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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第2章『黒い蝶と雪の月』
30/77

『毒蜜を啜る蝶』②

 もう、死のう――。


 自分には"死"を以ってのみ、安息へ至る道が残されていない――()()()()()

 全てに絶望するしかなかった己をこの肉体ごと葬り去ろうとした矢先。

 何の前触れもなく届いたのは、見知らぬ者からの一通のメール。

 最初はただの迷惑メールだと思った俺は、自暴自棄と少しの好奇心からメールをクリックした。

 どうせ、もうすぐ死ぬのだから何を開いて起きたってかまわない。

 今思えば、差出人欄に記された"()()()()()()"というペンネーム――甘い氷菓子を舌に滑らせ、満月の輪郭をなぞるような心地よい響きに心惹かれたのもある。

 メールの内容は、スノームーン運営の『子ども・若者向けの悩み相談コミュニティサイト』の勧誘だった。

 ネットでの悩み相談に対しては、見知らぬ赤の他人が相手の悩みを理解して適切な助言をくれる事に正直懐疑的だった。


 『どうか、独りで苦しまないでください』

 『我々はあなたの気持ちへ寄り添います』


 ありきたりの陳腐な慰め文句が載っていたのなら、俺は迷いなく例のメールを即削除していた。

 しかし、スノームーンの招待状に記された"不穏な勧誘文句"は、虚ろだった俺の心へ妙な高揚感を点火した。

 いつのまにか、躊躇なくアクセスしたサイト『スノープラネット』に瞳と心を奪われていた。

 コミュニティサイトは、冬日向の輝く青空と雪原の写真が背景に飾られた穏やかな雰囲気だった。

 メールに記された手順に従い、俺はサイト内に存在する「()()()」を見つけ、クリックした瞬間。


 「っ――ひっ!?」


 清雅な冬の白世界は、"墨色に凍える世界"へ一気に暗転した。

 サイト頁の背景には、夜闇に瞬く雪のように"真っ黒な揚羽蝶"の群れが、こちらを不気味に覗き込んでいた。

 俺が開いたのは、所謂(いわゆる)"裏口サイト"だ。

 不穏な勧誘メールの言葉通り、スノームーンという輩は、()の"願い"を本当に叶えてくれるのか?

 未だ半信半疑の俺は、裏サイトに掲載された「秘密の電話番号」を自分の携帯端末へ打ち込む。

 今から"雪月の死神"と連絡する緊張感と期待に震える指先から冷え渡る。

 冷たい汗で湿った通話口を耳元へ当てた。

 異様に長く感じた刹那の沈黙を裂く電子音から数秒後に通信は繋がった。


 『こんばんは、()()()()()()です』


 淡雪のように儚げでありながら、胸の芯までひんやりと染み渡る凛とした声。

 慈悲深き旋律を奏でる声に耳朶を撫でられた瞬間、俺は聴き入る中で悟った。


 スノームーンの御言葉(おことば)こそは、()()だ――。


 仄暗い孤独の深淵へ追放された俺に、最後の最後で差し伸べられた"救いと(あがな)いの神の御手"そのものだ、と。


 『決して恥ずべきことではない。君は、何も悪くないのだから』


 スノームーンは"全て"を知っていた。

 死による安息を求めずにはいられないほどの恥辱も。

 決して誰にも信じてもらえず、ただ嘲笑と罵倒を浴びせられた孤独と痛みも。

 涙の流し方を忘れ、幸福に飢え渇いた俺の喉の奥底から零れた、"声なき絶叫"を。


 『むしろ僕は誇りに思う。この一歩を踏み出してくれた、君自身の"勇気"を――』


 スノームーンは――スノームーン()だけは、俺の全てを理解(わか)ってくれた。

 俺の痛みを受け止めてくれた。


 『生きたい――心の片隅で一瞬でも感じたのなら、君にはその"権利"がある。()()が誰にも文句を言わせない』


 "生きたい"という叫びを映す俺の悲憤も、己を取り戻すための憎悪も。

 スノームーン様とその"同志"は、許してくれた。


 『君は我々の()()。同志の魂に応えるのは、我々の使命。明日、君の願いは叶う』


 翌朝の十二月五日。

 スノームーン様の指定した時間帯の地下鉄電車へ俺は乗った。

 しかし、通勤通学ラッシュで混雑する電車内に、俺は忌々しい記憶と共に吐き気と窒息感を必死に堪えた。

 そう、"この場所と時間"こそは、俺にとって深き心の傷口を焼きほじくる猛毒のごとき。

 秋冬にも関わらず、暑夏に当てられたような汗に全身は湿る。

 頭を金槌で打たれるような目眩と動悸に苛まれる。

 "穢らわしき猛獣"の巣窟に野晒しにされた小動物となった俺は、怯えながら"あの瞬間"を待ち構えると。


 「――おやぁ、()()()()()()()? 『和馬・高田』くぅん」


 寿司詰め状態の車内の壁角で一人。不自然に震えている獲物の匂いを獰猛に嗅ぎつけた"あいつ"は俺の目前に迫る。

 今この瞬間も油断すれば意識を吹き飛ばされそうな恐怖の頂点(ピーク)の中、俺は己の悪夢と対面する。


 「まさか、こんな場所でまた会えるなんてねぇ。()()()()()()()()ようだが」


 海外の高級銘柄(ブランド)の森緑色のハンチング帽、その下から覗くのは紳士的な壮年の顔。

 しかし品格高い風貌と立ち振る舞いに反し、この男はどんな動物よりも醜悪で汚らわしい生き物だ。

 時を経た今も、邪欲にまみれた瞳で俺を睨め回しながら、下卑た笑みで唇を歪めている。

 人間の皮を被ったおぞましい欲獣(よくじゅう)の本性の表情は、俺と同志のみが知るのだ。

 (しわ)だらけのブヨついた醜く汚らわしい指が、ついに俺の肩へ触れる寸前――"奇跡"は目の前で為された。


 「――哲郎・喜田(きだ)


 哲郎・喜田――そう呼ばれた紳士的な身なりの初老男性は、呆然と双眼を見開く。


 「――え?」


 右手のひらから指先にかけてジワリッと波紋するのは不快な感触――その正体と元凶を正しく認識するまでには数秒も時間を要した。

 喜田の垂れた瞼下(まぶたした)から映るのは、狙っていた獲物だった男子高校生。

 先程までは深い恐怖に揺らいでいたはずの彼の瞳には今、"希望と悦楽"の炎が煌めいている。

 絶望から解放された男子高校生の視線は己の背後――喜田の名を忌むように呼んだ存在へ注がれている。


 「「哲郎・喜田」」


 今度は重複して響いた呼び声と共に気配へ気付いた瞬間。

 喜田の視界上部を遮っていた高級ハンチング帽は剥ぎ取られた。


 「「「「哲郎・喜田」」」」


 今度は四重奏の呼び声。

 喜田の双眼は金縁の老顔眼鏡越しに、"真っ黒な大群"を映した。


 「あ――あぁあ、ああああああぁぁああぁ!?」


 喜田の手のひらから指の爪先にかけて奔流するのは、皮膚と肉が焼き爛れるような鋭い激痛。

 喜田は、ただ、ただ狂い叫び、狼狽えるしかなかった。

 初めての激痛にのたうち回る喜田へ注がれるのは、無感情な真っ黒い丸瞳。

 禍々しい紋様(もんよう)を描く蝶の羽を彷彿させる漆黒の布で覆われた全身。

 ヒト型の黒揚羽蝶が開発されたのか、と喜田が滑稽な錯覚へ陥った瞬間。


 「哲郎・喜田!」

 「哲郎・喜田、哲郎・喜田、哲郎・喜田、哲郎・喜田、哲郎・喜田――!」


 今度は喜田の左手にも、右手を苛むのと同等の激痛と不快感がザクザクッと侵蝕していく。

 皺だらけの皮で覆われた脆い骨と腐りかけの肉は、滅多刺しにされていく。

 鮫の歯のように鋭利な刃に、赤黒い血に汚れていく手を視認した喜田は、ようやく状況を察知した。


 「!?ぐああぁあぁ、やめろ! 痛い、痛い、やめてくれぇ! があ!?」


 指先から蚕食されるような激痛は喜田の思考を蝕み、耳障りな悲鳴へ変換させていく。

 いつの間にか車内でひしめいていた"黒蝶の大群"は、一斉に襲いかかる。


 「哲郎・喜田――()()()()()()の哲郎・喜田へ"聖なる裁き"を――!」


 黒い揚羽蝶の集団は喜田への呪詛を猛り唱える。

 邪悪を打ち砕く英雄さながら、鋭利な刃を果敢に掲げる。

 大群は仲間の一部に床へ押さえつけられた喜田は洋服も剥ぎ取られた。

 露わになった胸板から鳩尾(みぞおち)にも、刃は幾つもの赤い軌跡を描き殴る。

 生きたまま蚕食(さんしょく)されていき、されど意識を失うことで恐怖と痛みから逃れる事も許されない"地獄"。

 喜田は連中が食い飽きるまでの永き刹那、ただ狂い叫んだ。


 「やだ……気持ち悪い……」

 「一体何が起きているの」

 「やべーな! マジで。撮るしかないだろ。大スクープ!」


 一方不気味な黒蝶の集団が繰り広げる惨劇を前に、他の乗客は悪夢へ陥ったような表情で立ち尽くすのみ。

 中には惨劇の一部始終を動画撮影する者達もいた。

 厳重な安全警備に守られていたはずの密室で起きた惨劇に戸惑い、慄く乗客達。

 しかし、喜田を助けるどころか、通報する者すら誰一人もいなかった。

 基本はAI(人工知能)と自動電力で稼働する電車だが、万一の対策に駅と車内に配置された駅員すら異変に気付いていなかった。

 駅と電車内の一部始終を二十四時間監視する映像記録機と通報機能――通称「社会の眼」すら、或る人物(クラッカー)によって潰されている異常が警察によって発覚するのは、だいぶ後先の話となる。


 「なるほど。そういうことだったのですね……」


 惨劇の渦中から一部始終を傍観していた「和馬・高田」青年は、感慨深そうな眼差しで悟り呟いた。


 人を救うのは人ではない。

 人を裁くのも人ではない。

 在るとすればそれは、"真なる神"の鉄槌であり、"黒き天使"の制裁を以てのみ――。

 一体、目の前何が起こったのか。

 細かいことは今の俺には既にどうでもよく、ひたすら清々しい。

 スノームーン様こそは、神そのものなのだから。

 俺へ救いの手を差し伸べるために、"黒き蝶"の羽をひらめかせる"漆黒の天使"を遣わせた――単純な話だ。

 かつて俺に地獄の泥を啜らせ、汚濁に(まみ)れさせた罪深き男に、目の前で神罰が下された。

 血に濡れたおぞましくも美しい奇跡の御業に、頭痛も吐き気も忘れて魅入られた。

 代わりに、奥底から湧いた火溶岩(マグマ)のような高揚感。

 心に沈殿した汚泥が全て浄化されたような解放感。


 「っ――はは――っ、はははは――っ!!」


 渇いた唇からは自然と狂喜の高笑いが響き渡った。

 神・スノームーンによる奇跡の御業によって、たった今叶えられた青年の悲願。


 『あなたを傷つけた罪深き者に、あなたを迫害した社会に、()()()()()を下します』


 その瞬間を予言した"例のメール"は、今や()()となった。

 自由と解放を謳歌するのに目覚めた青年の脳内へ耽美に再生される。


 『あなたと痛みを分かち合い、共に"復讐と制裁"を叶える同志と共に――』


 誰にも信じてもらえずに黙殺するしかなかった男子高校生。

 彼は己を頑なに縛る(かせ)そのものである学校の制服を、偽りの自分ごと脱ぎ捨てた。


 「ようこそ、我が同志。受け取るがいい。黒き証の羽を」


 ()()()()()()"()()()"受難の民から――聖なる裁きによる救済をもたらす神へ帰依(きえ)する者が纏う、黒い蝶の羽を彼は意気揚々と広げた。


 *


 「警備駅員も乗客も、一体、何をしていたというんだ……!?」


 十二月五日・午前十時頃――。

 ルーナ警察署の刑事部の緊急会議室に、浜本刑事官の怒声は響き渡る。

 同日の午前七時十七分頃。

 ニュームーン区行きの地下鉄電車に乗っていた例の"黒装束集団"による傷害事件は起きた。

 被害者は、福祉省・医療部門の大臣である哲郎・喜田(男性・五十九歳)。

 事件当時、喜田は高級銘柄の洋服を薄い皮膚ごと無残に切り裂かれていた。

 発見時には、赤黒い刺し傷と毒紫色の(あざ)だらけの全裸という凄惨な姿だった。

 鋭利な刃物で滅多刺しにされた両手には、痛ましい空洞が所々開き、()()()()()()()()()()()

 上肢にあった呪詛のごとくおびただしい傷跡は、犯人が喜田へ執拗な苦痛と憎悪を刻もうとしたのを物語る。

 事件発生から一時間も過ぎた頃に異変へ気付いたニュームーン区駅の職員の通報によって、喜田は救急搬送された。

 幸い命に別状ないが、喜田本人に意識は今も悪夢の水底に沈んでいる。


 「仕方ありませんよ、浜本刑事官。何故なら、普段は作動しているはずの監視映像機と緊急通報機能は故障していたのですから。謎の"クラッキング"によって」


 神楽刑事官は、間延びした声で事実を告げることで浜本を軽く(なだ)める。

 事件発生直前、地下鉄電車と駅のICT安全装置は謎の"サイバー攻撃"によって一時故障した痕跡があった。

 事件発生の時間帯に記録された電車内の映像データが残っていないかを、『分析班』に解析してもらっている。


 「そんなことよりも、解析はまだなのか! 課長でもあるこの俺は忙しいんだぞ!」


 小川は、スラックス越しでも明白なほど肥大した脹脛(ふくらはぎ)(かかと)を苛立ちで鳴らしながら舌打ちする。

 現場へ真っ先に駆け付けたのは、小川刑事官率いる如月班。

 地下鉄電車の関係者と現場の乗客への聴取の結果、喜田を襲った集団は漆黒の揚羽蝶らしい奇抜な格好をしていた事が分かった。

 大河内女子に端を発する暴行事件は、これで三度目だと如月班は確信していた。

 現場捜査をさっさと切り上げた当の小川刑事官は、帰還早々に緊急会議へ呼び出されたせいか、露骨にうんざりとした表情だ。

 浜本率いる第一期協働捜査班は、小川達如月班を会議室に引き留め、分析部門の結果報告を待っている最中だ。


 「あまり急かさないでくださいよ、小川刑事官」

 「な……っ」


 上司であるはずの相手に対して、神楽のあまりに生意気な口の利き方。

 気怠げな口調だがまさに正論を零した神楽の図太さに、小川は反論する気概すら削がれたのだろう。


 「簡単そうに言いますが、このクラッキングのウィルスに罹らないように注意深く解除・解析していく。この作業、けっこうきついんですよ? しかも()()()前回と同じ、凄腕のクラッカーの仕業のようですから」


 相変わらずな神楽の態度に、浜本はさりげなく諌めるように神楽の上腕を肘で軽く突いた。

 とはいえ、今回も横柄な小川の言動に呆れを隠せない周囲の刑事官も、神楽を表立って咎めはしなかった。


 「……! 浜本刑事官。分析部からの解析結果を受信しました」


 ギスギスした沈黙の空気は、解析結果の受信を知らせる光の毅然とした声が破ってくれた。

 さっそく、会議室の照射画面(スクリーン)に浮かび上がった報告内容に、全員は一斉に安堵を漏らした。

 分析部門によるウィルス解除、と監視映像の解析は無事完了したらしい。


 「これが、事件当時はクラッキングによって隠蔽されていた"本物の映像記録"です」


 分析部から受け取った事件現場の監視映像機の記録を、光は手際良い操作で再生する。

 会議室の画面に投映された"事件の一部始終"を、誰もが固唾を呑んで観察する。


 「今回の事件も質が悪い。しかめ、被害者は初老の男性で"癒えない傷害"まで負った……一体何故こんな」


 映像が終了した直後、真近で鑑賞していた光は、他の刑事官も同じであろう感想を素直に漏らした。


 「さぁな。今流行りの、社会に甘ったれた考えを抱く若者連中(わかもん)の悪ふざけか"逆恨み"だろう。まったく、こちらは暇ではないというのに」


 小川が嘲笑を含んで呟いた根拠のない若者持論。

 光は胸に突き刺さるような痛みと苛立ちを覚えるが、極力表情に出ないように努めた。

 恐らく小川も内心は焦燥と苛立ちを募らせているのは、光にも想像できた。

 今回の悪質な傷害事件にも、一件目の女子大生暴行事件ならびに、二件目の教師暴行事件と同じ"黒い揚羽蝶"の集団が関与している。

 連続で起きた暴行・傷害事件は、同一集団犯の仕業である事実は、三件目の犯行映像記録によって"動かぬ証拠"となった。

 一方、これほど目立つ装束の集団が次々と犯行を為している中、警察は誰も彼らの素性も尻尾すら未だ掴めていないのが現状だ。

 第一から第三の事件の発生間隔は短い特徴を鑑みれば、警察は悠長に手をこまねいてはいられない。

 しかも第二期協働捜査班には、己の手柄欲しさに一期班員との協力に消極的なうえ、不満や自己権威力を喚き散らすばかりの無能な上官目の上のコブまである。


 「大変です! 浜本班長! 小川刑()班長!」


 さすがの浜本や光を含む一期班員の焦燥や苛立ちが頂点へ達する寸前。

 突如、舞い込んだ"緊急事態"はさらに、協働捜査班はさらに追い詰められる羽目となった。


 「やかましいぞ! わしは忙しい! くだらないことならしばくぞ! それに俺は"課長"だ!」


 ひどく慌てた様子で入室してきたのは、先程密かに退室していた如月班の刑事官であり小川の部下の一人だ。

 小川の吐き散らした怒声と唾に萎縮しつつも、その不憫な部下は逸早く入手した緊急事態の情報を報告する。


 「失礼致しました! たった今――ウェイニングムーン区・月花庭園にて、子どもと遊んでいた女性二名は、例の"黒装束の連中"に襲われているという通報が入りました!」

 「はあぁ!? 何だと!?」


 直属の部下から伝えられた新たな事件の通報に、小川を含む班一同は動揺にざわめきだす。


 「こちら師走班! 失礼致します! たった今、ワキシングムーン区・上弦(じょうげん)噴水広場に例の事件と関係あると思しき怪しい黒装束集団が現れました!」


 さらに小川達へ追い打ちをかけるがごとく、別班の刑事官も緊迫した表情で報告してきた。


 「現場にて、連中は一般市民を果物刃で無差別的に切りつけ回っているそうです!」


 小川率いる如月班も加わった第二期協働捜査班へ連続的に届いた緊急報告に、全員は戦慄に凍りついた。

 まさに不吉な虫の知らせだった。

 ルーナシティの中枢から、大量に湧き舞う黒揚羽蝶による侵蝕は本格化した。

 平和を約束されてきたはずの街と市民を戦慄の渦へ呑み込むために。


 「黒い蝶の連中は自分達を、こう名乗っていました――」


 E(アーストワイル)C(チルドレン)――"かつて子どもだった者達"の名を掲げる黒い揚羽蝶姿の暴徒集団。

 今まさに彼らに襲われている一般市民からの通報、と治安部隊の要請が殺到し始めた署内全体にまで、動揺と混乱は燃え広がっていた。


 「っ――我々も急ぐぞ! 現場の治安部隊に従って援護する!」

 「一般市民を一人でも多く守るんだ!!」


 ふざけるな、と面倒そうに狼狽える小川を無視して浜本と光は指示を仰いだ。

 二人の気迫に気圧され、もしくは強く同感した他の刑事官も勢いよく立ち上がった。

 しかし、今は限られた者達しか薄々と気付いていなかった。


 復讐の憎悪と救済を糧に舞う黒い揚羽蝶の正体を――彼らを羽化させた甘い蜜の"猛毒性"に。

 街の中枢で激しく燃える復讐の炎に煽られた黒蝶の群れへ、甘い油を注いぐ楽しむ"観測者"がいることに。


 *


 世俗から隔絶されたエクリプス区の或る廃墟の広大な地下空間にて。

 ルーナ警察署が血眼になって探している"黒い揚羽蝶"は群れを成してひしめいている。

 軍隊のように整列する彼らの前方中央に対面するのは、()()の別格の蝶。

 一人目は黒い覆面(マスク)を脱いでいる可憐な"少女"だった。


 「ふふふふふ……っ」


 少女は花びらのように淡く愛らしい唇から、花蜜さながら甘く魅惑的な幼声を奏でる。

 少女の仏蘭西人形さながらの可憐な美貌、薔薇蕾のように無垢で愛らしい笑顔に当てられたのだろう。

 "信者"である他の黒蝶信者達の士気は、より一層高まっていく。


 「……」


 唯一、愛らしくもどこか相手を小馬鹿にした甘ったるい笑みを振り撒く少女に二人目――無口な黒蝶"は肩を(すく)めて見せた。

 長身痩躯の男性らしく逞しい体格。

 肩に黒い布で覆った鋼鉄の筒(ライフル銃)を担いでいる。

 有象無象の黒揚羽蝶の中では、最も強い戦力を秘めた黒蝶は背後を振り返った。

 数秒後、背後の気配を合図に長身の黒い蝶は沈黙を破った。


 「皆、よく集まってくれた。我が名は"BB"――我々の闘いは、今から始まる」


 BBと名乗った雄々しき黒蝶の声へ、群れの黒蝶は静粛に聴き入る。


 「終わらせるんだ――偽りの正義と善も。多くの"罪なき子ども達"の血と涙によって生まれた悲劇も」

 「そのためには、我々の不幸を幸福の蜜に(すす)って生きる人間から、全てを奪い食らい尽くせ」


 BBは高らかに謳い、仲間を奮い立たせる。

 今から自分達の為そうとする"制裁と救済"の正しさを。

 正義の根拠となる自分達の不幸とその元凶への悲憤を。


 「"かつて子どもだった"我々を――大切な子ども達を奪われた者も、今も絶望の迷宮に囚われている者も、誰も救ってはくれない」

 「むしろ子ども(我々)を傷つけ、大切なものを奪った大人は、彼らの社会が築いた正義と法律では裁けない」


 BBが説くのは、現代社会と大人、彼らの庇護下に在るはずの子どもの惨状と"ハリボテの正義"への嘆き。

 己の存在も大切なものも奪われ、幾度となく踏みにじられた人間のみが知る悲壮感に燃えている。


 「ならば今こそ我々は立ち上がる。我々の大切な人のために――我々自身を取り戻すために――我々こそが、E・C――かつて子ども達であった者達が――!」


 BBの宣誓を合図に、黒蝶の群れの間で覚悟と闘気の炎は一気に白熱していく。


 「E・Cに万歳!」

 「我々は、スノームーン様――BB様に! 忠誠を誓います!」

 「この誤ちだらけの社会も大人も、今こそ俺達が壊せ! そして創り直すんだ!」


 黒い蝶は互いの絆を確かめ合い、祈りを捧げ、忠誠を謳いあげた。

 悲しみは怒りとなって。

 嘆きは雄叫びとなって。

 傷は"忘れない"ための印。

 痛みは"分かち合い"の証。

 己の信じる正義のために戦う決意へ変えて。

 哀しき過去と弱き己との決別のために。


 「――あぁ、素晴らしいよ。BB、君はまさに――……」


 切実なる覚悟を静かに燃やし震えるBBに向かって、"スノームーン"は耳元で囁きかけた。

 BBにとっても、天啓そのものであるスノームーンの言葉。

 次の"作戦"の内容も含んだ指示を合図に、BBは黒蝶の群れを率いて、地下空間を後にした。


 「ねえ、お兄ちゃん。この計画が完成したら、私の"願い"は叶うのね?」


 E・Cの信者を見送った後、残された可憐な黒蝶の少女は、スノームーンへ擦り寄って甘えてきた。


 「ああ、君の願いは必ず叶うよ、()()()()()。君はずっと"いい子"にしてくれた」


 スノームーンの胸元を撫でるのは、フェンリルの白金色の髪(プラチナブロンド)

 柔らかな波を刻む絹糸のような髪を、スノームーンは優しく()く。

 慈父のように柔和な微笑みを咲かせて。

 殺伐とした状況でなければ、仲睦まじい親子か兄妹さながら微笑ましい光景だ。


 「()()()()()も、来てくれるんだよね……?」

 「大丈夫さ、僕は信じているよ。彼女は迷うだろうけど、最後は必ず()()()()()よ」


 遠くない未来に永年の夢は叶う、と確信を囁かれたフェンリルは、安堵の笑顔を咲かせる。


 「きっと、よ? お兄ちゃんが……私の()()()()に。そしてお姉ちゃんは……私の()()()()になってくれるんだよね?」

 「そうだよ。僕達はやっと、"家族"になれるんだ――」

 

 いずれ、父親としてのぬくもりを与えてくれる存在の懐で、フェンリルの緑柱石(エメラルド)色の瞳は恍惚と妖しく煌めいた。

 最後は切なる祈りを燃やした陰りを揺らめかせて。


 「いってきます、お兄ちゃん。お姉ちゃんに逢えたら、よろしくね」


 暫くしてフェンリルも、スノームーンの指示に従って意気揚々と動き出した。

 可憐な美貌を黒揚羽蝶の覆面で被せてから、少し名残惜しそうに去って行った。

 一方、閑散とした地下空間に一人残ったスノームーンは悠長に腰掛けた。

 懐から取り出した古びた文庫本の頁を指先で優雅に(めく)っていく。

 しかしスノームーンの頭を占めるものは本の内容ではなく、今も自分を探し求めている"唯一無二の存在"。


 「これは、僕から君へのささやかな()()()だ……君は、喜んでくれるだろうか」


 抑えきれない歓喜を微笑みに咲かせた"雪月"の言葉は、仄闇へ冷たく響き渡った。





 **続く**


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