其ノ十一『毒蜜を啜る蝶』①
第二ICT化大都市として、万全たる安全装置による平和と秩序を約束されていたはずの市街を震撼させた『猟奇連続殺陣事件』。
実際は裏で糸を引いていた『深月・斎賀』が、被疑者であるレギンもとい芳夫・三浦との共謀罪、ならびに一人の刑事官殺人罪で指名手配を受けてから一週間。
ルーナシティ中心部は事件前の平和な空気に包まれ、一般市民も安堵を取り戻した矢先――"新たな凶悪事件"は起きた。
しかも、それでも未だ誰も気付いていない。
中心地区・クレセントムーン区と周辺で起きた凄惨な事件は、禍悪の種根となって他の地区にも侵蝕している事実に。
「これはまた面倒な……否、酷いことになっているな」
『圭一郎・小川刑事官』は心底ウンザリした表情と声色で露骨に呟いた。
小川刑事官は、如月班の長と『性犯罪対処課』の課長を兼任する。
見た目は全体的に恰幅良く、額周りは禿げているが未だ四十代だ。
十二月六日の現在。彼の名高き『氷の戦女神』が所属する『協働捜査班』の会議へ招集されていた。
「第一発見者はサークルの朝練に訪れた女子生徒です」
協働捜査班長の浜本刑事官が司会、補佐に藤堂刑事官が中心となって緊急会議を進行していく。
新たに参加した小川と彼の部下へ情報共有している内容は、二日前の十二月四日に起きた事件について。
現場はルーナ国立大学のハーフムーン区キャンパスのテニスサークル。
部長の一姫・大河内(女性・二十一歳)は、謎の集団による"性的暴行"被害に遭った。
「校舎に響き渡った女子生徒の悲鳴に気付いた用務員の通報で事件は発覚しました」
「発見当時、大河内被害者は意識を失ったまま床に打ち捨てられていました。そして……」
ミス・キャンパスと謳われた美貌と肢体は醜く腫れあがり、吐き気と嫌悪感を催す汚臭を放つおびただしい"白濁にまみれていた。
無残な有様は彼女の味わった地獄、集団犯のおぞましい悪意を物語っていた。
「ところで気になっていたが、お前達は如月班の仕事を"横取り"する気か?」
小川の唐突な問いかけに、さすがの浜本も虚を衝かれた表情で絶句した。
会議室の空気も「何を言い出すんだ、この人は」、と言いたげな参加者の動揺や困惑で凍りついた。
唯一、さすがに聞き捨てならなかった光が唇を噛みながら前へ出た。
「そのような意図はありません。ただ、今回の事件の悪質性に加え……"例の事件"で指名手配中の容疑者との関連性を考慮したううで、小川刑事官率いる如月班の協力も必要と判断してのことです」
小川へ抗議しようとした光を思い留まらせた浜本は、代わりに丁寧な弁明を述べた。
当の小川は「そうかい。どうだか知らんが、まあいい」、と渋々浜本の説明を呑んだ。
しかし、卵殻さながら禿げた頭頂部を掻き撫でる小川は、高慢きちな顔を敵愾心に歪めたまま。
一応は刑事歴の長い年配上官に当たる小川だが、彼の露骨な横柄さも協働捜査班への"不満"に由来しているのだろう。
「幸い命に別状はなかった大河内は、搬送先のルーナ警察病院で意識を取り戻しました。ですが、"急性ストレス障害"を発症しています。この状態が四週間以降も続けば……」
「"前置き"はいい。さっさと調査結果を報告すればいいだろう」
大河内の現状を説明する光へ向かって、またしても小川は面倒そうに遮ってきた。
思わず絶句する光の瞳と胸の奥に炎の感情が燃え始める。
当の被害者は今も、鮮明に蘇ってくる凄惨な事件の記憶に苦しめられている。
仲間と共に聴取へ赴いた光も、目と耳に焼き付けてしまった。
硝子を砕きかねない勢いで絶叫し、全身を激震させて錯乱状態に陥っている被害者の姿を。
やがて大河内は、"|PTSD《心的外傷後ストレス障害》"へ移行しかねない、と治療班は懸念を零していた。
なのに、この警察官は。
「失礼ですが、話へ戻ります。事件と同時刻、月島公立中学校の教員の『久一郎・吉田』被害者(男性・五十一歳)も、謎の集団による暴行被害を受けました」
「四肢と鼻の骨を折られたのです」
会議の早々に話をぶった切ってきた小川をさりげなく宥めた浜本は、事件の報告を再開する。
小川への憤りを発火させかねない光を見かねてもあるだろう。
今は、警察組織内における各部署と班の領分や体裁等に拘るべき事態ではないのだ。
協働捜査班の刑事官は皆、そのくらいの危機感と焦燥を内心募らせている。
「聴取の結果、月島公立中学校は大河内の母校だと判明しました」
「ああ? それがどうした。単なる偶然だろう」
「かつては、中学で接点もある両被害者の共通点を鑑みれば、"同時刻に集団で襲われた"。両者を襲ったのは、"同一犯"の可能性が極めて高いです」
「はっ、何を根拠に」
一方、小川は浜本達の焦燥や憤りも露知らず、二つの新事件と被害者の関連性について横柄な態度で難色を示す。
小川としては、事件をなるべく複雑化させずに手っ取り早く解決させたいのだ。
反面、本来自分達のみで担当するはずだった事件捜査の権限と解決の手柄を奪還する機を狙い、情報共有のために会議へ参加している。
小川とその面子は己の出世と手柄しか頭になく、今事件の被害者の心と傷を配慮に入れていないのは明白だ。
警察としてはあるまじき"面倒くさいが、手柄だけは欲しい"という怠惰で傲慢な姿勢。
光を含む多数の班員は苦虫を噛み潰した表情を浮かべそうになるのを堪えていた。
「先ず、大河内被害者への支援を担当する心理療法士と精神保健福祉士による聴取、そして吉田被害者の証言で裏付けられます」
浜本自身も内心忸怩たる思いを抑えながらも、小川の小言を冷静沈着に流していく。
浜本の目配せから、指示と戒めの真意に気付いた光は肩に力を込めて警察端末の報告書を読み上げる。
横柄な言動を繰り返す小川を前に、普段よりも慇懃な口調と表情で強張ってしまう。
光としては、内奥で燻っている小川への苛立ちを極力抑えているほうだ。
「で? その"共通点"とやらは?」
「"黒い揚羽蝶"です」
はぁ――?
光の告げた予期せぬ単語に小川は心底馬鹿らしそうに眉を顰め、初めて聞いた刑事官達は当惑を示した。
一方、彼らの反応は予想の範疇にあったらしく、光も浜本も構わず聴取内容を説明し続ける。
"黒い揚羽蝶"―― 大河内と吉田被害者の漏らした意味深な台詞に、担当療法士の証言から、被疑者集団の不気味な共通点は判明した。
事情聴取に刑事官が大河内の病室を訪れた際、彼女は錯乱を起こした。
鼓膜を裂くような悲鳴をあげ、カサついた髪を振り乱しながら、大河内は叫んだ。
『いやあああ! やめて! 許して! 真っ黒いのが……黒い蝶が来る……! また食べられちゃう! 来ないで! 食べないでえええぇ!!』
刑事官の首から爪先までを覆うスーツの"黒色"へ過剰反応を示したのだ。
同じく警察病院に入院中の吉田も、"黒い揚羽蝶のような模様の衣装を纏った謎の集団"に襲われた、と証言した。
両者の目撃した犯人像は極めて一致している。
集団が黒尽くめの格好で犯行を冒したのには、単純に正体を隠す目的なのかは定かではないが。
"黒い揚羽蝶姿の不気味な集団"と"月島公立中学校"――今回も、ごく限られた情報のみが手がかりだ。
かくして、ルーナ警察刑事部は一つの事件へ今までにない人員数を割いてまで、不気味な猟奇暴行事件の捜査を開始した。
ルーナシティが日昇国首都に並ぶ第二ICT大都市へ発展して以降の八年間。
今年は前代未聞の凶悪事件が連続で発生し、既に死傷者も出ている。
"犯罪ゼロ"を目指すべく創設された完全無欠の安全装置への信頼と安心を揺るがしつつある現状を、ルーナ警察署本部はようやく重く捉えた。
「なるほど。非常に"参考"になったよ、藤堂君。だが、思いあがるなよ? 大河内女子の事件に、協働捜査班の追っている猟奇殺人事件には何の関連性もないとみる」
思いあがるな―― ?
それはこちらの台詞だ。
小川の警察らしからぬ厚顔無恥な態度に、自分達を繰り返し蔑む言動に、光達は腸が煮えくり返りそうになる。
とはいえ、小川の態度は理不尽だが、反論の言葉には一理もある。
何故なら光達は「今回の連続暴行事件にも、"あの人物"が関与している」、と小川を納得させる確実な"証拠"は未だ揃えていない。
「お前らが捜査中の猟奇連続殺人事件では毎回、例の"怪文章"付きの遺体が発見されたそうだが。今回の事件にはイカれた死体も怪文章もない。ならば"確定"だろう」
今事件も確かに悪質ではあるが、"あの人物"が裏で糸を引いていたと思しき殺人死者も謎の文章も未だ出ていない。
しかし、第一班の中で特に光としては、あのレギンが実演した"血腥き死"――それとはまた異質な凄惨さを彩る不気味な事件にも、間違いなく"あの男"は関与している。
もしかすれば、自分達警察が焦燥と共に逡巡しながら奔走する滑稽な様を、あの男は今も影から嘲笑っているのかもしれない。
光は内奥で燻るあの男への憤怒の炎と共に強く"確信"している。
それにしても。
前回は石井のように本来は善良な一般市民を凶行へ走らせ、素行凶悪なレギンを利用した後にどちらも切り捨てた。
さらに、今は姿なき後輩達へ究極の選択を迫る真似で追い詰めている。
まさに人の心も命も弄ぶことに、他人も自身の手も血に染めることを厭わない罪人――深月・斎賀の目的も真意もまるで読めない。
唯一気がかりなのは、やはりあの男の"狙い"が――。
「さっそくですが、大河内女子の母校であり、吉田の勤務先である月島公立中学校への聴取に協働捜査班も同行しましょう」
「はあ!? 何を血迷った事を。貴様らの手は必要ない!」
「ですが、小川刑事官」
「おれは"課長"だぞ? そして、この事件の管轄の如月班の長だ。この俺の命令が気に食わないとでもいうのか?」
またしても、今度は"課長"の肩書きを盾に捜査方針へ苦言を吐き散らす小川。
典型的な横暴系上官一人の言動によって、捜査開始前の作戦会議すら妨げられる事態に多数は辟易していた。
今回の暴行事件と猟奇殺人との明確な関連性を速やかに証明出来なければ、第一協働捜査班員である浜本達は実質的に現場捜査への参加も厳しくなる。
となれば、如月班の中心管轄となる暴行事件の捜査に、班長の小川が強引な指揮へ出る羽目になりかねない。
浜本達としては誇りある警察官としても、小川の一方通行な強行捜査による体制崩壊はなるべく避けたかった。
光自身も漏れそうな溜息を喉元で押し殺しながら、心の底から祈ってしまう。
せめて、ここに"彼女"さえいてくれれば。
あの彼女であれば、目の前で権力と利己感情ばかりを前押しする"老害風情の上官"を論破し、協働捜査を円滑に進めることができるのだろうか。
「お言葉ですが、小川課長。例の事件との関連性はともかくとして、連続暴行事件の捜査は規模を大きくして進めるように、と――永谷刑事部長から命令は下されています」
「っ――あの、永谷部長が? そうだったのか……?」
「はい。吉田被害者の件を知った際に、永谷部長が改めてそれが"最良の体制"だと判断したのです」
浜本の口から告げられた永谷部長の名前、今回の捜査の体制と方針は第一班独自の判断ではなく部長の命令である事に、小川は初めて双眼を丸くしていた。
小川の唖然とした表情から、恐らく班長でありながら部下とも情報の共有も把握も上手くやれていなかったのだろう。
「つまり、今回の如月班も加えた協働捜査班の件は、部長も了承している話。よろしいでしょうか――?」
浜本の釘差しとも言える確認、背後からの呆れと嘲笑の圧を感じた小川は「分かり切ったことを言うな!」、と憤慨してみせた。
牛のように鼻息を荒げる小川は「勝手にしろ!」、と喚き散らしながら勝手に会議から途中退席した。
傲慢な"駄々っ子刑事官"、と彼にへつらって後に続いた部下を、残った一同は嫌悪に冷めた眼差しで見送った。
本来は班員が揃っての作戦会議と情報共有がなされなければ、今後の捜査と連携に支障が出かねない。
ただし、小川がいようがいなかろうが、この先も己以外の全てへ目くじらばかり立てる面倒な事態は繰り返される。
ならば今の内は、厚顔無恥の無能な上官と顔を合わせるストレス抜きで会議を進めていくしかない。
小川達の合意と納得は現場で半々取りながら動いていくしかない。
光達は清々する気持ち半分、先への暗澹たる不安を抱えながらも無事に昼休憩を迎えた。
*
大食堂へ一斉に向かう同僚を他所に、光は真っ先に反対の道を駆けて行く。
光の足先は「霜月班」専用デスクの並ぶ小さな執務室の一角。
無機質な水銀色の壁にある認証機へ警察証をかざすと、扉は自動的に横開きした。
入室した光の視界に入ったのは、壁沿いの右奥で事務に勤しむ"彼女"――『蛍・櫻井』刑事官。
閑散とした執務室で唯一人、蛍は事件関連の報告や資料を整理している。
専用机に設置されたPC画面を凝視する蛍は、光の気配にすら気付かないほど真剣な様子だ。
外界の干渉を許さない氷域さながら鋭く冷たい目付き。
液晶画面を開いては閉じ、空白を文字で埋め尽くす指遣いも伴奏さながら段々と素早く荒々しさを増していく。
今の蛍が"誰に関する資料"を独断で読み漁っているのか、彼女の鬼気迫る表情から一目瞭然だ。
幾度か身の危機に晒され、現場から外されても尚、蛍の心を占めるのは"義兄"の存在。
敬愛する義兄を失って以降、蛍の心の均衡を守ってきた"正義と使命感"という名の氷壁すら迷いなく破壊した男。
義妹の蛍に対して家族らしい"情け"を見せる一方で、再び姿を眩ました。
蛍の心も人生も翻弄する男のことを考えるだけで、光の憤りの血潮は心臓から拳へ力となって注がれる。
「……おい、昼休みだぞ」
冷凛な蛍の精神を映す氷の心へ容赦なく浸潤してくる彼女の"過去"。
今まさに囚われている蛍を、束の間でも現実世界へ戻したい。
鋭い眼差しと青褪めた手を一向に休ませない蛍の肩を、光は諌めるように軽く叩いた。
「っ……!! コ、ウ」
蛍が振り向いた瞬間、氷柱のように冷たい殺気は背後を突き刺す。
しかし、相手が光だと気付いた途端、蛍の表情は和らいだ。
視線だけで相手を殺せそうなほど険しかった瞳は、春溶けの薄氷さながら温かく光を映した。
「ご、ごめんなさい。直ぐに気付かなくて……」
蛍は事務へ没頭するあまり、反射的に殺気を飛ばしてしまった事を謝った。
久しぶりの二人きりで気が緩んだのか、一転して叱られた少女みたいな表情で落ち込む蛍に光は頬を緩ませた。
「気にすんな。根詰め過ぎたんだろう。丁度いいから休め」
光は穏やかな笑みを浮かべながら、蛍の頭を無造作に撫で上げた。
片手にぶら下げている袋から、芳しい香りを漂わせているのは昼食。
時間も空腹も忘れて没頭していた自分の分も買ってきてくれた光へ、蛍は感謝を告げた。
「ありがとう、光。いただきます」
お日様みたいに熱々で甘いコーンスープ。
冬キャベツと厚焼きベーコンを挟んだ香ばしいベーグルサンド。
省エネ暖房の静穏なオフィスにて、空腹に冷え切った胃袋は温かな昼食に満たされていく。
夏暮れの陽のように差し込んできた光の優しさがスパイスとなって、さらに蛍の心を熱くして。
「手始めに、被疑者の捜索にはレギン……芳夫・三浦の潜伏場所だったエクリプス区地下をさらに調べていけば、他にも有力な手がかりはあると思うの」
二人の口から自然と零れるのは、事件の進捗状況等の殺伐とした内容だ。
それでも、互いの心根はスープのように温かなもので繋がっているため、不思議と暗い気分にはならなかった。
「俺も同意見だ、蛍。ただし、行政指定特区でもあるエクリプス区への徹底捜査は、相変わらず"検討中"の段階だそうだ」
「やっぱり……以前のエクリプス区暴動事件が尾を引いているし。区民の支持を得難いのでしょうね」
前代未聞の凶悪事件は今秋中に頻発した。
結果、ルーナシティでのICT安全装置への信頼の揺らぎ、"安全神話"へ降格しつつある危機。
それでも警察本部は、最重要の捜査対象に指定されたエクリプス区地下への徹底捜査と総動員令の許可を未だ下さない。
エクリプス区解体へ反対運動を起こした貧区民、彼らを制圧しようとした行政機関、双方の間に生じた暴動被害。
その歴史を鑑みれば、「行政は凶悪事件捜査という口実で警察を遣わせ、エクリプス区民の縄張りを再び荒らしに来た」、と区民は強い抵抗を覚える。
「それもある。とはいえ、捜査許可状を申請してからだいぶ経つが……あんな事件が起きても尚、許可が下りないのか。があるとはいえ、何故だ?」
「明確な理由は分からないけれど、この事態に陥っても許可が下りないのは……後ろ盾に福祉省、あるいは『秩序省』辺りの圧力があるのかもしれない」
さらに、他の事件捜査にも常に忙殺されているルーナ警察内では、大規模な捜査に必要な人員が量質共に不足している現実的課題もある。
となれば、国が他地域の国家警察官を増援するという方法もあるが、現時点での"危機推移では実行されないだろう。
国としては、行政と一般市民の間に余計な軋轢を生みかねないよう、慎重な体制を貫きたいのだろう。
現にそこが災いし、"優秀な人材"の抜けた協働捜査班では捜査の進捗も班員の士気も停滞気味だ。
光自身も、蛍や弓弦の抜けた穴を埋められるほどの器量も能力も備わっていない己の非力さにもどかしさを覚えている。
恐らく蛍も同じ気持ちなのだろう。
「そういえば、浜本刑事官が頼んだ"資料整理"は順調か?」
己の気持ちを切り替えるために、光は蛍へなるべく自然な表情で何気なく問いかけた。
「ええ、それなりには」
光の質問を耳にした蛍は苦笑交じりだが、ごく自然な口調で肯いた。
しかし、冷凛とした刑事官でも、私的時の少女らしさとも異なる蛍の微妙な表情に光は勘付いた。
「猟奇連続殺人事件、加害者レギンの死亡へ至るまでの報告と関連情報はまとまって……」
「それで、"あの男"の手がかりは掴めたのか」
蛍の答えを遮った光の見透かすような眼差しと台詞に、彼女は沈黙する。
「やっぱりもう、気付いちゃった? 光のことだから」
「あのなぁ……俺がどれくらい長くお前の傍にいてきたと思っている?
直ぐ腑に落ちたような眼差しで光を見つめ返した蛍は、またしても苦笑を零した。
「蛍。さっきまでお前が確認していた資料は、浜本刑事官が指定したものだけじゃないだろう?」
「……ええ、資料整理はむしろ"好都合"だったわ。空いた時間内で、他の資料の閲覧も自由だから……その、怒ってる……?」
光の予感はあっさり的中した。
やはり蛍は、現場捜査から外された代わりに与えられた仕事の合間に、義兄・深月に関する資料も密かに調べていた。
鋭い指摘に観念したように答えた蛍は凛とした眼差しと口調から一転。
何となくバツが悪いのか、光の顔色を窺うように上目遣いで案じてきた。
「怒るわけないだろ。器用なお前だからこそだ……それで、あの男について何か収穫はあったか」
光としては、心に引っかかるものは感じても、蛍を責めるつもりも気を悪くしたわけでもない。
むしろ、またしても叱られた少女みたいな表情の蛍に、光は内心微笑ましさすら覚えながら極力穏やかに続ける。
「見てもいいか?」
頷く蛍の承諾を得た光は、深月・斎賀の資料を表示したPCの画面を覗き込んだ。
多少の緊迫を帯びた光の双眼へ映ったのは――。
「これは……」
何の変哲もない基本情報と経歴、そしてとある"未解決事件"の概要の二頁。
一頁目は、本人の出生記録から家族構成、学歴・職歴、「行方不明」扱いという現状等。
被疑者の成育歴や人間関係を洗い出すのは捜査の基本だ。
ただ、光にとって意外なのは、斎賀家の養子として深月と共に生活していた蛍も既に分かり切った情報にも、わざわざ目を通している事。
蛍曰く、昔から知っていたつもりで、"意外と知らなかった事"も発覚したという収穫は得られたらしい。
「ごめんなさい、光。現場班を外された私は、本来これ以上首を突っ込むべきではないのは承知している。でも、それでも私は知りたいの……いいえ、知らないといけない気がするの」
レギンの現行犯逮捕未遂と本人死亡の騒動前。
光は捜査から外された蛍のために、捜査の報告内容を提供する等、可能な協力は惜しまなかった。
とはいえ、被疑者の経歴を一から知り尽くしたとして、蛍自身が捜査へ直接介入できない。
今後も復帰できる可能性は懐疑的だ。
光自身もそれを理解しきっている故に自分を案じてくれているのを承知で、蛍は真剣な声色で答える。
「何故、深月義兄さんが"あんなこと"をするのか。一体何が、優しかった義兄さんを変えてしまったのか、を」
冷凛としていながらも切実な祈りに満ちた氷の眼差しが光を射抜く。
蛍の瞳に魅入られた光は、ただ彼女の強い覚悟を静かに見つめるしかなかった。
「だから私、『内村至先生』にも相談したの」
蛍の口から零れた人物の名前に、光は驚きながらも腑に落ちた表情になる。
「あの内村先生にか……?」
『至・内村先生』――蛍が光や黒沢に向けるのとは、また異なる親しみを込めて敬慕する人物。
現在はルーナ警察病院と国立精神科医療センターを往復する六〇歳の熟練の精神科医兼心理療法士だ。
警察病院では、主に警察官と犯罪被害者への心理療法、精神鑑定も担う。
さらに、休職中の奈々・望月刑事官、被害者の一妃・大河内の精神科治療を担当しているのも、内村先生だ。
かつて四〇年前の二千二〇年――紛争の絶えなかった途上国の過酷な"戦場"へ、日昇国の少数精鋭隊は派遣された。
内村先生は、兵士と被災した現地民への外科手当と共に精神的な治療にも尽力した。
戦地において、無辜の現地民への心身ケアに加えて、先進的な精神科医療の教示にも貢献した偉大な医師として讃えられた。
内村先生は日昇国から勲章を、世界機関からは「国際平和賞」を授かった。
「そしたら、義兄さんの成育歴から"あの事件"の事まで、一から調べ直したらどうかって」
新人時代の光といえば、職場の「定期ストレスチェック」の基準値に引っかかりまくっていた。
主に心理的対話で度々お世話になった内村先生の存在は署内でも評判だ。
実年齢にそぐわない若々しい風貌に、年齢ならではの貫禄と鷹揚な微笑みを最後に見たのは、いつ頃だったか。
内村先生は"精神医学と心理学"の権威もあってか、時折こちらが分かるようで分からない真理を突くような謎の言葉を呟く癖もあった。
それでも光の職場での葛藤から、未熟な自分への焦燥や不甲斐なさ等の悩みに対して、内村先生には親身な傾聴や励まし、助言をもらった感謝の記憶がある。
内村先生には光も純粋に敬意を覚えるが、蛍の義兄に先生がどう関わるというのか。
「私情に関わるからあまり公にはできなかったけれど……実は私と義兄さんにとって、内村先生は昔からお世話になっている"恩人"なの」
「恩人って、どういう……」
蛍の蛍の義兄・深月と出逢ったのは、帰還した内村先生が請け負っていた「心理療法士研修」の場であった。
深月の人柄と知識・技術の向上性を見込んだ内村先生は、深月の教師としてだけでなく、彼とその義妹の蛍の良き相談相手でもあった。
愛弟子の急な失踪にも胸を痛めた内村先生は、義兄を失って意気消沈としていた蛍の心理療法も担当した。
さらには、「斎賀叔父夫婦」亡き後の"第三者後見人"にも選任されていた。
蛍の説明を聞いた光は納得しつつも、内村先生と深月の意外な接点に驚きを隠せなかった。
『そうですね……まずは捜査の基本でもありますが……深月君の心理を知るにはまず、深月君の人生――彼の背景を理解することが大切ではないかと思います』
今回の凶悪犯罪の首謀犯として指名手配中の深月の目的と動向を分析するためにも、蛍は心の専門家である内村先生へ真っ先に相談していた。
深月との皮肉な再会を果たした直後、蛍は内村先生の執務室兼星カウンセリングルーム心理療法室をを訪れた。
室内の隅の棚に飾られた古風な"医療メス"が目に入る
丁寧に手入れされているらしく、鋭利な耀きを保つ立派な医療メスは、かつて内村先生と共に海外戦地へ派遣された"恩師"からの贈り物らしい。
『人間は、遺伝的体質や生まれ育った環境・文化の影響を相互に受けながら、自身の心理行動形式を築きます。自分なりの生きる戦略、あるいは"価値観"と呼べるもの。資料による理解にも限界はありますが、その人を理解するのに有力な手がかりになります』
六〇歳の初老には到底見えない、若々しい顔貌に思慮深い微笑みをたたえる内村先生。
鷹揚とした声色で紡がれた荘厳な言葉は、蛍の脳神経細胞にも鮮烈に刻まれた。
『深月君は今、どういった"価値観"に基づいて犯罪という危険を選び取っているのか、を』
内村先生が表現した"背景と価値観"――そこに今の深月義兄さんの"真の目的"とその根源が潜んでいるに違いない。
氷のように固く澄んだ決意を胸に蛍は、"今の自分にできる事"を為そうとしていた。
「まさか、内村先生が蛍の後見人でもあったとはな……」
「もう、昔の話だわ。今は義兄さんも、私すら"大人"になっているから……それくらい、長いようで瞬く間に時が過ぎたのよ」
光が内村先生と蛍と、ましてや義兄・深月との間にも深い繋がりが昔からあったことに、純粋な驚きを表す。
一方、内村先生との深い関わりとそこの経緯に記録だけでは押し測れない、蛍自身の葛藤や悲哀もあったのだと感じ取れた。
あの仏さながら鷹揚な微笑みに、光も懐かしさと共に親近感も覚えた。
あの優しき心の医者に、当時の蛍の心が幾ばくか慰められていたことを祈る中、光はもう一つの"ある記録"にも目を向けた。
「――冬の、殺人……火……?」
光が不思議そうに言及したのは、数年前に起きた「強盗殺人ならび放火」、そして被害者二名が「行方不明」になったとある未解決事件――『冬の殺人火事件』。
これは確か、蛍とあの男の――!?
光の瞳に険しい色はじわりと浮かび上がっていく。
冬の殺人火事件の現場と被害者の名前、時期の記載された一字一句は、光の脳内で正確に処理された瞬間。
光の胸にはかつてない動揺は静かに燃え広がった。
弾かれたように顔を上げた光の双眸、と彼の動揺を既に見透かしている蛍の双眸が合った。
光が視線で突き付ける疑問に、蛍は沈黙で応える。
光を静かに見つめる蛍の顔は、諦め去った過去への哀愁に満ちていた。
「ほた、る――?」
一方、虚ろに凍った瞳の蛍の心をヒシヒシと占めていたのは、もう一つの別事件――『師走小学校殺傷事件』、そして内村先生の"困ったような微笑み"であった。
*




