『氷爆の罠を潜り抜けて』③
蛍は硝子卓上に広げていた事件資料を一旦全て綴じた。
ただし、蛍と光へ届いた「爆破予告の手紙」の内容を複写印刷したものへ再度目を通す。
『十二月十二日。ルーナシティで"人類史を最も尊ぶ場所"から "贖罪の爆炎"を降らす』
『"三つの生贄"は捧げられた。ようやく"鍵穴"は構築された。最後は"鍵を持つ者"が、扉を開けるのみである』
浜本刑事官が導き出した推理は、ある意味正しい。
浜本の読み通り、E・Cと彼らを率いるフェンリルは十三夜美術館に現れた、残念ながら予告通りに爆発は起きた。
さらにE・Cは館内立て篭もりに加えて、クラッキングによる通信障害とルーナシティ中央大三区の安全装置停止を起こした。
E・Cの目論見通り、一般市民すら巻き込んだ復讐を本格化し、ルーナシティという"一社会"を混乱へ陥れて一矢報いるのに成功した――表向きとしては。
蛍自身は例の手紙を読んだ時から、唯一どこか腑に落ちない点があった。
「鍵とは一体、何を示唆しているの……? 深月義兄さん」
蛍宛ての手紙に記された四つの鍵言葉。
一文目の"三つの生贄"が暗示するのは、第一と第二、第三の『猟奇連続殺人事件』の怪文章に綴られた哲学者「サルトル」と「ニーチェ」、「キルケゴール」の言葉。
しかし鍵穴"と"鍵を持つ者"、"鍵の頭"が、結局何を暗示しているのかは、実は未解明のままだ。
鍵の穴という部分は、エクリプス区地下の隠れ家のように"暗く狭い場所"を彷彿させる。
未だ憶測の域ではあるが、"鍵穴"には「深月の行方」へ繋がる手がかりを秘めている気がする。
さらに"鍵を持つ者"とされる誰かは、十三夜美術館ではない"別の何処か"に存在する本物の"鍵穴"へ"鍵の頭"を差し込む。
以上の手順で"鍵"を解かなければ辿り着けない何処か別の場所に、深月は――待っているのではないか。
蛍は一人逡巡する内に、あの"再会の三日間"にて、深月が囁いた「待っている」という台詞を思い出した。
もしかしたら、深月は"鍵を持つ者"として蛍の到来を期待しているのではないか。
しかし、そうだと確信する根拠までには未だ至っていない。
仮に読みが正しいとしても、蛍は深月の目論見に従って動くべきか否か。
正直、蛍は自身の推理も判断にも行き詰っていた。
「……これ以上、同じ文章をひたすら読み続けても埒が明かないわね……」
自嘲を零した蛍は、寝台の下に保管している例の"宝箱"を取り出した。
クレセントムーン区に引っ越して以来、最近まではずっと眠らせていた義兄との思い出の品に、何か手がかりは掴めないか。
先ず手に取ったのは、甘い埃と古紙の香りを纏った菫色の本――蛍と義兄の最も愛した物語・『ヴォルスンガ・サーガ』。
"蛍は、本当にその本が大好きなんだね――"
過去を幾度振り返っても、蛍の記憶に眠るのは、優しいままの深月兄義さんだ。
『ヴォルスンガ・サーガ』の本を手にねだる幼い蛍へ、深月は毎日朗読してくれた。
雪解けの純水さながら静かに澄んだ声。
雪の花のように柔らかで無垢な微笑み。
あらゆる全ては、ひどく懐かしくて、心臓までも締め付けられる。
『君では決して僕を殺せない――』
エクリプス区地下で再会した運命の夜。
不吉な血の匂いを纏いながら、昔と変わらない微笑みを咲かせていた深月義兄さん。
あの美しくもおぞましい佇まいは、昔の記憶の義兄さんとは似ても似つかない、と蛍をひどく不安にさせた。
矛盾を孕んだ過去と現在の義兄の姿を重ねる中、蛍の瞳の奥は灼けつくように熱くなった。
"うん! ここにある色々な本も、もっと読みたいけれど……やっぱりこの本が一番好き。この図書館にもあるのか、確かめてみたかったの。変、かな?"
愛読家の深月の影響で同じく本好きになった蛍を、彼は時々近所にある『国立満月図書館』にも連れて行った。
生まれて初めて図書館へ足を運んだ幼い蛍は瞳を輝かせた。
しかし、壁一面を覆う膨大な本の数と敷地の広さに圧感された蛍は、どの本を選べばいいか迷った。
すると、当時の蛍が思わず手に取ったのは、例の菫色の本だった。
既に自宅で幾度も読み馴染んだ本だったからという理由もある。
しかし、それ以上に敬愛する義兄と蛍の大好きな物語が"形"となって図書館にも大事に保管されている様を見たかったのだ。
"蛍の気持ちは、僕にも分かる気がするよ。僕もお気に入りの本は、ここへ来ても自然と瞳で探してしまう"
当然ながら、隣の深月義兄は首を傾げていたが、この上なく穏やかに微笑んでいた。
"見かけると、まるで他所で友人と逢えたような嬉しい気持ちになるんだ”
"お義兄ちゃんも、蛍と一緒なんだね。嬉しい"
"僕も蛍と気が合って嬉しいな。じゃあ、さっそくこれも借りようか"
深月は幾分の隙間なく並ぶ他の本の間から、『ヴォルスンガ・サーガ』のみを器用に取り出した。
深みある菫色に黄金刺繍を施した表紙に添えられた、深月の白く細い指。
まるで、菫色の夜空に映える白い流れ星か月を彷彿させるくらい、真っ白で美しかった。
"いいの? 同じ本が家にあるのに"
"ああ、いいんだよ。せっかく、蛍と一緒に初めて図書館へ来たんだ。記念の一冊目は、蛍の一番好きな本を借りよう。それに……“
深月は迷いのない足取りで貸出受付所へと進む。
貸出手続きを済ませた深月は、菫色の本を幼い蛍へそっと手渡した。
蛍の幼い両手へ自分の手を重ねると、古びた裏表紙を指先で丁寧にに開いた。
裏表紙の「貸出カード」に刻まれた文字を見た瞬間。
蛍の黒く澄んだ瞳は、歓喜と高揚に耀き瞬いた。
"この本を「蛍の名前」で借りてくれて、僕も嬉しいよ"
『ヴォルスンガ・サーガ』の貸出カードの一番と二番の列に記されているのは、「深月・斎賀」と「蛍・斎賀」の二名のみ。
二人の大好きな本の裏表紙に、自分達の名前が寄り添うように並んでいる。
貴重で特別な光景に、深月と手を繋く時と同じ幸福感は、幼い蛍の胸を熱く満たした。
"ありがとう! 深月お兄ちゃん……!"
幼い蛍に咲いた太陽花さながら明るく無邪気な笑顔。
その日の蛍は、わざわざ借りた本の貸出カードを嬉しそうに何度も指でなぞっていた。
仲睦まじく並んだ二人の名前をいつまでも眺める義妹を、義兄も微笑ましそうに眺めていた。
「っ――まさか」
古びた造花さながらやや萎れており、それでいて存在感を維持する本の表紙に触れながら"追想"に耽る中――。
決定的な一筋の閃きが瞬いたのを、蛍は見逃さなかった。
硝子卓上の隅に置いた、硝子板さながら薄く軽やかなノートPCを起動させる。
PCのデスクトップ画面は、三次元映像となって宙に照射される。
電子情報海を開いた蛍が素早く打ち込んだのは、"或る場所"。
検索した鍵言葉から繋がった一つのサイトを選ぶと、最初の頁に掲載された情報へ素早く目を通す。
"或る場所"のサイトに掲載された管理責任者の名前と顔写真を目にした瞬間――薄氷の瞳は驚愕と共に"確信"に煌き、"複雑"という名の陰りへと落ちた。
「――そういうことだったのね。最初から真実は、私に在った。そう言いたいのね……? 深月義兄さん」
蛍は居ても立っても居られなくなり、仕事用の真っ黒な仕事着と長靴を纏い始めた。
玄関口に立った所で、背負い鞄へ入れた必要品の確認も怠らない。
私用携帯電話に私用不可中の警察端末、護身用に自宅所持を許可された警察用の拳銃、事件関係の複写資料数枚、そして『ヴォルスンガ・サーガ』の本等だ。
もしも、自分の推理が正しければ今、深月義兄さんは間違いなく"あの場所"にいる。
深月の待ち構えるであろう場所へ赴き、大三区の安全装置と警察署本部の電脳機能を侵蝕している元凶を断つ。
さすれば、E・Cの織り成すこれ以上の惨劇と混乱の火を止められるかもしれない。
蛍は自身の見解を一刻も早く光へ伝えるべく、淡い菫色の私用携帯電話を片手で器用に開いた。
画面に表示された電話帳から「光・藤堂」を指腹で押す、寸前。
「え――?」
家庭用防犯AIを搭載したダックスフンド犬型の機械人形の機体は、けいれんを起こしたように揺れながら倒れた。
明らかに故障した番犬機体を愕然と見下ろす蛍の瞳に、さらなる動揺は波紋した。
「蛍・櫻井刑事官だな――?」
鉄缶を叩き凹ませたような騒音が鳴り始めた。
同時に、合金製の頑丈な玄関扉は外側から歪な膨らみを形成していく。
*
午後四時○一分頃。
フェンリル率いるE・Cによる爆破と立て篭もりから一時間。
しかし、事態が好転する瞬間は一向に訪れない。
生安部を介した署本部からの定時連絡はあった。
E・Cの暴徒の襲撃を受けている本部では、残っている少数の警察官達のみで辛うじて対応しているとの事。
張りぼてと化した防犯AI機体と旧時代の電流板をバリケード代わりに使って凌ぎ、ギリギリの防戦を強いられている。
一方、事件現場の十三夜美術館前では、外の機動隊長が拡声器を用いて交渉を呼びかけている。
しかし、E・Cとフェンリルは警察に応じる気配は皆無のままだ。
機動隊による裏口潜入も試みたが、館内外の監視カメラを乗っ取っているE・Cには全て筒抜け。
結局、返り討ちに遭った機動隊数名はE・Cの迎撃によって負傷し、実質は銃を持てないまでに無力化された。
今は手薄の本部には、他所へ医療部隊と警察増援を派遣する余裕はない。
「増援が到着するまで……最短で 二時間かそれ以上か……くそっ」
やむを得ず、通信障害の影響外にある他の遠方地区のルーナ警察へ増援を要請した。
とはいえ、ルーナシティの民を運ぶ箱舟たる地下鉄電車も懸垂軌道電車も停止中だ。
そのため、最寄りの他区増援部隊の到着には、最低でも二時間以上はかかると見越された。
しかし、最悪の窮地を打破する前に、E・Cが過激な行動に出ないとは限らない。
一刻を争う事態の中、今の警察にできる事は、状況を慎重に見守りながら指をくわえているだけだ。
「藤堂先輩。何か妙だとは思いませんか」
ニコチンを渇望する脳で思考に耽っていた光へ、後輩の神楽は不意に呟いた。
普段は抑揚に乏しく、飄然とした神楽にしては珍しい。
どこか相手を励ますようにどこか穏やかな声色から、苦渋の表情の先輩を案じたのだろう。
まさか、後輩にまでも気を遣わせてしまうとはな。
「確かに今回の事件は、妙ない点を幾ら挙げてもキリのないくらいだが……どうした?」
「いえ、ふと思ったんですよ。結局、E・Cの"本当の目的"は、まるで見えないんですよね」
「どうして、そう感じるんだ?」
一方、神楽の釈然としなさ気な表情、と彼の指す"妙な事"が気になった光は問いかける。
「だって、館内のE・Cは一向に実行してこないじゃないですか…… 立て篭もり犯の大半が必ずやること」
まさか――。
予期せぬ爆発、と警察官を人質にした立て篭もり、囚われた彼らや第三区で被害を受けている者達の救出、それを妨げる通信障害等への焦燥と混乱――激動の展開へ気を取られるあまり、光は今回の事件の"盲点"に気付くのが遅れた。
「要求声明だ――」
衝動的な犯行ならばともかく、事前計画に基づいて人質を取った立て篭もり犯の行動と目的には、共通点や様式はある。
一つは信仰心と団結力の厚い宗教集団と近い組織構造を持つE・Cの場合……自分達の理念を社会へ表明したいがための「狂信的暴走」。
もう一つは、自分達を貶めた不条理な社会への復讐に加えて、政府への「要求」の声明文がついてくる。
実際、E・Cは自分達の思想と脅威を社会へ知らしめ、何かしら政府に要求を呑ませる手段に"爆弾"を選んだ。
となれば、立て篭もり犯の集団が本来必然的に設けるはずの―― 。
「奴らが"時間制限"を一度も開示していないのは、何のためだ――?」
今も尚、E・Cとフェンリルは警察の交渉を無視したまま、要求の声明も刻限すら開示してこない状況に違和感を覚えた。
単純に社会と権威組織である警察の不安と焦燥を煽り、翻弄する事そのものが目的の可能性もあるが。
いずれにせよ、個人も集団も必ず何かしらの"目的"に突き動かされているはずなのだ。
焦燥と無力感に彷徨っていた光の思考も感情も、神楽の何気ない指摘のおかげで少しずつ冴え渡ってきた。
そこから、光の中には"新たな疑問"も浮上した。
「(今回の事件は、未成年期に心の傷を抱え、社会に不信感と憎悪を燃やすE・Cの復讐と暴走によるもの。だが、俺達の見えない影で彼らを先導し、糸を引いているのは、間違いなく"あの男"――)」
写真と蛍の言伝でしか知らない"あの男"の真意も目的も、光は到底理解できるはずがない。
それでも、奴の狙いには「蛍の存在」も含まれている確信だけはある。
肝心の蛍は身の安全と公私混同を懸念した上層部の判断によって、現場班から外され、自宅謹慎中だ。
E・Cの立て篭もりが膠着状態にある理由は、標的である蛍が現場にいないからか。
もし、仮説が正しければ――あの男は今、十三夜美術館ではないまったく別の場所にいるとすれば?
ルーナ警察の人手と意識は、E・Cと人質の立て篭もる十三夜美術館、警察署本部に大三区へ一心に注がれている。
さらに通信と安全装置の障害によって、警察の監視も警備も手薄になっている隙に――あの男が取る得る最も可能性の高い行動は、まさか――。
「……藤堂先輩? どうかしましたか、顔色が悪いですが」
冷静さを取り戻した頭脳の導いた或る一つの仮説。
光は心髄から末端まで全ての血液が一気に凍てついていく感覚と共に悪い予感に襲われた。
たまらず、光は震える指先で私用携帯電話を操作してから、機体を耳へ押し当てた。
『光――……』
春の前兆に澄んだ薄氷のように、涼やかで愛しいあの声を、今すぐ聞きたい。
悪寒で凍える己の身も心も、温かく包み解かしてくれる事を期待して待ち侘びる。
『おかけになった番号は、電源が入っていないか、電波の届かない場所に――』
現実は氷よりも遥かに冷たく無情であった。
「―― 蛍が危ない――っ」
蛍の私用携帯電話にも、自宅の固定電話にも数回かけてみたが、どちらも繋がらなかった。
ほんのわずか十分ほど前までは、電話越しに蛍と言葉を交わせていたというのに。
それにしても、自宅の電話にすら出られない状況と時間帯を鑑みれば――蛍の身に何かしらの"危険"が迫っている、としか思えなかった。
「藤堂先輩――!? こんな時に一体どこへ」
光は否が応でも脳内で想像再生した。
自宅にて、事件関連の記録資料を真剣に読み解き、解決の糸口を懸命に思案する蛍――そこに"あの男"の魔の手は黒い影のように迫り、蛍を呑み込み攫う――そんな不吉な光景に存在した"あの男"が、焦る光を嘲笑った瞬間。
「悪い! 神楽刑事官! 現場を頼む! 俺は蛍を――!」
神楽の慌てた声や、館前で張り込みむ機動隊の困惑した眼差しを気にする暇もなく、光は衝動的に駆け出した。
蛍の安否確認のため、先ずは彼女が待っているはずの自宅マンションを目指した。
現在地のギバスムーン区の駅から、光と蛍の自宅があるクレセントムーン区までの距離。
本来は電車でたった数分で到着できるはずの目的地は、しかし、人間の脚でどれほど速く走っても、三十分はかかる。
少々不便ではあるが、警察官として日頃鍛えている光なら、三十分間走り続けるのは造作もない。
光は街中を徘徊するE・Cの気配へ注意を払いながらも、裏路地を慎重に潜り抜けていく。
さらに、現在は公務車しか交通を許可されていない細長い道路を駆けてゆく。
今更ながら、事件現場から無断で離脱し、仲間を置き去りにする真似を取った自分を光は内心責めた。
すまない、皆に悪い事はしたが、どうか待っていてくれ。
身勝手は承知だが、何とか持ち堪えて欲しい。
蛍だけは――何があっても。
事実、蛍は優秀な刑事官として警察には欠かせない貴重な人材でもある。
しかし、あくまで警察としてはあまりに身勝手な行動へ走った己への言い訳でしかない。
それでも、光自身にとって誠の確かなる事は、最も単純で唯一だった――。
「どうか、無事でいてくれよ……! 蛍――!」
俺にとって、蛍は誰よりも"大切な女"だ。
初めて会った瞬間、俺から初めて心惹かれ、初めて好きになった相手。
彼女だけは、何としても守ってやりたい――。
初めてそう思えるほどに、いつの間にかこんなに好きに――否、愛した、唯一人の大切な女。
だから俺は己の何に代えてもあいつを守りたい。
氷のように冷凛で強く見えても、本当は心優しくて儚い――そんな蛍の心を弄び、俺と蛍の親友も仲間も、ルーナシティの何の罪もない人々すら傷つけたあの男だけは、絶対に許さない――。
あの男にだけは、蛍を決して渡してはいけない。
「蛍――お前だけは、決して失えない――奪われたくない――傷つけられたくないんだ――!!」
早鐘を打つ心臓から燻り始めた、ありったけの想いと覚悟の炎。
光は我が身を燃やし尽くす勢いで、愛しい女のもとへ駆け馳せた。
***続く***




