序章『黒い揚羽蝶』
十二月三日・午後十一時頃。
名門・『ルーナ国立大学』のハーフムーン区キャンパスにて。
深夜の窓に薄灯りが浮かぶ校舎の一室はテニスサークル。
大学屈指の実績を誇るサークルの部長を務める一妃・大河内と部員達がいた。
一妃は取り巻きの男女をはべらせながら、完璧な美笑を咲かせていた。
「さあ、今夜はどなたがこの私を愉しませてくれるのかしら?」
裕福な家庭で生まれた一妃は、順風満帆な選有民の道を謳歌してきた。
大学でも常に上位の成績を修める頭脳明晰。
強豪屈指のテニスサークル部長の他、大学運営員会の長も務める品行方正と人望。
さらには、ミス・キャンパスの座を勝ち取る容姿端麗。
生まれながらに周りの称賛と羨望を一身に浴してきた女王様のごとき。
美しき一妃の一挙一動に異議を唱える者は、誰一人とて存在し得ない――絶対的真理として体現されてきたのは、まさに完璧な一妃の力だ、と強く自負している。
あらゆる頂点に君臨する一妃の完璧な人生と世界はずっと守られてきた――たとえ、"裏の顔"は如何に罪深く醜悪であったとしても。
「ふぅ……何だか私、"演劇"が見たくなってきましたわ。コーラも飲み飽きてきましたし……皆様も、そう思いませんか?」
今夜も一妃は、己の権限で入手した最も立派な部室の安全鍵を利用し、"深夜の密会"を主催していた。
ただし、饗宴は女王とそのお気に入りだけが愉しむのが目的だ。
奴隷役と賓客役へ適当に分担された参加者は、一妃達を喜ばせなければならない。
たとえ、如何なる方法や手段を用いてでも。
「まあ! おっかしぃですわ! きゃはははっ」
「いいぞー! もっとやれ!」
一妃は錫のように美しく甲高い笑みを転がすように零す。
一妃の"お気に入り"に選ばれ、恋人のように彼女の肩を抱き、腕を絡める美男子達も、ゲラゲラと下卑た笑いを吐き散らす。
嗜虐心に煌めく女王と愛人達の瞳に映るのは―― 安全機能という檻の中で秘かに繰り広げられる暴虐と蹂躙。
一妃と隣の男から容赦なく背中を踏まれ蹴られているのは、"奴隷役"の学生達。
彼らは、屈辱的な格好と扱いを強要されている。
道化師さながら奇抜な格好を施された一人は、不気味な笑顔の化粧を涙で惨めに汚す。
別の一人は、一糸纏わぬマネキン人形さながら全裸姿で壁へ固定され、サンドバッグにされている。
奴隷役はひたすら嘲笑と罵詈雑言を浴びせられ、蹴られては殴られ、唾を吐かれ、凍えるほど冷たいコーラの炭酸を傷口へ注がれる。
奴隷役も来賓者も、一妃とお気に入りの気まぐれによって、どちらにも入れ替わる。しかし。
「……な、何!? 一体何なのよ! あんたたち! この私に逆ら―― っ、え?」
暴虐の女王によって催されてきた悪辣な狂宴は―― 突如、思わぬ形で終焉する。
一妃達が玩弄していた奴隷役も来賓役は、いつのまにか壁際へ制圧されていた。
お気に入り美男子達までもが、床に蹲る姿勢で物言わぬ人形となっている。
「な、何なのよ、あなた達は……」
一体何が起きているの?
一妃の人生記憶にも未来図にもない、到底信じ難い現実。
体に張り付く冷たいコーラは水滴を零し、凄まじい寒気と不快感を生む。
高級銘柄の洋服も私の美貌も、熱くて痛い、塩辛くて痛い。
鼻につく匂いと熱痛の源であるフライドポテトの油分が不快だ。
何よりも――どうして私は今、床へ惨めに這いつくばっているの?
屈辱的な姿勢を強いられた一妃は、突如乱入してきた謎の仮面集団に組み敷かれていた。
驕りの女王の饗宴をぶち壊した不埒どもは、"黒い揚羽蝶"を彷彿させる漆黒の外套を頭から爪先まで纏っている。
顔全体を不気味に覆うのは、産毛さながらの布質の黒い覆面。
眼窩部分は黒光りするフィルムで妖しく光る。
黒い触覚は相手を嘲るように不気味に揺れる。
生き物的かつ無機質で猟奇的な光沢の覆面からは、相手の感情が読み取れない。
異様さも相まって、四方から押さえ付けられている一妃は心臓の凍るような恐怖に震える中―― 一匹の黒ずくめは、足を引きずるように一妃へ歩み寄った。
「……『月島公立中学校』――」
「は……?」
一匹の黒揚羽蝶は虚勢を崩さない一妃に向かって意味深な単語を投げた。
体格と声色から、辛うじて女性だと判別できる。
とはいえ、この異様な状況下で氷の声が語りかける真意も一妃は当然分からない。
しかし、困惑しながらも驕りを残したままの一妃の声と反応は"合図"となった。
一妃へ声をかけた小柄な黒揚羽が一、二歩退避する――。
「ぎゃああぁあぁぁぁああぁああぁああぁ――っ」
一妃を取り押さえていた雄の黒揚羽達は一斉に群がってきた。
誇り高き女王蜂として君臨していた女は今、雄の黒揚羽の群れによって貪食されている。
まさに蝶そのものに捕食される矮小な虫のように憐れで、獣のように凄まじい断末魔が響く。
「あ……あぁ……っ」
非現実で凄惨な光景を前に、奴隷役と虐待者を強いられていた学生も、恐怖や驚愕にただ戦慄する。
しかし、やがて歓喜と愉悦、高揚、嘲笑の嵐に煽られた奴隷役の大半も身を乗り出した。
今まで自分達を玩弄してきた憎たらしき女王への処刑へ参加すべく。
「――……」
一方、驕りと虚勢ごと剥ぎ取られた裸の女王の奏でる悲鳴へ耳を傾けるは、一羽の雌揚羽。
かつての地獄の再演を無機質な黒い眼窩越しに淡々と眺める。
黒羽に秘めた胸の内は黒い愉悦と白き救済の歓喜にひしめいている。
「やあ、首尾は上々のようだね」
最中、黒揚羽蝶の群れの隙間をひらりと舞う白雪のように忽然と現れたのは――色白の優美な男性。
「来ていらしたのですか。"スノームーン"様」
「当然だよ。これは、"僕等"にとって記念すべき第一歩なのだから」
"スノームーン"と呼び慕われた男性。
淡雪のように優しく儚げな微笑み。
白月のように神々しい輝きをたたえている。
男の神聖なる美貌も、人間らしさのない慈愛の佇まいは、いつ見ても瞳に映る全ての者を魅了する。
傲慢なる女王の歌い叫ぶ阿鼻叫喚へ耳を傾け、禍黒い蝶の捕食行為を見つめる瞳はどこまでも透き通ったままだ。
表情一つ変えずに振り返ったスノームーンは、唇に慈しみの弦を描いた。
「君にとっては、救済の始まり……おめでとう。気分はどうだい?」
スノームーンから祝福の言葉を賜った黒揚羽蝶は、己の素顔を晒した。
マスクの下には、一妃と同齢らしき女の顔立ちに、虫よりも虚ろな瞳が隠れていた。
雌揚羽蝶は"狂喜と崇敬"の笑みと涙を浮かべていた。
虚ろでありながら爛々と光る眼差しと沈黙こそは、彼女の答えだと悟ったスノームーンは満足げに微笑む。
うおぉぉおおぉぉ――!!
一方、餌となった女王蜂を食い散らかす雄蝶の群れも、黒き快楽の絶頂と勝利の歓声を猛り叫んだ。
本来は吐き気を催すような残酷異常な光景と耳障りな声。
しかし、これは"救済の道"へ至る鍵を渡してくれたスノームーンへ捧げる讃歌である。
慈愛の眼差しをたたえるスノームーンは、彼らを祝福の微笑みで見守っていた。
最中、スノームーンの背後からもう一人の可憐な黒揚羽蝶はふわりと舞い降りてきた。
「皆さ~ん。並びました? 準備はいいですか~?」
黒蝶の少女は、甘くほろ苦い砂糖菓子さながらの幼声を奏でた。
少女の呼びかけに応じた同じ黒蝶姿の仲間は、群れとなって一斉に整列した。
未だ女王の残骸を貪っている黒蝶を他所に、集まった仲間の群れに満悦な少女の手かざしを合図に声があがる。
「――我々は、今こそ立ち上がる」
「我々の"未来"を取り戻すために――許しの"救済'を賜るために――偽善社会に"革命と報復"を今こそ――我々は」
「我々は――『E・C』なり――!」
『E・C』と名乗った黒揚羽蝶のように黒尽くめので匿名集団。
彼らは己の"信仰と復讐"を世に顕現させる決意を宣誓した。
たった今、幕開かれた黒き救済の物語――破滅と苦痛の結末の先に、己の渇望する唯一の存在を思い描くスノームーンは、柔らかくほくそ笑む。
「――もしもし」
スノームーンの熱き鼓動と共鳴するように、胸ポケットに収まっていた携帯端末は振動した。
銀鏡色の携帯端末を片手で器用に操作したスノームーンは、上機嫌な声色で通信に応答した。
なるほど、そちらの首尾も上々で何よりだ――。
携帯端末から耳朶を介して伝わる相手からの朗報。
「――……だったな……く……っ――」
燃えるような激情を押し殺すような低めの声色と口調から、相手は男性だと窺える。
彼も動き出した、ということは『計画』の第二段階は滞りなく進んでいる。
雪像さながら美麗な顔立ちに咲いた微笑みは一層深まる。
スノームーンは嘘偽りを感じさせない肯定的な相槌を打って、通信相手の報告を静かに聞き届ける。
「そうだ、君の言う通りだ。君ならきっと…… 否、君にしか成し得ないだろう」
相手にとっての報告終了の瞬間《》を絶妙に捉えたスノームーンは、奨励の言葉を贈る。
「君にしか、あの二人を救うことは叶わない。だから、僕からも頼んだよ――"BB"」
巨大な苦難へ向かう弟を励ます兄のような親愛の籠った声色。
それでいて、試練と運命を授ける予言者さながら荘厳な佇まいだった。
BBと呼ばれた男にとって、まさに"福音"である――。
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