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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
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『氷爆の罠を潜り抜けて』②

 「それにしても――っ」


 現在も指名手配中の深月・斎賀は「父親になる」。

 そして、蛍は「母親になってくれる」とは、どういうことだ?


 フェンリルの奇妙でありながら、単に光を翻弄するための嘘偽りには聞こえなかった台詞。

 混乱と戸惑いを覚える光の背筋に、凍りつくような冷汗は伝っていく。


 「くそ! ふざけやがって……あいつ、もし浜本刑事官達へ……っ」


 フェンリルが言っていた「目覚めたお兄さん達」とはきっと人質の警察官、「子ども達」は仲間E・Cのを指している。

 "遊びながら待つ"、と言ったフェンリルの不穏な響きに、光はどことなく危機感を覚えた。

 早速、先程のフェンリルとの対話内容を機動隊長へ報告すると共に、やはり浜本達は切迫した状況下にある事も訴えた。

 無策のまま迂闊に突入するのも危険だが、今頃はフェンリル達による"遊戯"で弄ばれている浜本達の心身も気掛かりだ。

 今の光達にできるのは、謎の白い煙と鋼鉄の防犯シャッターを睨みながら、交渉と救出の時期(タイミング)と好機を窺うのみ。


 『光、悔しい気持ちはよく分かるわ。今の私達にできる事を努めましょう』

 「ああ……そうだな、蛍。お前こそ気をつけるんだ。自宅にいるとはいえ。何があっても絶対に外へは出るな」


 たとえ電話越しでもあっても、二人は声色と息遣いだけで、互いの感じる事を察知できる。

 さりげなく光を励ます蛍に内心苦笑しながらも、彼は彼女を案じて改めて釘を刺す。

 すると、蛍が柔らかく微笑んだ音色は光の耳朶を優しく撫でた。


 『ええ、分かっているわ、光。それより、本部との通信障害の原因解析、と復旧の目処は未だ着いていない?』


 蛍達だけでなく、本部で解析に追われている分析部門も既に理解していた。

 今回の警察間の大規模な通信障害は、明らかに敵の"クラッキング"が原因だ。

 レギンの事件の時、エクリプス区地下の潜入と捜査の時、そして石井被疑者が留置所を脱走した時と同じなのだ。

 コンピューター・ウィルスを媒介してシステムを乗っ取るクラッキング対策を見越した分析部門は、新型の防犯システムを設定したらしい。

 しかし、今回も再びクラッキングの仕業としか思えない謎の通信障害によって、警察端末は機能停止させられた。


 「大変です、藤堂先輩。警察端末の件ですが……」


 蛍と連絡している最中、同じく使用可能な携帯電話を耳に当てたままの神楽刑事官は、慌てた様子で駆け寄った。

 警察端末の異常の解析結果を出せた分析官と連絡してくれたらしい。

 神楽の報告曰く、現在ルーナ警察署のコンピューター並びに安全装置(セキュリティシステム)は、連続猟奇殺人事件時とは()()()()()()()()()に蝕まれているとの事。

 しかも、ウィルスは今までに類を見ない複雑な型をしており、既存のウィルス対策では撃退が容易ではないらしい。

 例えるならば、HIV(ヒト免疫不全ウィルス)のように、ワクチンを開発しても既存の抗体が通用しない新型への変容を繰り返しながら、次々と感染・免疫防御を破壊するのと同じだ。さらに。


 『!……大変よ、光! たった今、新しいネット速報が。クレセント、ニュームーン、ギバスの三区にて、E・Cがまた一般市民の民家や通行人を襲っているって――っ』

 「何だと……!?」


 外で待機を強いられている光達へ追い打ちをかける出来事は、まったく別の場所で発生していた。


 『しかも、多勢の市民達は緊急の保護と避難を求めてルーナ警察署の敷地内へ、必死に押し入ろうとしているわ……!」

 「よりによって、こんな時にか!」


 ルーナ警察署本部の拠点であるクレセントムーン区、と付近のニュームーン区、そして此処『十三夜美術館』のある「ギバスムーン区」。

 現在の大三区では、ルーナシティの安全装置の異常も一部発生している。 ルーナシティICT化以降、機械による高確実な安全性保障は、犯罪発生から犯罪者の逃走・再犯等を九割防止できるという恩恵を与えた。

 しかし、一般市民と日常生活において一般化したICT安全装置の機能が狂わされた。

 となれば、予測可能は事態はただ一つ――"安全神話"の崩壊と混乱、危険だ。


 『美術館を爆破・館内に残された警察官を人質に立て篭もる事で、中央警察の人員と戦力を大幅に弱体化……さらにクラッキングを用いて警察の通信を乗っ取り、大三区の安全装置をも破壊する』

 「まさか」

 『そして、"甲羅のない亀"と化した中央三区、と私達警察を一網打尽に叩く……それが、今回のE・Cの狙いかもしれない』

 「く……っ。E・C(奴ら)は理念も目的も掲げているが……こんな風に街を壊し、他人を傷つけて、混乱を招いて……一体何になるんだよ……!」


 凶悪な猟奇殺人犯に、ICTや変装術等の専門技術家の犯罪者達を使役し、傷ついた若者の心を操る。

 自分はあたかも無関係に見えるように裏から糸を引き、社会へ致命傷を刻む。

 全ての行いが深月・斎賀の仕業であるのなら――まさにチェス駒を動かすごとく、人の心も願いも見透かし、自身の思い通りに誘う底知れぬ力に、光の背筋は凍りつきそうになる。

 一方で、それ以上に光の心臓を激しく燃やす感情は()()()他ならない。


 「……一刻も早く人質を救出し、フェンリルに"キツイ()"をすえてやらない限り、この混乱は収まらないだろう」

 『……そうね、光の言う通りよ』

 「……蛍?」


 この場に姿を現さず、自らあまり手を汚そうとしない男の卑劣さへ、"正義の怒り"を燃やす光を気遣ってか。

 束の間、静寂に融けた蛍の声は光の鼓膜を震わせた。


 『光……本当は、今すぐあなたのもとへ駆けつけて、力になりたい、けれど』


 どこか不安を抑えているようにも聞こえる声に、光の胸はざわついた。しかし。


 「――馬鹿か。いくらお前でも、今一人で外に出るのは危険だ。恐らく、地下鉄電車も懸垂軌道電車(モノレール)も使えない」

 『もう、馬鹿とは心外ね。でも、心配してくれているのは分かっているわ』

 「当然だ。蛍――たとえ違う場所にいても、蛍の洞察力も俺達の助けになっている」

 『……ええ、それならいいのだけれど』


 蛍が申し訳なさそうに吐露した素直な想い。

 蛍の声から電話越しでも暗い表情が窺えた理由を知った光は、内心安堵した。

 一瞬感じた胸のざわめきは、ただの杞憂に過ぎなかった、と。


 「それと、フェンリルの台詞は意味不明だが……この混乱に乗じて蛍を狙う可能性も高い。だから、蛍は動かずに安全な場所にいてくれ。そしたら、俺も安心してやるべきことに専念できる」

 『……うん。心配してくれて、ありがとう、光。私も微力でしかなれないけれど……あなたと皆を信じているわ―― どうか、手遅れになる前にE・Cを――"憐れな子ども達"を()()()()()()――』


 蛍は新人警察官であった当初、わずか一年足らずで刑事部門に配属された。

 優秀ではあったが、決して仲間を頼りにも必要ともせず、常に一人で全てを背負いがちだった。

 たとえ単独行動に動いて窮地に遭遇しても、自力で対処できていた。

 真犯人へ確実に辿り着く優れた洞察力、としなやかな身体能力を兼ね備える冷徹な敏腕刑事官。

 "氷の戦女神"の異名を築いた孤高の新人時代からは想像もつかなかった"信じる"という台詞。

 明らかな蛍の心の変化を感じた今。

 光の胸に残存していた"独りぼっちの尖った蛍"は、懐かしい記憶の彼方へと飛び立った。


 「任せておけ、蛍。こんな理不尽な事件は、必ず俺達の手で終わらせてやる――」


 また後で、直ぐ連絡する――そう蛍に伝え残すと、光は私用携帯電話を切った。

 正義と秩序を嘲笑う"黒い揚羽蝶の巣"と化した十三夜美術館。

 囚われた浜本達の無事を祈って再び対峙した光は、鋭い眼差しに深き決意を燃やした。


 *


 ごめんなさい、光。


 今思えば、私は出会った時から、あなたとの"約束"をちゃんと守れた自信があまりない。

 あなたは誰よりも正義感に満ちた勇敢な人。

 自分だけでなく、"誰かにとっての"大切な人も含めて、目の前の誰かを守ろうとする。

 たとえ、相手が加害者であっても決して見捨てようとはしなかった。


 真夏の青空に輝く太陽のように、どこまでも熱くて眩い人。

 普段はぶっきらぼうだけれど、いかなる時も常に私を気にかけてくれる。

 たとえ、私は誰かの腕に守られてなければならない女でなくても。


 誰よりも心の優しすぎる人――。


 先ほどの電話ですら、フェンリルに悪態吐いていても「お灸をすえる」という叱るような台詞だった。

 一見子どもに過ぎないフェンリルを、光は内心案じて"道を戻したい"とすら思っているのも窺えた。

 警察官にしても、あまりの誠実さと優しさ故か。

 私が光と共に勤め始めたばかりの頃、彼はよく無茶を働いて常に絆創膏や小さな包帯も絶えなかったのが、ひどく懐かしい。だからこそ。


 「(E(アーストワイル)C(チルドレン)が――恐らく深月義兄さんが、私へ最後に残した"この謎"を一刻も早く解かないといけない)」


 そしたら、そう遠くない何処かで私を待ち詫びている深月義兄さんへ、おのずと辿り着けるはず。

 蛍の胸にはそんな予感を確信していた。

 ルーナシティで平和に暮らしている"今の"一般市民と子どもを守り、罪と憎悪を重ねる"かつての子ども達"も救うために。

 何よりも、これ以上の罪を塗り重ねようとする義兄を止めるために。

 深月義兄さんへ贖罪の機会を明け渡す役割も、きっと私にしかできない。

 それに、心優しすぎる光、と今は何を想っているのかよく分からない深月兄さんの二人は、()()()()()()()()()()()()――。

 深月・斎賀にまつわる過去の記録と事件資料を徹底的に調査・分析した結果。

 そして、奇妙な"再会の三日間"において、深月から蛍へ告げた言葉からも、蛍の本能ら全力で警鐘を鳴らしていた。


 『今から()()()()の話です――。フルムーン区の隣区にある「師走(しわす)小学校」にて、()()は起きたのです』


 午後・三時三十三分頃。

 蛍は、深月・斎賀の人生史に関する資料を紙媒体へ変換し、硝子卓上に広げて読み漁っていた。

 特に蛍の着目している『師走小学校殺傷事件』について説明してくれた、「内村医師」の声は脳裏に蘇る。

 E・C爆破事件防止作戦の前日の出来事だった。


 『当時、小学校に勤めていた或る用務員の男は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()そうです』


 ルーナ警察病院の心理療法事務所にて、院長の『内村至』医師を訪ねていた。

 精神科医兼心理療法士(セラピスト)である内村至。

 主な役割は幻覚や妄想等の精神疾患、鬱や心の傷に苦しむ者達の治療と機能回復(リハビリ)、社会復帰を、精神医学と心理学の専門的技術によって支援する事。

 蛍と義兄の両者にとって、内村医師は恩師兼後見人だ。

 清潔な白い椅子に白衣を馴染ませて座る内村は、今でも鷹揚(おうよう)で若々しい。

 (うるし)に灰銀を艶めかせたような短い黒髪。

 シミ一つすら見当たらない色白の若々しい肌。

 老齢の象徴であるわずかな皺すら、内村の親しみと貫禄を調和させている。

 四十代前半に見える見た目からは、最近になって六十代へ入ったとはにわかに信じ難い。


 『はい……十八名もの児童と数名の教員は、包丁で手足や胴体を刺された。その内、児童十四名と教員三名は亡くなられたんですよね……』


 人の心と人生を長らく、その()()に至るまで見つめてきた者しか持たない"叡智と慈愛"の滲み溢れる瞳を見つめ返す。

 途端、不思議とざわめいていた心は凪いでいくのが分かる。

 やはり、内村先生が話し相手で正解だった、と蛍は安堵を覚えた。


 『そして、事件発生から十五分後、通報によって警察と救急隊は駆け付けました。しかし、肝心の殺人犯はその場で()()()()()()()ようです……幼く尊い命を奪った凶器で』


 精神科医と心理療法士の場合、己の言動一つで患者の生活、時に"命"すら左右しかねない。

 意義は高いだろうが、非常に生半可な覚悟では続けられない職業の一つだ。

 手厚い支援も虚しく、自ら命を絶った患者の死や、それに伴う責任と無力感に耐えきれない者も後を絶たない。


 『当時、学校の平和な日常へ突如舞い込んだ"命の危険"、教育界の歴史上類を見ない凄惨な事件は、社会全体を震撼させた。この事件は、ICT化による監視と警備を街全体へ施す安全装置……『ルーナシティICT化』の推進を押した影響ある事件でしたよね?』


 それでも、単に専門技術だけでなく、相手の"心の闇"とも向き合い、共に未来や希望を模索しながら歩んでいく――。

 そんな内村先生の人徳と忍耐力は、多くの患者を救ってきたに違いない。

 重圧的な役割に従事しても尚、鷹揚な笑顔と和やかさ(ユーモア)を忘れない姿勢こそ、彼の強靭な精神と健康、若々しさへ寄与しているのかもしれない。

 内村先生の専門性と人徳の貫禄、それらを決してひけらかさない謙虚さを再確認しながらも、蛍は本題へ入ろうとする。

 例の『師走小学校殺傷事件』の記録に埋もれていた、或る一つの"真実"について。


 『蛍さん。わざわざ、私を訪ねてくださった"本当の目的"は、事件に関するの議論ではありませんね。他に訊きたいことがあるのでは?』


 蛍の心の核心を突く内村の促しに、彼女は素直に肯いた。

 ただし、いざ言葉に奏でるとなれば、蛍の眼差しと唇に緊張は走った。


 『……その通りです。殺傷事件の起きた師走小学校に、当時在籍していて、生き残った学童の一人は……()()()()()()、で間違いありませんね?』


 師走小学校殺傷事件の直後。

 生き残った被害児童は、精神科診察と心理的傾聴(カウンセリング)を受けた。


 『……やはり深月君のことを聞きに来たのですね』


 警察から派遣された内村先生は、生き残り学童の一人だった「深月・斎賀」と、その時に初めて会ったのだ。


 『先生、どうか教えていただけますか』

 『……ええ、私でよろしければ。ただし、私の口から伝えられるのは、事件の記録資料上と同じ情報でしかありません』


 蛍は自分にすら知らされていなかった凄惨な事件――深月義兄はその生存児童の一人であった事、その後の彼の経過について、詳細を聞き出せると期待した。

 しかし残念ながら、事件と深月に関して当事者しか知り得ぬそれ以上の情報は明かせない、と内村は遠回しに断った。


 『先生』

 『強いて言えるのは、当時の私が幼き深月君へ抱いた"第一印象"くらいです』


 今では指名手配犯となった深月・斎賀は、E・C事件の重要参考人だ。

 とはいえ、ルーナ警察に属する内村がそれ以上の情報を上層部の許可なく漏洩すれば、「患者情報守備義務違反」に触れてしまう。

 ましてや、蛍は指名手配犯の身内であり、事件の現場捜査から外された"無関係な関係者"なら尚更。


 『当時は、まだ九歳だった深月君は、唯一非常に()()()()()()()でした』


 もどかしい話ではあるが、恩師の内村先生へ迷惑をかけるのも決して望まない。

 蛍の独断調査と訪問を内密にしてくれるだけでも、内村先生には感謝でいっぱいだ。

 蛍は自分に言い聞かせて妥協し、話から自分なりに"想像"を働かせるしかなかった。


 『受け答えもしっかりしており、亡くなった者と他の生存者の方を案じてすらいました。本当はあんな血腥(ちなまぐさ)い事件で命を奪われかけて、さぞかし怖かったはず』

 『っ……義兄さん……』

 『しかし、あの事件と私との出逢いは大きな"きっかけ"だったのでしょう……深月君が心理療法士を志したのも。今も懐かしく、けれど昨日の事のように思い出せますよ……だからこそ、まさか彼が……』


 当時、未だ幼く身も心も凍てついていた蛍へ微笑みながら手を伸ばしてくれた深月。

 冬陽のようにゆっくり、と穏やかに幼き蛍の()を解かしてくれた。

 蛍にとって理想だったあの優しい"深月兄さん"になる前の()は、果たしてどんな子どもだったのか。

 深月は昔から深月だったのか、それとも――。


 *


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