら澄んだ深月の声と眼差し。
水の底から氷を突き破って溢れそうな感情を、瀬戸際で抑えているようにも、高揚感に打ち震えているようにも窺えた。
「今までずっと、どうしても手に入れることのできなかった……たった一つの――」
無邪気な蛍を抱きしめる両の腕に自然と込もる力。
蛍を優しく見下ろす冬空色の瞳に揺らめく甘い炎。
瞳の下で清らかに咲いている微笑みは、抑え切れないほどの"歓喜"へ深まっていることにも――蛍は未だ気付かず――。
***




