『黎明の冬に目覚める月』②
数年前に失踪したが蛍との接触によって、生存の確認された「深月・斎賀」。
少年感化院で更生・退院後、表社会から姿を消した末、殺人を犯したレギンこと芳夫・三浦。
そしてレギンを"口封じ"に射殺した謎の少女フェンリル。
レギンによる連続猟奇殺人。
黒沢刑事官の誘拐。
警察端末や警察の安全警備装置へのクラッキング。
蛍への脅迫と誘拐。
そして、香坂刑事官の殉職――。
「手始めに、連続猟奇殺人事件への関与及び香坂刑事官殺害の嫌疑のある深月・斎賀を"指名手配"する手はずを整えた。そして、神楽刑事官率いる神無月班。お前達も協働捜査班に加われ」
「了解ですー」
表向きはレギンが主となって起こされた事件に、レギンと過去に接触を確認できた深月とフェンリルが裏で糸を引いていた。
となれば、レギン亡き後も彼らが何かしらの事件を見せる危険性がある。
かくして、事件の捜査を続行する結論へ至った。
「神無月班は、主に『フェンリル』について探れ。斎賀被疑者と他に接点のある不審な未成年はいないか、未成年関連施設を回れ」
今後の捜査内容と担当配置の指示を仰いでいく班長浜本。
光と蛍は、欠員の生じた霜月班と葉月班へ割り当てられる任務内容に補充員の有無を気にした。
「失礼。各自は端末の再起動をしながらでいいから、私つまり分析部の報告を聞いてもらいたい」
会議の最中、今まで姿の見えなかった刑事部の永谷部長は「情報分析部」の事務所から戻ってきた。
部長の警察端末を経由して送信された追加の電子報告があるらしい。
「エクリプス区の地下で生じた"無線機の不調"や"通信障害"があった件だが。分析部曰く、不正使用者による何者かのクラッキングの痕跡を確認できた」
分析部による調整修理を完了した警察端末は蛍を含む一部の刑事官へ返却されていく。
現場にいた者達には強い心当たりのある部長の台詞に固唾を呑んでいた。
「クラッキング……ですか? 一般建築のさらに倍は厳重な安全監視装置を誇る警察署内で……?」
永谷部長の口から零れたのは、耳を疑う不穏な単語。
現ルーナシティと警察署内にある"完璧なる安全性"を謳う装置、その高い機能性を知る刑事官達を驚かせた。
皆の動揺を代弁するように問い直した浜本自身も「俄かに信じ難い」と言う表情で永谷を凝視する。
ルーナ警察署に設置された安全監視装置コンピューターを母体に、警察専用の数多の情報通信機器や電子情報管理は機能する。
しかし、今回の事件を契機に頻発した警察の安全監視装置の異常―― 二郎・石井が脱走した際に署内拘置所の監視機器の一時故障や、登録・通信許可を受けていない端末からの秘密裏の不正通信や電波障害。
蛍の場合、警察端末の厳格な通信制約を超えて彼女と容易に接触を図った深月やレギン、その際に利用された黒沢の偽装音声。
単なる自然発生的な故障や通信障害では説明のつかないICT機器の異常も。
全ては、凄腕かつ悪質なクラッカーの仕業であれば説明が付く。
実際にクラッキングを実行したのは、深月かフェンリル、もしくは"別の誰か"なのか不明だが。
「今後のクラッキング対策として、分析部は回収した警察端末へ新型の防犯装置プログラムを備え付けてくれた。署内に既存の安全監視装置もより強化される予定だ」
現時点では、クラッキングの痕跡は確認できるが、そこから不正アクセスの発信源――クラッカーの居所の特定は困難を極める。
大概のクラッカーは侵入者攻撃型ウィルスによる防護か、端末や使用者番号を頻繁に変更することで足がつかないように工夫するからだ。
警察側へあえて尻尾を覗かせつつも、決して掴ませはしない。
深月達の仕業らしき巧妙な手口は、まさに相手を玩弄してほくそ笑んでいるのが窺える。
蛍を含む刑事官一同の胸には、寒気と同時にやるせない感情も宿っていた。
「ご報告感謝致します、永谷部長。今事件の主犯は厳重な警備にも容易に侵入し、個人の音声等の生体情報すら偽装できる厄介なほど高い技術を備えている。決して用心を怠るな。今後も警察端末にでも不審点や異常を確認すれば、速やかに報告しろ」
かくして、浜本班長と永谷部長からの指令と注意喚起に従い、刑事官一同は各自の任務遂行すべく解散していく。
一方"前回"と同様、蛍と浜本、永谷の三人だけは閑散としていく会議室に居残っている。
互いに目配せでやり取りし、暗黙の了解を交わす三人の考えが、光は無性に気になる。
光にとっても既視感のある光景から、蛍へ下される指令内容について既に大方予測はついている。
蛍の身に重なって起きた釈然としない出来事に、周りは彼女へ意味深な眼差しを向けている。
それでも「氷の戦女神」と称される通り、心の隙も弱みも一切匂わせない不屈で孤高な佇まい。
自分だけはそんな彼女の傍にいて、できれば如何なる時も支えてやりたい。
仕事や命は当然、恐らく今でも厚い氷壁の海下へ閉ざした彼女自身の"心"すら――。
たとえ公私混同である、と周囲に憚られるにしても。
「……まったく」
会議室の最奥の隅にいる三人以外の刑事官全員が粛然と退室した中。
光だけは会議室の扉付近に一人佇み、警察端末の報告書を読む装いをした。
光なりの最低限の配慮だろうが、話が付くまで蛍を待っているのは明白。
眉を顰めた浜本は溜息を吐くが、光へ退室命令は出さなかった。
お前の好きにすればいい、と半端諦めの表情を浮かべて。
*
「櫻井刑事官。もう一度告げるが、今回も暫くは現場から外れてもらう」
「今回の事件の主犯は、何らかの目的で櫻井君へ狙いを定めている可能性は高い……今回の相手は実に危険だ」
案の定、浜本班長と永谷部長の意向により、蛍は現場から完全離脱する措置を取られた。
既に予測できた展開とはいえ、蛍も遠くから見守っていた光も内心忸怩たる想いだ。
ただし、前回と大きく異なるのは―― 。
「その代わり、君には「報告書と資料の整理、現場刑事官への情報提供」を任せたい」
「君自身の安全のためにも、君の警察端末は暫く"我々"が預かる。署内であれば、事務所の通信端末で連絡可能だからね。緊急時には、コチラを使っておくれ」
蛍は現場へ出ない代わりに、署内での事務仕事によって現場の刑事官を後方支援する役を受け持った。
永谷からは"旧時代の遺物"である黒塗りの折り畳み式携帯電話を借りた。
ネットに繋いでいないガラケーであれば電話・メールの最低限の連絡は取れるうえ、クラッキングも防止し易いと考えたのだろう。
「櫻井刑事官としても歯痒い思いだろう。新人時代から君を頼ってきた我々も同じ気持ちだ…… しかし、今回も理解していろ」
「今回のやり方は"君自身を守るため"でもあるからね」
浜本も永谷も目の前の蛍、というよりも遠くで険しい表情の光にも言い聞かせるように告げた。
蛍の刑事官としての実力を認めているは、光だけでなく浜本も永谷、現場へ馳せた仲間も同じだろう。
否が応でも現場仕事へ集中せざるを得ない光の本心は、できれば彼女を目の届く範囲で見守りたい。しかも、蛍の義兄が事件の裏で深く関与しているのなら尚更。
「ありがとうございます。永谷部長、浜本班長」
対照的に蛍が浜本と永谷へ感謝の意まで示したことに、光は内心驚きを隠せない。
「本来、事件の被疑者の身内である私が今事件そのものへ関わるのは望ましくないはず。それでも、お二人の多大なる配慮に感謝致します」
蛍の言う通り、担当する事件に刑事官の身内が関与している場合、"個人的私情"の絡みによる班全体の士気と連携の取り辛さへ繋がるからだ。
同僚を奪った憎き事件の主犯と疑わしき深月・斎賀が、蛍の身内である事もほとんどの刑事官は察知している。
相次ぐ同僚の失踪に後輩の離脱が生じている中、蛍だけは二度も攫われていながら唯一無傷で生還しているのだ。
事件の黒幕と蛍は何かしら"繋がっている"のではないか、と疑念を抱く。
実際、浜本と永谷のもとへ「櫻井刑事官を完全離脱させるべきではないか」、と密かに提言する者もいた。
だからこそ、蛍はあくまで現場に入らない形の協力・支援を指示した二人――「櫻井刑事官」への揺るぎない"信頼"の意思へ感謝した。
「こちらこそ。君の賢明な判断に感謝する」
蛍の心からの納得と感謝に永谷もにこやかに応じ、隣の浜本も安堵の溜息を零していた。
前回の自宅待機とは違い、警察の目の届く署内で仕事をする。
そちらの方が蛍の身の安全を確保しやすく、彼女自身の心にとっても最善策だ、と光も理性的に察した。
とはいえ、数年間も密かに案じ焦がれていた唯一の家族が"凶悪犯罪"へ関与している、という重く悲しい事実。
さらに大事な仲間を奪われた同僚へ心理的負担をかけた事への罪悪感。
決して蛍に非があるはずのない不幸な出来事に彼女自身が責任を感じ、一人背負う羽目になる状況に、光は唇を噛まずにはいられない。
とりわけ――。
「お待たせしてごめんね、光。じゃあ、今夜また後でね」
暫し警察端末を睨むように双眸を伏せていた光へ、蛍の静穏な声が降ってきた。
我に返った光は端末を閉じると、慌てて蛍へ了承の返事をした。
蛍の遥か背後から注がれる浜本の睥睨から「お前も早く持ち場へ戻れ」、という苦言は伝わってきた。
いい加減、浜本に急かされたのもあるが、今の蛍を前に光はそれ以上の言葉が出なかった。
光自身を慈しむように閉じた双眸、と諦めを秘めた唇へ浮かぶ微笑みは、光の胸を切なく締めつけた。
*
心に纏わりつく靄を払いきれない中、本日の勤務を終わらせた光は疲弊した様子で帰宅した。
「おかえりなさい、光」
しかし、重厚な扉を開けた瞬間、温かな牛乳と鳥出汁の芳香を纏った蛍が光を出迎えた。
蛍の和やかな笑顔を見ると、心身に蓄積した疲労は一気に吹き飛ぶ。
普段と変わらない夜を今日も迎えられた光は当然、心無しか蛍からも安堵に"切なさ"も互いに匂わせる。
ともあれ、少女さながら純真な笑顔を今夜も見れた喜びに、光の胸は温かく満ちる。
「今日、光達はどうだった?」
「あぁ、そうだな……」
遅めの夕食を口へ運んでいく中、蛍からの問いかけから始まり、光は互いの進捗状況を報告する。
普段とは違い、まるで恋人・伴侶の仕事への関心と気遣いを向ける主婦さながらのやり取りを交わしているせいか。
今夜ばかりは二人の会話に、どことなく重苦しい沈黙が幾度か挟まった。
「おいで、光。風邪引くから、拭いてあげる」
夕食後、蛍の言葉にあまえて先に熱いシャワーを浴びたが、数分程度で戻ってきた光へ彼女は手招きした。
華奢な両手に広げられた細長いタオル、無垢な眼差しが光の濡れた髪へ注がれている事から理由は一目瞭然だ。
光が呆けるように佇んでいた数秒足らずの隙に、蛍は立ち上がると半端強引にタオルで光の髪を拭き始めた。
普段の光なら「平気だから自分で出来る」、と照れ臭そうに反論するが、今夜は満更でもないらしい。もしくは。
「光の髪質ってちょっと固めなのに、触り心地が好き。ワンちゃんみたい」
普段の光なら「何言ってんだ馬鹿」、と真っ先に叱られそうな台詞をあどけない微笑みと共に零す蛍。
しかし、まさに犬のように硬めな毛質の髪をくすぐったそうに拭いていく楽しげな姿は天真爛漫そのもの。
光は今すぐ蛍を抱きしめたい衝動に駆られた。
「……大丈夫か、蛍」
「? ひか……」
光の名前を呼び終える間もなく、蛍はそのまま光に強く抱きしめられた。
水滴を吸ったタオルは重力に従って床へ落ちた。
光の逞しい筋肉と薄い皮膚に隔てられた、彼自身の鼓動と熱を直に感じられる。
蛍への想いが強い分だけせわしなく高鳴る心音に安らいでいく。
反面、甘い感情を伴う感覚記憶が鮮やかに蘇るせいか、体の芯から指先までもが熱くなっていく。
「ひか、る……?」
蛍は恥じらいに淡く色づいた顔をそっと上げると、戸惑いがちに呼んでみた。
一方光は蛍を無言で抱きしめたまま、暫く経った後。
「悪い。でも、お前がまた無理をしてないかと」
優しい炎を灯したぶっきらぼうな声で、光は蛍を案じてきた。
「私が落ち込んでいるんじゃないかって、心配してくれたの?」
「ああ。お前が本当は……心の何処かでずっと気にかかっていた、お前の義兄……深月・斎賀が、今回の事件を」
蛍にとって唯一無二の家族だった存在が、"凶悪犯罪者"としてルーナシティの平和を脅かす。
同僚の失踪と離脱、殉職を悲しむ仲間には、蛍も当然含まれている。
しかし、蛍は憎き仇の身内であり、それだけで彼女へ理不尽な感情を燃やす者もいる。
度重なる悲劇と残酷な現実が、蛍の心を押し潰しかねないのは想像に難くない。
「ありがとう、光。いつも、私のこと見ていてくれて」
それでも蛍は静かなる穏やかさに微笑んで見せる。
氷のように硬く澄み渡る強い覚悟と使命感を胸に宿して。
仕事では氷の如き強さを瞳と表情に映して、自らの使命と最善へ尽力する。
そのうえ、唯一つの安らぎである家に帰れば、疲れ張り詰めた光の心を包み照らしてくれる。
光にしか見せない"天真爛漫な少女"らしい前向きな笑顔を咲かせて。
「本当はね、少しだけ強がっていたのかも。でも、光のおかげで元気出た」
陽光に輝く不屈の氷花――そんな強さを咲かせる蛍は、どこまでも眩しく澄んでいて美しい。
故に、時折蛍は己を顧みずに周りの安否を優先させ、使命を成し遂げようとする危うさもある。
無邪気さを含んだ弱々しい微笑みも台詞も嘘ではないだろうが、むしろ光を気遣っているのは明白だ。
「当然だろ。俺はお前のことが……それに、お前は意外と危なっかしいから放っておけない」
「もう、子ども扱いしてるみたい。ふふっ……」
二人で過ごすようになってから、互いの性格を把握している蛍と光は、力の抜けた笑みを一緒に零した。
医務室の時と同じ様に、蛍も優しい手付きで光を抱きしめ返した。
天真爛漫な微笑みは咲いたまま、光の耳許で「ありがとう」を囁いた。
「それで、これからお前はどうしたい……? その……お前の義兄について……お前自身はどう思っている……」
心からの信頼も愛情も寄せてくれる蛍の少女のような笑顔を哀しみで曇らせたくはない。
心の底ではそう願いながらも、決して避けては通れない話題を光は緊張と共に投げかけた。
「ちょうどよかったわ。先ずは私、光にだけはちゃんと全て話したいって、改めて強く思ったの」
「……! いいのか?」
「うん……あの三日間、深月義兄さんと話した内容も……ううん、それだけじゃなくて、私と義兄さんの"過去"の話も」
今まで蛍が義兄――とりわけ"の家族"に関する話題を深く掘り下げるのを避けている、と何となく察していた。
そんな蛍がこうもあっさり、義兄との関係とその全容をに包み隠さず話そうとしてくれる事は少し意外だった。
「もしかしたら、光にとって重荷になる話かもしれない」
「そんなこと……!」
「でも、光にも全てを隠したままあなたの傍にいることも……罪を重ねようとしている義兄さんを一人で止めることもできないと思った。だから……話しても、いいかな?」
困ったように微笑みながら確認すされる。
蛍の表情はやはり無邪気そのものだが、少女らしい強がりと儚さも感じさせた。
「馬鹿野郎。むしろ、話すのが遅すぎだ。何を聞いても、俺は蛍の全てを受け止める――」
自ら光へ歩み寄ろうとした蛍のいじらしさに、光は甘酸っぱい感情で胸を締め付けられた。
口ではぶっきらぼうに憎まれ口を叩きながらも、蛍の頭を撫でる手付きは優しかった。
蛍を真っ直ぐ見つめる眼差しは、どこまでも優しくて熱い炎を灯す。
蛍に少しでも安心を感じて欲しくて。
*
「――じゃあ、眠らされた以外に手荒な真似はされなかったんだな?」
数年間も行方不明だった義兄・深月との再会と奇妙な"三日間"について打ち明けた。
エクリプス区の地下とは異なる、知らないホテルらしき部屋で目を覚まし、義兄と過ごしていた事。
蛍を拐かした深月は、彼女の身体の自由を奪ったりも危害を加えたりもしなかった。
不思議なことに、深月には蛍に対する敵意も殺意すら一切感じられなかった。
一方で、「連続猟奇殺人事件」への関与の他、今もどこかに捕らわれている黒沢の生存を仄めかし、さらに香坂を殺害したのは自分である、とあっさり告白した。
最期に今事件が深月自身の目的を叶えるための「計画」の一段階に過ぎない――次の事件を予告しているとも取れる謎の台詞を残し、蛍を薬物で再び眠らせた。
「この通り、私自身も医師の診断でも元気そのものらしいわ。実に不思議な話だけれど……深月義兄さんは、ただ私と久しぶりに穏やかな時を一緒に過ごしたかっただけみたい」
蛍が話している間、光は彼女の肩を優しく抱きながら、真剣な眼差しで最後まで聞いてくれた。
ただし、先ずは事件当時の話を聞き終えた時点で既に光は険しい表示を浮かべていた。
恐らく、蛍の心を翻弄してきた漠然たる存在だった深月へ燻らせてきた感情によって。
「まさかそれだけのために、わざわざ警察端末をクラッキングし、レギンを利用して蛍をおびき出し……俺達も安全監視装置の厚い壁網も掻い潜ったというのか……」
光にとって今唯一の幸いと慰めは、蛍だけは今こうして腕の中にいるという現実だが、懸念は山積みだ。
敏腕と謳われる蛍や黒沢を含む刑事官は、平和なルーナシティでも起きる飼い猫探しといった些細な事件から、自動安全警備を逆手に取った誘拐・強盗等のごく稀な難事件を共に幾度も乗り越えてきた。
そんな実力者である彼らの誘拐と捕縛、厳重な安全監視装置を導入した警察のコンピューターをクラッキングまでを容易くこなした。
深月へ、底知れぬものを感じずにはいられない。
「今まで、色々なタイプの犯罪者を見たが……深月・斎賀は今までにない"何か"を感じる」
心理セラピストとして、医療機関から公的施設へ派遣されるほどに卓越した専門知識と技術、功績だけでなく、多様な知識と技術にも長けているのだろう。
もしくは、クラッキングや暗殺に優れた専門家を操る心理学的技術を悪用している可能性も高い。
恐らく、少年感化院では誰も手のつけようのなかった芳夫・三浦だけでなく、彼に殺害された二郎・石井を含む複数の人間も、深月に"心理的支配を受けていた。
そうでなければ、数年以上も表社会から隠遁していた人間が単独で短時間かつ決定的な証拠も痕跡も残さずに、三人以上の人間を殺害するのは現実的に難しい。
「ええ……義兄さんは昔から読書家で勉強熱心な"頭の良い人"だった。ただ、今思えば……義兄さんは昔から優しかったけど、本当は何を考えていたのか、私にすら分からないことも多かった」
深月の本性も目的も、全ては謎のままだ。
ただし光にとって明確なのは、未だ一度も面識のない蛍の義兄に対する畏怖と同時に静かなる"怒り"だった。
心に傷を抱える人間を何かしらの甘言で懐柔し、駒として利用した末に他人の手であっさり切り捨てる。
そんな冷酷非道な手段と驕りが、正義感の強い光には到底許し難い。
しかし、いざ蛍を目の前にすると、彼女の前で深月を非難するのは正直憚られた。
「でも、その義兄貴を……蛍は尊敬していたんだよな……?」
「……ええ。私が幼い頃、実母と別れてお義父さんとお義母さん……そして義兄さんのいる斎賀家に引き取られた話、前にしたのは覚えている?」
「忘れるわけがないだろう」
贈り物やお土産によく使用される四角形の缶箱を蛍は膝に乗せた。
ビターチョコレート色に輝く高級な缶に金色の縁が植物さながら装飾された物体を大事そうに撫でる。
穏やかに微笑んでいながら、どこか寂しげな郷愁を孕んだ眼差しに、光は歯痒さに駆られた。
「いつも、義兄さんは私に優しかった。いつも、私に笑いかけてくれて……数えきれないほどたくさんの本を読み聞かせてくれた」
懐かしそうに呟いた蛍は、年季の入った缶箱を慎重に開けた。
箱の中には一冊の古めかしい本と一枚の写真が入っていた。
黄金の刺繍と銀絵具の縁取りで施された艶やかなすみれ色の表紙。現代には珍しい紙のポラロイド写真の中で微笑む義兄妹。
義兄との優しい思い出の詰まったこの本へ、もう一度触れる瞬間が訪れるとは夢にも思わなかった。
「その本は……?」
「『ヴォルスンガ・サーガ』……北欧神話の本よ」
甘いような独特の埃が仄かに香る古びた本の表紙に指を這わせてみる。
触れた指先から心の芯までが切ない懐かしさに満たされる。
決して戻ることのない義兄との甘く優しい時間。
幸せになれる呪文を唱えるように朗読してくれた甘く澄んだ声。
慈愛に満ちた微笑みが――秋空に似た郷愁、と清らかな冬の香りを伴って脳裏へ鮮明に蘇る。
「私と深月義兄さんが毎日一緒に読んでいた本。特に二人のお気に入りは、『シグルズとブリュンヒルドの物語』……」
郷愁の秋陽さながら温かくも切なく澄んだ声で蛍は語る。
大切な思い出の本を胸に抱いて安らかに瞳を瞑る蛍の姿に、光の胸もチリチリと灼けつくような焦燥に痛んだ。
居た堪れなくなった光は、古い写真の中で並び咲く"無邪気な笑顔"と"優しい微笑み"を交互に観察する。
艶やかな長髪を腰辺りまでなびかせ、義兄の腕へ無邪気にしがみついているのは幼い蛍。
蛍の肩へ後ろから優しく手を置いて抱き締める姿勢で柔和に微笑む青年こそ、深月・斎賀。
二人の仲睦まじい姿からも、蛍がどれほど義兄を慕い、深月もまた義妹の蛍を、どれほど慈しんでいたのか伝わってくる。
蛍にとって深月はどれほど大きな存在だったのか。
そして、深月にとっても蛍の存在は。
「蛍。お前は――」
待て……俺は今、一体何を想い、何を蛍に言おうとした……?
写真へ永久保存された二つの微笑み。
追憶に耽る蛍を目の当たりにした光の胸へ、言いようのない不安と焦燥が去来した。
言葉で表すにはあまりに憚られるような。
「……? なぁに、光?」
しかし、光の胸に灯った疑念は流れ星さながら瞬く間に消えた。
こちらを不思議そうに見つめる蛍の無垢な微笑みのおかげか、それとも……。
「いや、何でもない」
先程から表情を曇らせている光へ注がれる心配と不安の視線に、光はバツの悪そうな微笑みで誤魔化した。
それから、蛍の頭をポンポンッと労わるように撫でてやる。
「なら、よかった。ありがとう、光――」
水を与えれば必ず咲いてくれる花のように温かな微笑みに、光の胸に安堵が戻る。
明日は互いに早朝からの勤務だが、その夜も光と蛍は久しぶりに静かな夜を深く過ごした。
光は、暗澹たる不安に次いで一瞬でも思い浮かんでしまった"不謹慎な疑念"を振り払うように。
蛍は、光の太陽の温もりと甘い香りに抱擁されることで、《《あの日のぬくもりの記憶》》を上書きしたい思いで。
どうか、このまま、心の奥に葬ったまま――もう二度と目覚めないで。
あの日――蛍が初めて知った、雪のように甘く神聖な幸福も。
あの夜――蛍の身も心も灼き尽くした、氷炎のように熱くて、冷たくて、痛くて、焦がれ苦しむような深い"絶望"も。
*
長き夜の夢から醒める時、秋陽は雪風に凍てつく。
黎明の冬に月が微笑む時、全ては崩壊の凍結を辿る。
秋の朧月に照らされた、同時刻の夜。
退廃の地に佇む瓦礫に腰掛ける、一人の美しい青年。
淡い月明かりを頼りに、青年は読書に興じていた。
色褪せた文庫本の頁を、優雅な手付きで捲っていく中、抑えきれない笑みと独り言を零した。
「さて、とうとう始まったね? 果たして君は……僕の贈った謎を理解してくれるかな……?」
純真な期待と無垢な愛しさを胸に、青年は静かに呟いた。
恍惚と揺らめく眼差しは、傍から見れば恋に焦がれる純真な若者そのもの。
それでも、静謐の美貌に浮かぶあどけない微笑みから垣間見えるのは――氷柱のような冷徹さと無垢なる狂気。
「恋によって生まれ堕ち、恋によって狂い、恋によって命を燃やした――誰よりも哀れで愛しい、僕だけのブリュンヒルドよ――」
青年はひたすら待ち焦がれている。
唯一無二の女が、自分のもとへ舞い堕ちてくる瞬間を。
そう、これは終わりですらない。
全ては、たった今始まったばかり。
***第二部へ続く***




