『悲劇なる道化の宴』③
「"殺してはいけない"――洋子・渡辺の証言によれば、スノームーンはE・Cの構成員へ必ず釘を刺していたの。結局、渡辺は復讐をしても気が晴れず、強硬手段へ出てしまったけれど」
まるで、自分へ言い聞かせているかのような口調で。
「もし、深月義兄さんが本当にスノームーンなら、"殺してはいけない"は義兄さんの意思」
「何が言いたいんだ」
「…… 確かに今のE・Cは暴走していて、負傷者も出たわ。けれど、被害に遭った三人は命を奪われていない。それに、大人の傍にいた子どもだけは、誰も危害を加えられていない……」
薄氷さながらの瞳は冷たく、不安定な揺らめきを覗かせているが、冷凛とした声は決意に満ちていた。
まるで、スノームーンかもしれない義兄、と彼の治めるE・Cを擁護しているとも捉えられる台詞に、光は目を見開いた。
「極論、死者は一人も出ていない……」
「つまり、お前の義兄貴は、E・Cと共に"子ども達"を救い、社会へ良き"変革"をもたらす……そのためなら、相手の命さえ奪わなければ、如何なる手段も厭わない……傲慢な救世主を気取っているわけか」
今度は蛍が双眼を見開いて息を呑む番だった。
薄氷の湖の底みたいに澄んだ黒瞳は、ほんの一瞬傷ついたように揺らめいた。
「そうね……光の言う通り、それが"事実"だわ……」
光を否定せずに、言葉では肯定しながらも、蛍の声も微かに震えていた。
思わず口を突いて出た辛辣な物言いに、我へ返った光自身も驚きを浮かべた。
「……悪い、蛍。俺が言い過ぎた……」
蛍の表情の変化を敏感に察知した光は、直ぐに蛍へ謝罪を告げた。
胸を刺すような後悔と自己嫌悪に耐えながら。
やはり、どうも、ダメだな――。
常に冷静を保つ事に努めていても、ふとした拍子に静かなる炎の感情は光の心の隙を突いてくる。
「光が謝ることはないわ。E・Cも彼らを率いる深月義兄さんも、間違っているわ。独り善がりな正義と信念のために誰かを傷つける事を厭わないのは…… ただの狂信者よ」
蛍の方もまた、E・Cの犯罪行為を容認しない姿勢は崩さない。
それでも、彼らの背負う心の傷や――とりわけ義兄の深月に対しては"理由があるはず"、と擁護したいのが本心だろう。
今もきっと蛍は、ルーナシティの何処かで息を潜ませている義兄を案じて気が気でないはずだ。
「そう、か……なあ、蛍」
「なぁに? 光」
唯一遺された肉親の深月を想い、哀しげに揺れる瞳の美しさは、光の心に負の煤を生んだ。
今は冷徹な刑事官の表情に戻っているが、冷たく澄んだ眼差しすら、今の光にとって己の不甲斐なさを突きつけた。
「お前は、義兄貴を――深月・斎賀のことを、今はどう思っているんだ?」
「――え?」
蛍にとって、今の光の質問とその真意も、予想していなかったものらしい。
氷さながら研ぎ澄まされた双眼を、今度は少女らしい透明さに瞬かせていた。
「もちろん。私にとって、深月義兄さんは大切な"家族"よ……今も、私はそう思っている」
蛍は、斎賀家との養子縁組で出逢った深月を、義兄として心から敬慕していた。
しかし深月は、誰かの人生を狂わせ、平和と秩序すら脅かす凶悪犯罪へ加担している。
義妹の蛍がそんな義兄へ抱く感情は、果たして悲哀や失望だけなのか。
深月と"本当の兄妹"みたいに共に過ごした穏やかな日々。
深月と共に読み語らい合った大切な本の物語。
甘い秋の木漏れ日のような思い出を語ってくれた蛍へ、光が訊きたくても訊けなかった事。
「だから、義兄さんが生きていて嬉しかった。でも、義兄さんが"悪い事"をしているのなら、私は何としても止めたい。そして、もう一度逢って直接確かめたいの」
思い切って質問したが、表情を曇らせた光は何となく蛍を直視できなかった。
淹れたい紅茶を選ぶのにも満たない短い間の後、蛍は当たり前のような口調で悠然と答えたる。
「一体、何のために義兄さんは犯罪へ加担するようになったのか。どんな理由があるにしても、私は義兄さんを救いたい――」
冷凛と奏でられた強い希望と覚悟は、蛍自身も迷いや偽りのなさを感じなかった。
「……そうか。いや、変なことを訊いてすまなかった」
光の胸に秘めていた別途の不安は、杞憂に過ぎなかった。
蛍の想いと覚悟を再確認できた光は、不安や疑念に曇っていた心へ日向が差すのを感じた。
「いいの、気にしないで。それより光、私はあなたの方が心配なのよ?」
「ああ。お前こそ、また無茶しようなんて考えるな。今度は家で大人しく留守番を頼むぞ?」
「もう、小さな子どもじゃないんだから。ふふふっ」
今から光は、爆破予告にあった危険の秘めた現場へ向かう。
光の身を心から案じる蛍の屈託ない笑みとひたむきさに、光も和んで苦笑した。
「万が一、何かあったら私用でもいいから先ずは俺に連絡してくれ。約束、できるか」
それから、直ぐに真剣な眼差しで釘刺すように告げてきた"約束"に、蛍は息を呑んで頷いた。
光を見つめ返す蛍の薄氷の瞳は、奥まで真摯な色に澄んでいた。
「ええ、分かったわ。光……気を付けて、行ってらっしゃい」
「ありがとうな。夕飯時には、必ず帰る――」
かくして、互いに不安を抱えながらも、蛍と光は互いを信じて祈りながら分かれた。
踏み出す者、と見送る者を隔てる扉の境界越しに互いの存在を見つめながら――。
*
「(だから、俺は必ず守ってみせる――"あの男"からも、何が何でも)」
自分にとっては、誰よりも大事な女である蛍の全てを――。
澄んだ氷の心に秘めた芯の強さ、と炎のような意志も。
自分にしか見せない、少女のように天真爛漫な笑顔も。
春日向のように優しく香る温もりとひたむきさも。
何一つ、曇らせ散らせるような結末は避けたい。
「(さぁ、深月・斎賀。この事件にも、本当にお前が一枚噛んでいるなら、早く姿を見せろ。前回のように、決して)」
お前の思い通りになんかさせない――。
今も影闇の何処かで自分達を窺い、E・Cと共にこの場所へ襲撃するかもしれない標的。
光は正義の憤りを胸に焚き付けながら、その"決定的瞬間"を忍耐強く待ち構える。
しかし、光は未だ知る由もなかった。
ひたむきな蛍の言葉は、嘘偽りを紡ぐ術を知らない無垢な子どもと似ている事を。
また子どもにありがちな、他ならぬ"癒えぬ感情の抑圧"であった事も。
曇りなき真夏空のような、光の愛情も。
灼熱の太陽のごとく、光の眩い意志も。
全ては、"真の絶望"を知る獄寒の冬空によって、凍り砕かれてしまう"未来"を――。
「!? 何だ……! 今の音は!」
まさに"決定的瞬間"は、光も現場にいない蛍の予想の範疇を超えた形で、呆気なく訪れた。
「大変です! 藤堂先輩!」
喫煙室の窓硝子すら振動させた断続的な爆音。
光の心臓も冷ややかな感覚と共に揺さぶられた。
喫煙室の内外にいる他の警察官達も騒然と戸惑う。
ただ、後輩の神楽刑事官が真っ先に光の元へ駆け付けてくれたおかげで、"今、現場で起きている状況"を容易に呑み込めた。
蛍の冷静沈着な思考に、黒沢の飄然な態度を折半したような独特感のある刑事官・神楽ですら珍しく慌てている。
「落ち着け、神楽刑事官。一体何があった?」
やはり、悪い予感は当たってしまい、ただ事ではないと察した光は神楽を軽く宥めながらも問いかけた。
「たった今さっき、美術館の中で、爆発が起こりました」
「! さっきの音はやはり爆発だったのか……今、現場はどうなっている? 館内にも、機動隊は張り込んでいるはずだが」
「そ、それが……」
やはり動揺からか、神楽にしては歯切れの悪い。
本館からやや離れた喫煙室にも響いた微かな揺れに、連続的でどこが律動的だった爆音……。
咄嗟に光は時計で現時刻を確認し、爆音の時間を逆算すると爆破時刻は、「二時五十二分」頃だと判明。
光が本館の外へ出てから爆発の起きた時刻までの間。
館内には敏腕な機動隊、と刑事官の巡回によって厳重な監視と警備されており、不審な点も人物も一切確認されなかった。
しかも、館内で発見した爆発物も処理班は既に回収・処分していたはずだ。
まさか、警察の隙を狡猾に潜り抜けて館内へ侵入していたE・Cはいるのか。
予告通り起きてしまった爆発は、侵入したE・Cが新たに仕掛けた爆弾によるものならば、その発見と阻止は叶わなかったのか。
光を含む館外に残された警察官すら、混乱の渦へ巻き込んでいる元凶を確かめねば。
早速、光達も爆発現場を目指して駆け出した。
「――何だ、あの真っ白な煙は――?」
十三夜美術館の正面玄関から外に駆けて、モワモワと漏れ流れてくる冷たい白煙。
明らかに普通の爆発の煙幕から逸した独特の匂いと光景、光も神楽も愕然と立ち尽くした。
*
痛い、痛い、痛い……。
一体、何が起こった――?
己が身を瞬時に襲った突然の出来事、とその元凶を確かめねば。
鮮やかな臙脂色の絨毯に倒れ伏せて入り「浜本刑事官」は、咄嗟に両手を這わせるが何にも届かない。
真っ白な冷気に閉ざされた視界。
先程から両手の甲から腕の皮膚へ際限なく広がる、凍てつく激痛の波濤。
今は苦痛の元凶たる破片のみが、館内に取り残された自分達へ降りかかった危険の一部を物語る。
人間の急所器官のある頭部と顔面は咄嗟庇ったおかげで、浜本は両手の負傷のみで済んだ。
「ぅ……小川、刑事官、皆、どこに……っ」
午後二時五十二分頃――突如の異変は館内で起きた。
サルトルの歴史と哲学の展示コーナーを共に巡回していた時、浜本と小川、部下達の背後から"何か"は飛んできた。
カラン、ゴロン、カラン……。
"何か"は、軽やかな合成樹脂の内壁と硬い物質の衝突し合うような音を奏でながら転がってきた。
浜本は自分達の足下に着いた怪しい物体に気付き、「危ない!」と叫んだ。
しかし、咄嗟の回避も注意喚起も遅く、特に小川の巨体は驚きと恐怖で跳ねて、床へ転がった。
『うわあぁぁ……!! ひっ! どけぇ……!!」
しかも、慄いた拍子も手伝い、小川は咄嗟に肘で浜本や部下を「邪魔だ」、とばかりに突き飛ばした。
混乱と恐怖へ陥った小川の耳障りな悲鳴と重なるように、謎の物体は花火のごとくけたましく爆ぜた。
突き飛ばされた浜本達は、視界一面が真っ白い煙幕に覆われていく様を愕然と見ていた。
他所の展示コーナーからも、爆ぜた花火のような音は連続的に響き渡った。
先ほどの爆破の勢い、と小川の力によって、浜本の方は約十数メートルまで飛ばされた模様。
「くそ……っ(一体、どうやって警備と監視の網を潜り抜けた? そして、こんな不意打ちの罠を誰にも気付かれずに何時仕掛けた?)」
数秒間、うつ伏せで苦痛に悶えていたの浜本は、敵の侵入にも罠にも気付けなかった己の不甲斐なさに、舌打ちせずにはいられなかった。
しかし、過ぎたことを悔いても埒は明かない。
先ずは、外で待機中の機動隊へ連絡しながら、現状と負傷者の把握をしていくのが最優先だ。
氷片を突き刺したように冷鋭な激痛に、皮膚の深部から熱を奪っていく流血。
花火みたいとは思ったが、明らかに炎とは異なる熱痛と不快な感覚に耐える。
浜本は警察端末を取り出すと、激痛に震える指先で何とか操作。
次に無線機の音声共有の接続スイッチも欠かさない。
浜本の耳に装着されたインカムから、無機質な通信音は鳴り始める。
「っ――ぐうぅうぅぅあぁぁぁ……!」
最中、展示コーナー外まで吹き飛ばされた小川の苦悶の悲鳴は、浜本の鼓膜を打ち震わせた。
声からも激しい苦痛に悶絶する様を想像できた浜本は、遠くから小川の安否を確認した。
「小川刑事官! 無事ですか!?」
「無事なわけ、ぐぅぅ、あるかこの、ぅ、この役立たず……! うぅぅ、わしの眼が!」
正直、聞き捨てならない暴言の後に吐いた台詞から、小川の状態は芳しくないと察した。
どうやら小川は、謎の爆発物の破片か煙幕によって眼を負傷したらしい。
しかし、浜本の胸の内では憐憫よりも、むしろ苛立ちと焦燥が増長していく。
獣の嘶きの比にならない程、みっともなく喚き散らす声ばかり。
課長である熟練者と自負する警察官が状況把握も即決対応もしないとは。
そのせいか、先程から通信音もマイクの音声も遠ざかって聞こえる。
「く……っ。何故、誰も応答しない? 現場の奴らは何をしている……っ?」
しかも、館内にも配置されているはずの他の警察官や、館外の機動隊からも応答や通信すら一向に来ない。
警察の動きのみが沈黙した状況に、浜本は焦燥感と悪寒に襲われた。
『こちら藤堂刑事官です! 無事ですか!? 浜本刑事官!』
「!! 藤堂刑事官……! あぁ……爆発に少々巻き込まれたが……私は無事だ」
『館内で何が起きているのですか』
ニ十分程前、浜本と入れ替わりで休憩へ外出していた光からの通信が来た。
危機的状況だからか、浜本は久しく感じていなかった安堵によって、肩の力も両手の痛みすら幾ばくか和らいだ気がした。
現場の状況よりも先に相手の安否確認をする所は、お人好しな藤堂刑事官らしい。
恐らく非引火性の爆発物の正体も、主犯の動向も把握できていない。
さらに、仲間の援護すら届いていない緊迫感の中、浜本は内心皮肉めいた苦笑を漏らした。
ただし、光に対して初めて感じた"安堵と頼もしさ"を悟られるのは何となく癪だ。
普段通りの理知的な声色を保ち、痛みに耐えながら光へ現状を報告した。
「俺にも未だハッキリとは分からない。ただ、何故か館内の警察官にも機動隊にも繋がらない。小川刑事官達と巡回していた最中、謎の物体は俺達の足下へ転がってきた瞬間に爆発した。残念ながら、現物は実際に目で確かめられていない」
『やはり、そうでしたか。今も、美術館の窓からは白い煙が立ち昇っています……』
光が述べた"白い煙"に得体の知れなさを感じた浜本は、改めて眉を顰めた。
『謎の白い煙は爆発によるものだと思います。もう一度訊きますが、浜本刑事官は今も無事ですか? 周りに危険は』
「俺は平気だと言っている。ただ、小川刑事官は眼をやられたらしい。幸い、この白い煙は無味無臭で無害に見える」
幸い、今も浜本の視界と足下を遮っている白煙は吸入しても火傷などの害や毒性は見られない。
それでも警察やAI、探知機器の眼すら欺いた謎の爆弾の正体を、直接確かめるまでは、未知なる危険が潜んでいる悪状況に変わりない。
「それより、館外で待機しているはずの機動隊の様子は?」
『はい。今、機動隊は館内へ入るために玄関口を突破しようとしていますが……防犯シャッターが――」
途中、館外の状況を報告している光の声は明らに揺らいでいた。
最初は光自身の動揺が声に現れた、と察した浜本はマイク越しに再確認を促す。
「……? シャッターがどうした? 藤堂刑事官――」
しかし、浜本の問いかけも、光の返答も最後まで奏でられなかった。
「つまり、誰の助けも来ないってこと」
「が――っ!?」
後頭部を突如襲った衝撃と鈍痛に、浜本は頭の頂から爪先へ力が急激に抜けていくのを感じた。
反撃の余地すらなく、浜本は糸切れ人形のようにパタリッと倒れ伏せた。
『!? 浜本刑事官!? 応答を! 浜本――!』
無理やり耳から外された無線機越しに響いてくるのは、狼狽した光の呼び声。
後頭部からジワリッと侵蝕してくるのは、回るような眩暈と生温かく濡れた感触だった。
「―― っふ、ふふふっ。おやすみなさい、浜本刑事官」
動けない浜本の両手足へねっとりと絡まってきた、人形のように繊細な白い手を視認できた。
浜本は意識が常闇の海へ緩慢に沈んでいく中、辛うじて耳で掬ったのは―― 。
「私の新しいお父さんとお母さんが迎えにくるまでの間、《《フェンリル達》》と一緒に遊んでね?」
かつて、仄暗いエクリプス区地下で一度耳にして以来。
耳の奥で絡みついて忘れられなかった蜂蜜のように甘く、猛毒を孕んだ幼声。
鼓膜を執拗にくすぐってくる毒蜜の声に、浜本は次に目を覚ました瞬間から思い知らされる。
"人生と幸福"を奪われたE・Cが織り成す"悪夢の裁き"の宣告でもあった―― 。
***続く***




