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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
31/77

其ノ十二『黒き炎の蚕食』①

 E(アーストワイル)C(チルドレン)――そう名乗る黒い揚羽蝶の衣装を纏った不気味な集団。

 彼らによる悪質な連続傷害・暴行事件は、ルーナシティの平和と秩序を内側から崩壊させつつあった。

 樹木の養分を壁ごと蚕食し、貪り尽くす悪食虫のごとく。

 第三事件の現場・地下鉄電車内の安全装置セキュリティ・システムへの不正アクセスとクラッキングの痕跡も確認できた。

 分析部の技術によって解析・復元された、事件の惨状を映した監視カメラ"本来の記録"は決定打となった。

 喜田と大河内、吉田の被害者三名を襲った被疑者は『E・C』と名乗る黒装束の同一集団犯だ、とルーナ警察はようやく確信した。

 さらに、今回の事件はかつてない"異常事態"であることも。

 しかし、警察がその現実に気付いた頃には、既に全てが手遅れだった。

 三つの断続的な悪質事件は、さらなる悪夢の"序章"に過ぎなかった事に。

 不吉な黒い揚羽蝶による"蚕食(さんしょく)"は、むしろ今から本格的に始まった事にも。


 「――な、何なんだよこれ……何が起こった……?」


 第三事件の起きた同日の午後に、警察へ不穏な通報は、波濤(はとう)のように押し寄せた。

 ウェイニングムーン区・月花(つきはな)庭園にて。

 子ども達を見守っていた三十代の女性二名は、不審者に金属バットで頭部を殴られて意識不明の重体へ陥る。

 同時刻、ワキシングムーン区・上弦(じょうげん)噴水広場にて、通行人は複数人の不審者に手足や胸を、すれ違いざまに切りつけられる怪我を負わされた。

 他にも枚挙にいとまがない件数の傷害暴行事件は、中央周辺区にて頻発していた。

 一般市民を無差別的に襲い始めた不審者達―― E・Cを取り締まるために、幾つかの刑事官と治安維持官、救護部隊は現場へ派遣された。

 しかし、現場は警察ですら戦慄する惨状へ陥っていた。

 ()()()()E・Cによる返り討ちにあった警察官は負傷した。

 中には、錯乱した一般市民に犯人と間違えられて襲われる者もおり、"二次被害"まで生じている。

 ルーナ警察病院も提携の公立病院も、豪雨さながら舞い込む救急要請、と緊急搬送された負傷者への対応に追われていた。


 「狼狽(うろた)えるな。先ずは、一般市民の保護が最優先だ。負傷者の確認と応急処置を始めるんだ」


 戦慄の混乱の渦中、光・藤堂の率いる葉月班も治安維持官と救護官の部隊と共に、「月花庭園」へ出向いていた。

 麗らかな彩りの消え失せた庭園の惨状、被害を受けた市民の姿に、光達は固唾を呑んだ。

 予想を超える凄惨な光景に、警察官ですら、戦慄と動揺に数秒足を竦ませた。

 それでも光は、喉底から迫り上がる義憤を、激励の言葉へ換えるしかなかった。


 「アクセスが殺到しているだろうが、こちらも救急搬送機を要請する。到着までの間、俺達は今できることに最善を尽くす」

 「りょ、了解しました!」

 「救護中に襲撃があっても、背後は俺達刑事官が必ず"守る"」


 光の揺るぎない意思を奏でた的確な指示。

 冷静沈着かつ太陽さながら熱く力強い響きに、動揺していた仲間は目を覚ました様子だ。


 「ありがとうございます! 大変心強いです」

 「いくぞ! 気を遣わせてしまってしまったな。感謝する! 藤堂刑事官」


 気を取り直して各自の役割を果たしに駆け出し、背中を光達へ委ねた部隊。

 司令塔たる部隊の一員から、激励への感謝を告げられた光は苦笑で応じる。

 他の部隊員と同じ心境に、光だからこそ既に勘付いている事件の裏に潜む"悪意"への怒りを抑えながら。


 「気にするな。俺にも、お前達と同じ気持ちだ……」


 光は警棒を手に周辺を注意しながら、自身の警察端末(ポータブルポリス)で連絡を試みる。

 案の定、アクセス殺到で通信不安定なうえ、やっと繋がっても救急搬送機が現場へ到着するまでは、暫く時間を要するらしい。

 誰もが分かり切っていた緊急事態。

 とはいえ、"現在進行中"の事件現場で、負傷した一般市民も彼らを守る警察官も、持ち堪えられるのか。

 光は不安と弱気な表情を見せない代わりに、やるせない溜息を静かに吐いた。


 「くそ……っ。しっかり気を持て……」


 光の生真面目な性格からは決して実しないが、そうでなければ緊迫感を解すべく電子煙草でも吸いたくなるだろう。

 現在も行方不明中の"あいつ"のように。

 犯人集団の悪質さを鑑みれば、拳銃による"武力的防衛"もやむを得ないかもしれない。

 とはいえ、恐怖と混乱(パニック)へ陥り、負傷者まで出ている一般市民を無闇に刺激する真似も極力避けたい。

 被害民の保護や応急処置へ取り掛かる者達の四方を監視する中。

 光の瞳へ焼き付くのは、一時間程前までの月花庭園にはなかった火煙と血の惨事。

 爛漫と咲いていた彩りの草花は、無残に踏み荒らされていた。

 散った花の残骸は血痕と共に地面を汚す。

 銀杏や栗の樹々や煉瓦造りまでもが、焼け焦げている。

 手作り火炎瓶の残骸も発見した光は、消防署にも要請をかける。

 庭園の花壇や椅子、東屋の付近には、傷つけられた市民が散らばっている。

 頭部や手足から流血している者。

 毒々しい腫れ痣や創傷、と痛みに悶絶する者。

 人形さながら意識を失っている者、もしくは凍り震えている者もいた。

 月花庭園は、爛漫と季節を謳う"楽園"と呼ばれていた。

 しかし、今は人工の豊かな自然は焼け落ち、不吉な血と硝煙の匂い、無辜の悲鳴に満ちている。

 まさに、"悪夢の庭園"へ変貌した場所で光達は――。


 「た、助けてくださいっ」


 最中、一人の女性は片足を引きずりながら光へ助けを求めて駆け寄った。

 乳白色の羊毛外套(ウール・コート)頭巾(フード)を被った、二十代前半くらいの女性だ。


 「大丈夫ですか! こちらは安全です。怪我の手当てをしなくては」

 「ありがとうございますっ。真っ黒な人達がいきなり公園に侵入してきて……っ。こ、怖かったです……!」


 咄嗟(とっさ)に光は女性へ手を差し伸べると、そっと椅子(ベンチ)へ座らせた。

 光は、女性の膝から流血している右肩足の手当てをしながら、相手を安心させるために語りかける。

 女性を救護部隊へ託した光は、庭園内の巡回を再開した。

 道行く先々で発見した負傷者へ、応急処置を施したり、意識と安静の確認をしたりを繰り返す。

 時折、襲いかかってきた黒揚羽人間も返り討ちにしたり、身動きを封じたりして対処する。

 光も仲間も一人でも多くを守り、救うために、未曾有の危機的状況へ最善を尽くそうとする。

 それでも、一人一人の為せる事も守り救える者は、限られているのが現実だ。


 クソっ、我ながら不甲斐ない――っ。


 目の前の"一人"を守っている間に、他所の"一人以上"は傷つけられている。

 目の前の"一人"を救っている間に、他所の"一人以上"は意識と命を奪われている。

 とりわけ、小さな子どもが親へ縋りついて泣いている姿。

 または、親が小さき子を抱いて救いを懇う姿も。

 光の瞳へ焼き付く度に、強い悲憤と焦燥は彼の胸を焦がした。

 揺るぎなき正義を胸に歩みを進める光を嘲笑うように、無力感は彼の足と歩みの意思を凍て付かせようとする。

 どうして、こんな状況(とき)に限って"あいつ"は。


 『バーカ。お前はちぃと、肩の力を抜きゃ、丁度いいんだよ』


 己にも他人にも、つい杓子定規(しゃくしじょうぎ)的な見方で対応しては上手くいかない事の多かった自分。

 焦燥と不甲斐なさに、常々自省しながら打ちひしがれていた。

 そんな俺に笑いながら、頭を馴れ馴れしく叩き、励ましてくれた"あいつ"。

 俺が立ち向かう残酷な現実へ共に歩み、俺の背中を押してくれた。

 だからこそ、昔とは違い、今はこうして自分で臨機応変に判断して動き、周りにも注意を向けられている。

 それでも、あいつと――さらに、"彼女"さえ隣にいれば「鬼に金棒」となり、どれほど心強いことか。

 二人が揃えば、目の前の"一人以上"だけでなく、離れた"一人以上"をも、守り救うことができるはずだ。

 彼らの存在の大きさ、と損失を今ほど痛感せずにはいられない。


 なあ、()()……お前は今どこで、どうしているんだ?

 あの男と――"蛍の義兄(アニキ)"と一緒にいるのか?

 無事なのか、それとも。


 記憶の中でしか会えなくなった、"相棒"であり"親友"よ。

 あいつの軽佻浮薄な笑み、と軟派な言動を郷愁と共に想起する。

 やがて懐かしさは温もりとなり、凍てつきそうだった両脚も心も解かしていく。

 こんな時なら、あいつも彼女も、"どう動くのか"――考え抜きながら、とにかく動け。


 「っ……誰か、お母さんが、お母さんが……助けて――!」


 光の足も心も滞らせていた、失意と無力感の氷を砕いたのは、とある親子の姿と呼び声。

 物言わぬ人形となった母親の傍らにいるのは、幼き子ども。

 さらなる絶望へ引き摺り下ろすような嘆きの渦に、健気で痛ましい泣き声は響き渡る。

 光は慌てて子どもへ駆け寄ると、緊迫した声を努めて和らげる。


 「もう、大丈夫だ。一人でよく頑張った。俺の仲間も、もうすぐ来てくれるから、お前もお母さんも直ぐに助けて――」

 「お兄ちゃん?」


 心強い父親みたいな声と微笑みの光に、子どもは幾ばくか安堵したのか涙を止めた。

 しかし、光の口から紡がれていた穏やかな励ましの言葉は、途中で彼自身の喉へ呑み込まれた。


 「お兄ちゃんも、だいじょうぶ? どこか、()()()()()()したの?」


 沈黙に双眸を伏せる光を案じる、子どもの無垢な眼差しに、居た堪れなくなる。

 密かに逸らした目線の斜め下から映り込むのは、"首と四肢のある()()()()()"。

 光の瞳からは悲憤の滴と炎が、吐き気を伴なって奔流しそうになる。

 一方、光の懐から鳴り響く電子音も、周りの惨事の騒音も、嘆きの沈黙に伏す余地すら許してくれない。


 ()()()()……? いつのまに。


 通信を鳴らす警察端末を取り出すために手を突っ込んだ懐には、全く馴染みのない紙の感触と音がした。

 光は空寒さを覚えながらも、真っ先にメモの正体を確認したい衝動に逆らえなかった――。


 *


 茜色の瞬く夕雲の刻時。

 早々に退勤を要された蛍は、自宅で一人"作業"に没頭していた。

 夕明りの反射する硝子卓上(ガラステーブル)に隙間なく広げられているのは、旧時代の遺物――紙の資料の束。

 主な内容は、例の事件の重要参考人兼指名手配中の被疑者である深月・斎賀について。

 被疑者唯一の身内として、蛍自身も警察に注意(マーク)されている中、浜本達にもバレずに密かに調べ物をするのは危険(リスク)が高いからだ。

 在宅業務(リモート・ワーク)という形式で、署内の記録資料を閲覧・保管できる警察端末を自宅で使用する許可が出たのは幸いした。

 おかげで、深月に関するあらゆる記録を既に自身の端末へ移して密かに持ち帰れた。

 自宅で印刷した資料、とホットココアをお供に、蛍は落ち着いて内容を吟味できる。


 「(第一事件のニュームーン公園のごみ箱から発見された、小笠原大臣の財布。何故、大臣の"I()D()()()()"()()()()()()()()()()()の?)」


 今、蛍の思考を占めているのは、第一猟奇殺人事件の報告書から、目に留まった疑問点。

 先ず、第一被害者・小笠原大臣の遺体、と現場の状況に秘めた犯人の"目的"と真意だ。


 「(恐らく盗んだのは、直接手を下したレギン。でも、一体何のために? それに)」


 殺戮者レギンの猟奇性が顕著に表現された惨殺死体。

 派手で惨たらしい殺害方法に気を取られるあまり、警察も蛍すら見過ごしてしまった謎が判明した。

 例えば、強盗殺人犯が被害者の財布から抜き取るものは、大抵金銭価値のある仮想通貨カードやクレジットカードだ。

 しかし、現場に投棄された小笠原の財布から唯一抜き取られていたのは、小笠原のID(身分証明)カード。

 ICT化した公共機関も、その安全対策も未整備だった旧時代。

 他人のIDカードを盗み、"個人のなりすまし"によって現金引き出しや、公的機関の不正な利用と侵入等の犯罪は多発した。

 しかし、安全装置の完成によって、ICT関連を含むあらゆる犯罪は、ほぼ撲滅を辿っていた。

 ICT大都市ルーナシティでは、他人のIDカードを盗めたとしても、暗証番号は当然、顔や指紋などの生体認証で引っかかれば、不正は即発覚。

 しかも、同時に警察への自動通報システムも作動するのだ。

 だから尚の事、レギンがわざわざ小笠原大臣のIDカードを盗んだ目的とその使用用途も想像つかない。


 「(そもそも、レギンは……義兄さんは何故、小笠原大臣を含めて、()()を"標的"にしたの……?)」


 事前調査においても、生前レギンこと芳夫・三浦、と小笠原とは何の接点もないことが判明している。

 己の恵まれなかった養育環境や社会そのものへの怨恨の矛先を、社会的地位の高い人間へ向けることは珍しくない。

 事実、秘密地下での応戦時のレギンは、警察官を含む選良民(エリート)への嫌悪感を吐露していた。

 とはいえ、単純な動機だけではレギンの言動の目的と根拠に説明はつかない。

 自分とは何の接点もない小笠原を惨殺し、わざわざIDカードを盗んだ理由とか。

 当のレギン亡き現在も、紛失したままのIDカードの行方も不明だ。


 「(殺人犯本人だけでなく、被害者である小笠原大臣の……生前の活躍や背景もより詳しく調べれば、何か分かるかもしれない)」


 小笠原被害者は、『福祉省の子ども・若者部門』の()()()として、各所で活躍と貢献ぶりを披露し、民衆からも好評だった。

 死後に暴露された"収賄罪"によって恥辱にまみれた非業の最期を迎えるまでは。


 「(次は第二と第三事件――)」


 今度は、第二と第三事件の被害者達に関する記録を、紐解いていく。

 両事件においては、()()()()()()()()()()()()双方の関係を鑑みれば、切り離して考えることはできない。

 最初の(ページ)に、予め蛍光色筆で下線を引いた箇所を捉えた瞬間。

 蛍の薄氷色の瞳は、亀裂が入ったように揺らいだ。

 冷たき"悲憤"の炎によって。

 最初に蛍の脳神経細胞に読み解かれた内容は、石井加害者(被害者)が撮影した「()()()()」について。

 石井が()()()()()()()()証拠によって明るみに出たのは、「慈愛ホーム」の職員による被保護児童への"虐待"という実態。

 施設内の証拠映像の検証、さらにホームの関係者への聴取によって、以前から浮上していた疑惑は()()として確定した。


 「(やっぱり佐々木所長は、ただの被害者じゃなかった。むしろ()()()()()な――)」


 石井の亡き妹だった被保護児童・(あかり)は、()()()()()()()()()()()()

 事件当時、他者との意思疎通が難しかった石井妹は、個室の遊び部屋(プレイルーム)で一人遊びをしていた。

 しかし、最中に突然入室してきた佐々木所長は、石井の妹へ背後から抱き付いた。

 予期せぬ声かけと身体接触は、不安症と感覚過敏な彼女を混乱へ陥れるには十分過ぎた。

 しかも、佐々木が子どもへ触れる手付きは、親子さながらの微笑ましさからは程遠かった。

 佐々木は、気に入った被保護児童を、人気のない個室へ日常的に連れ込んでいた。

 未成熟な胸部や下部へ手を執拗に這わせ、聞くに耐えがたい卑猥な台詞や、脅迫としての罵倒を囁く等、まさに常軌を逸していた。

 警察による施設への抜き打ち調査の結果、関係者の大半も涙ながらに打ち明けた。

 秘密のカメラが記録していた、佐々木の忌むべき行為、と被害に関わった子ども達や職員の証言が一致したため、"事実"として確定された。それにしても。


 「(子ども達にとって、一体、()()()()()()、"幸せ"でいられるのでしょうね……)」


 虐待や育児放棄等の事情から保護された児童にとって、"安息の場"になるはずの児童保護施設。

 しかし、慈愛ホームの場合は結局、"悪夢の延長線"に収束した。

 皮肉な話だが、二郎・石井が佐々木所長を殺害した結果、残された子ども達は窮屈と恐怖の生活から解放された。

 さらに、事件の中枢にあった二郎・石井自身も死亡した今、永久の闇へ葬られたのだ。


 二郎・石井の"心の真実"――妹を喪った彼が"殺人"を選択し、そこへ賭けた願いも祈りも。

 だから蛍も"想像"でしか、石井を理解する術はないのだ。

 物的・状況的証拠や証言から総じて判断すれば、石井の動機は"復讐"だった。

 大切な妹を辱めた挙句、命まで永久に奪った、"子どもの庇護者み"の皮を被った悪魔を己の手で葬った。

 決して癒えぬ悲嘆の涙すら、瞬く間に渇き失せる、復讐と殺意の炎に灼かれて。


 ああ、なるほど。

 だから、死に至る病(絶望)か――。


 二郎・石井の悲壮な背景と動機、佐々木所長の本性と悪行、そして妹の不条理な死を思う。

 蛍の胸にも悲憤は灯り、亡き石井を気の毒に思う節もある。

 反面、安っぽくて無意味な同情心を抱くことはない。

 生前、小笠原も佐々木も本来は法律の正当な裁きを受けるべき罪人であったとしても、「人殺し」は最悪な選択肢でしかない。

 新人時代から、光や仲間と共に己の胸へ刻んできた"警察として、人としての倫理観"を思い返す。

 蛍は()()()()へ引き摺られそうになった己を、氷の理性で律した矢先。


 『君は決して僕を"殺せない"――』


 真っ先に頭を過ぎったのは、懐かしくて切なくなる、義兄の柔和な眼差しと声。

 昔と変わらないはずの微笑み、と乖離した不穏な台詞。

 蛍は、心に張った氷壁へ"痛み"という亀裂が入りそうになるのを感じながら思った。


 「(しっかりしなさい、蛍――。全ての真相も正当な裁きも、きっと深月義兄さんが、全ての鍵を握っている。もう一度、義兄さんと逢って話して、"逮捕"する。そのためには、事件と義兄自身をさらに理解する必要がある)」


 そうだ、猟奇連続殺人は収束しているが、"事件"は未解決《(終息はしていない)》だから――確信しているのは、蛍と光だけだ。


 「(たとえ義兄さんが、私の大切な同僚を攫い、殺害し、心を壊した、許し難い罪に濡れてしまったとしても)」


 甘いココアを飲んだ口から苦い溜息を零しながら蛍は自嘲する。

 今度は、恐らく義兄本人が作成しら猟奇殺人三件の現場に残した例の"怪文章"へ目を通そうとした矢先――。


 「――誰か、いるの?」


 パタンッ――旧時代の象徴を奏でるスチール音の源は、"開かずの郵便受け(ポスト)"だった。

 最初は通行人がぶつけたか、屋内廊下にはあり得ないが強風で蓋が動いたのか。

 蛍は、懐かしさと不安を行き来する心で逡巡する。

 単なる気のせいか、せめて子どもの悪戯(いたずら)であることを内心祈りながら玄関扉へ近付いた。


 「手紙……? 」


 郵便受けの冷たい感触が残る手が捕らえたのは――住所も差出人も無記名の手紙。

 現代は機械と電子による言葉のやりとりが主流なため、手紙も便箋(びんせん)すら絶滅したモノのはずだ。

 くすみに染まった乳白色の薄い紙の材質、と特有の香り。

 蛍は、丁寧に納められた手紙の封筒を震える指で解き、中身を取り出した。


 これって、まさか……!? 


 一枚の便箋に(つづ)られたのは、短い文章。

 己の儚き過去を鮮やかに呼び覚まそうとする"匂い"は、さらに濃度を増した気がした。

 懐かしくもおぞましく見える物体は、蛍を不安と困惑で慄かせた。


 *


 黒揚羽蝶の外套(マント)覆面(マスク)を纏った集団『E・C』。

 彼らの暴虐の手は特定の個人から、一般市民へと無差別的に広がった。

 警察も世間も、E・Cを"凶悪犯罪組織"として認識した。


 『緊急速報です……今まさに世間を震撼させているE・Cによって……被害……拡大中……』

 『政府は正式に……"緊急事態宣言"……発令……市民の皆様は、不要不急の外出を避けて……』


 政府機関も、ルーナシティで起きている異常事態、と市民の不安と混乱を危惧している。

 メディアを通じて、各区の公的機関も、緊急速報や安全確保のための外出規制・避難勧告を呼びかけていた。


 『一般市民が次々と犠牲になり……ついに、ルーナ警察署長は……』


 ルーナ警察の刑事部単独では対応しきれない、未曾有の緊急事態へ発展した。

 ルーナ警察は『警察総動員令』申請を『国防省』へ提出した。

 そして十二月七日、国防省の総督大臣の許可が下りた事によって、ルーナ警察も、治安保持とE・C鎮圧のため本格的に動き出した。


 「では、今から『警察総動員令』に則った『E・C鎮圧作戦』のための情報共有と実行計画について話し合いを始める――」


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