第一部最終話『黎明の冬に目覚める月』①
其ノ十『黎明の冬に目覚める月』~答え合わせ~
蛍……蛍――……。
誰なんだろう……。
ひどく懐かしい声が耳朶と共に心臓を強く震わせる。
胸が張り裂けそうになるほど切なくて、恋しくなる。
深き虚の微睡みへ沈んでいた"私"は"誰か"の声に気付いた。
意識の水面へ波紋していく切実な声は、私の名前を呼んでいるのだ、とようやく気付いた。
蛍の意識と切り離されていたはずの手は自然と声へ引き寄せられていく。
しかし――己を絶望と共に深き眠りへ突き落とした"誰か"の存在は、私を竦ませた。
その"誰か"の名前も姿も霞がかっていて思い出せないが、私の本能は警告していた。
一刻も早く目覚めるか、いっそこのまま眠り続けるか。
いずれにしろ、最悪の状況を想定すれば危険であることに変わりない。
意識の狭間で右往左往することに、時間の概念すら不明瞭な中、今度こそ私は耳にした。
どうか、瞳を開けてくれ……! 頼む……! 蛍……っ!
この声は……"あの人"だ。
最も記憶に新しい"誰か"には決してない――あまりに必死な声色。
私のことが心配で、大切で、帰っきてほしくてたまらない――そんな純真で切ない熱意を奏でている。
迷っていた私の意識は空高くへと自然に昇りゆく。
真夏の太陽へ手を伸ばすように。真っ直ぐな熱い声に向かって私は――。
「蛍――!!」
「――こ、う……?」
蛍は大切な恋人――光の名前を呼び返した。
「蛍! 俺が分かるか……!?」
光の必死な呼び声に応えるように、蛍は深き眠りから目覚めることが叶った。
また……生きて帰ってこれた……光の場所へ……。
朧な意識で現実を静かに観察する。
蛍はルーナ警察署の医務室の寝台に横たわっていた。
目の前には当然、蛍の目覚めを待ち侘びて、寝台の脇に丸椅子に腰かける光の姿。
悲痛な面持ちで蛍の名前を呼び続けた末、胸を撫で下ろした眼差しで蛍を映す。
医務室での状況も、光と繰り返したやり取りの内容も前回とほぼ同じだ。
既視感そのものな状況に、蛍は不謹慎ながらも滑稽さから思わず唇を緩ませた。
しかし、蛍を何より微笑ませたのは――。
「っ……ふふ、ちゃんと分かるよ、光。ほら、この通り……」
「馬鹿野郎!」
「なっ……光……!?」
すっかり安堵していた心の緩みで微笑みすら浮かべていた蛍へ、光が浴びせてきたのは罵倒。
普段からぶっきらぼうな光とはいえ、まさか黒沢にしか向けられたことのない"憎まれ口"を蛍が受ける日が来るとは。
さすがに心外そうに面食らう蛍だが、それ以上の反論も言葉も失った。
「一体、俺がどれほど……っ」
前にも繰り返したような言葉の応酬の後。
光は両腕へ蛍を強く閉じ込めたまま、暫し離さなかった。
唖然とした眼差しの蛍も、光になすがされるまま。
しかし、あまりに強い力によって、互いの筋肉が軋むのを感じた。
少々痛いほど掻き抱かれている蛍は、思わず一瞬だけ眉を顰めた。
しかし、光の台詞と温もり越しに伝わる微かな震えで、蛍は瞬時に悟った。
今回もずっと、光は私を心配して傍に付き添いきりだったのた。
恐らく、今日一日だけ眠っていたわけではない蛍を待ち焦がれていたせいか。
常に澄ました光の顔は憔悴に青褪め、目の下に濃い隈を浮かべていた。
またしても光へ心配をかけた罪悪感に胸が少し痛んだ。
「ごめんなさい、光…… また、心配をかけてしまって」
蛍が無事に生還した安堵で小刻みに震えだす広い背中。
たまらず蛍は、子どもをあやすような手付きでポンポンッと光の背中を優しく叩き撫でた。
「ごめん、で済めば"警察はいらない"んだぞ、馬鹿野郎……」
「うん、ごめんね、光。ありがとう……ずっと傍にいてくれて」
今度は蛍も光をきつく抱きしめ返した。
全身へ澄み渡っていく愛しさと温もりを噛み締めるように。
心臓を満たす温かな想いが、熱を帯びた瞳の奥から溢れ出しそうになるのを堪えながら。
「馬鹿野郎。またこんなことがあれば、今度こそ許さないぞ。馬鹿野郎……っ」
「……ちょっと、馬鹿野郎って、そう何度も言う事ないじゃない」
世話の焼ける妹にしてやるように、光は蛍の艶やかな黒髪をガシガシと乱暴に撫でた。
太陽のように大きくて熱い手だ。
蛍は心地良さに双眸を閉じながら、ささやかな反論を囁いた。
「お前みたいに、無茶と心配ばかりかける奴には、馬鹿野郎で十分いい薬だ」
「何それ、ひどいよ。もう……ふふっ」
光の反芻する「馬鹿野郎」は乱暴な響きに反して、蛍を心から気にかける不器用な温かさが灯っていた。
無茶と心配ばかりかける蛍を光は言葉で詰ることで、瞳から溢れ出しそうになる感情を堪えているようにも感じた。
しかし、蛍が無事に目覚めた現実のおかげか、瞳には温かな愛情に澄んだ光が既に戻っていた。
「……本当に、すまなかった蛍。守ってやれなくて」
「ううん。私こそ、本当にごめんね……」
互いが刑事官として巡り会ってから、今日明日に始まったわけではない謝罪の応酬。
どれほどの時間、幾度もの任務を共にしてきても常に重く、けれど互いに呆れるほど伝えてきても、伝え足りない言葉。
今回の場合、あの蛍が二度も連続して危険に置かれた事件の異常さ、自身は手も足も出なかった事実を光は重く受け止めているらしい。
しかし、蛍は光にもう一つ申し訳なさを覚えた。
罵倒を零さなくなった代わりに、沈んだ表情で蛍の両手を繋ぐ光。
まるで、"しょんぼりした黒い柴犬"を彷彿させる姿に、蛍は微笑まさを噛み殺した。
「ごめんね……でも、ありがとう……光も無事でよかった……」
しかし、結局抑えきれなかった笑みで緩んだ唇は、謝罪と感謝を零すことで誤魔化した。
ただし、最後の言葉だけは本心だった。
*
「目覚めたばかりで本当にすまないが…… 話をしても、良いか? 蛍」
蛍が意識を奪われる寸前、歓喜と絶望の狭間で義兄と交わした対話を思い出す。
どこまでも愚直で情熱的、だからこそ愛しい光の愛情。
望まぬ再会を果たした義兄とはまったく異なる光の優しさも温もりも――それだけは、何としても守りたい。
蛍は心の底からそう切望した。
互いの心の熱りが冷めた頃、互いに頷いてから重い口を開いた。
蛍は再会を果たした義兄の深月・斎賀との"奇妙な三日間"について。
光はエクリプス区の隠し地下の隠し通路での顛末について。
蛍が再び無傷で生還できた経緯は、光曰く三日前の事。
何故か警察署の裏口で倒れていた蛍の姿を警備員が発見し、慌てて医務室へ運んだらしい。
やはり深月に嗅がされた薬品の影響か、蛍は三日間も深い眠りへ落ちていたらしい。
「俺達は地下の隠し通路を進んだ先に存在した広間でレギンと遭遇した。ひどく凶暴で危険なあの男は自ら話した。今回の連続殺人は"全て自分がやった"、と」
我こそは連続猟奇殺人事件の真犯人である、と自ら吐きながら光達へ牙を剥いてきたレギン。
さらに黒沢刑事官を人質に捕え、"クラッキング"を用いて密かに蛍まで脅した。
一方蛍は自分を誘き出したはずのレギンが自分と会う前に、光達と交戦していた事実を初めて知って驚いていた。
「まさか、光達がレギンと会っていたなんて……レギンが危険な男であるのは通信越しでも伝わったけれど……無事でよかった……っ」
「まさか、この時世で肉切り包丁を目にする羽目になるとは思わなかったがな」
苦笑混じりに零した光の台詞に、蛍も内心同じ感想を抱いた。
光にしては珍しく冗談めいた皮肉に、蛍は彼を軽く諌めた。
「もう、茶化すみたいな事言わないで。でも……結局レギンはどうなったの? レギンと戦った全員が無事なら、あの後……」
同時に"ある人物"を思い浮かべて胸が切なくなったが、あえてまだ触れはしなかった。
しかし、当の光が一瞬だけ躊躇に瞳を泳がせていたのを蛍は見逃さなかった。
「レギンは……連続猟奇殺人犯は、殺された――恐らく、奴の"共犯者"によって」
「……え……?」
連続猟奇殺人事件の「黒月」であるはずのレギン。
光達によって現行犯逮捕され、法の裁きを受けるはずだった殺人鬼は最期、別の者に殺害された。
誰もが予想しなかった事件の結末に動揺を隠せない蛍は「何故」、と問うように光を凝視した。
「レギンを襲った"謎の人間"は、別の隠し通路から突如現れ……瞬く間に消え去った。恐らく、レギンの殺人を手引きし、何故か裏切った"共犯者"なのだろう……」
「それは……何時頃だったか分かる……?」
レギンを殺害して颯爽と姿を消した謎の"共犯者"に、白雪の"あの人"を連想した。
しかし、レギンとの交戦から殺害までの時間帯、何より共犯者の特徴はまるで一致しない事を知った蛍は安堵ともつかない微妙な溜息を吐いた。
「そして俺達は、レギンを射殺した謎の少女を追うべく、増援と共に他の地下通路にも足を進んだが……」
「失礼いたします。櫻井先輩。藤堂先輩」
光との情報共有の最中、二人をよく知る一人の刑事官が医務室へ入室した。
ノックも立てずに忽然と現れた気配に、二人は息を呑んで顔を上げた。
途端、蛍の双眸は悲壮に凍りついた。
前髪の隙間から覗く暗い視線に圧倒される中、蛍は震えそうな唇で相手の名前を呟いた。
「望月、刑事官……?」
寝台で上肢だけを起こした蛍の目前まで迫っていたのは後輩の望月だった。
「……櫻井、先輩……私は、あなたに……全て、を、話しに、来ました……」
幽鬼さながら変わり果てた姿の後輩に、二人は沈痛な面持ちになる。
瑞々しかった栗色の髪からは以前の艶は消え失せ、草花の死骸さながら萎れている。
新米らしい真面目熱心、先輩への憧憬に煌めいていた瞳も、今は悲壮な闇色に濁っている。
途切れた糸のように言葉を漏らす弱々しい口調からも、以前の覇気は消えている。
後輩望月の身に何が起きたのか。
隣の光もある程度人伝に聞いているかもしれない。
だからか、光は望月へかけるべき言葉がないのか、居た堪れなさそうに双眸を伏せている。
一方、望月の変貌ぶりとその"理由"を蛍は知っている――"あの場"に居合わせた蛍だけは。
「ですから……櫻井先輩も、ちゃんと、話して……くれますか」
血のような夕陽色に照り染まったあの広間――望月の相棒を奪い、彼女の心を壊した"地獄"。
恐らくたった今、望月と蛍は互いの記憶に刻まれた光景を脳内再生している。
「先輩は、会って、いるはず……ですよね……? あの男と……っ」
望月が不意に示唆した存在に、唯一心当たりのある蛍の心臓が高鳴った。
前髪に隠れた暗い瞳と沈んだ声色には、行き場のない悲憤を目の前の誰かへ浴びせないよう堪えているのが窺えた。
「ええ……私からも話すわ……起こった"全て"を……」
苦渋の表情で無言に徹する光に見守られる中、蛍と望月は一つずつ言葉を交わした。
エクリプス区地下の隠し空間にて、互いに目の当たりにした惨劇の詳細と結末、そしてあの男の正体について――。
蛍は己の把握している"ありのままの事実"を惜しみなく明かした。
そうすることで望月だけでなく、もう一人の後輩への贖罪を果たしたかった蛍なりの気持ちだった。
ただし、表向きは「情報共有」として対話していく内に二人も薄々と気付いていた。
望月自身の心で蛍へ転移している"不合理な感情"も、それらを今後も自分で制御する事の難しさを。
*
十一月二十八日。ルーナ警察署・刑事部にて。
協働捜査班は、暗礁に乗りつつある『連続猟奇殺人事件』の進捗と捜査結果の報告に併せて、今後の「作戦会議」を開いた。
会議出席者は各自の警察端末機を起動させ、半透明の立体画面へ報告書と資料を開いていく。
会議室を見渡せば、特例班の結成当初よりも人員数が減ってしまったのは明白だ。
深刻な人手不足の中、刑事官三名もの欠員はかなりの痛手だ。
エクリプス区隠し通路潜入作戦から初めて参加した須和や秋元を含む刑事官も今回の会議に同席していた。
今回の事件が予想範疇を超えて危険と深刻な問題を孕んでいる、上層部が判断すれば、やがて穴埋めとなる増員もありえる。
しかし"理由が理由"なだけもあり、会議室は暗澹たる空気に包まれていた。
霜月班と葉月班を含む一部の出席者の表情も悲壮な色を浮かべていた。
「『連続猟奇殺人事件』並びに被疑者とその関係者の捜査の総括報告会。そして、今後の事件捜査の"作戦会議"を行う」
理知的な口調で司会を始めた班長・浜本は沈着に告げた。
しかし、伊達眼鏡越しに映る眉間の深い皺、双眸に灯る険しい色は隠せていなかった。
刑事部では随一冷静沈着で論理的、決して私情に流されることなく最善の判断指示を仰ぐ浜本ですら、内心動揺しているはずだ。
悲憤を瞳に燃やした光は電子報告書の内容……というよりも、文字越しに浮かぶ"犯人側"の面々と名前を睨んでいる。
光の隣に腰掛ける蛍ですら、薄氷の瞳に"淡い亀裂"が浮かんだままだ。
こんな時は、不埒で軽薄な言動で周りを翻弄していた黒沢が殺伐とした事務所を和ませてくれた。
しかし、結局は黒沢の安否確認どころか行方も影一つ見つけられなかった。
さらに経験値は浅くとも、黒沢や蛍のように一癖強いベテラン刑事官への敬意と熱意をもって協力してくれた優秀な後輩二人も離脱してしまった。
一方、余分に空いた座席へ視線を移す刑事官へ、浜本は時折眼差しで諌めながら続けた。
「"自分が被害者三名を殺害した"――自ら言いながら、我々を襲撃した殺人鬼は「レギン」と名乗った」
人間を拷問の末に殺害し、亡骸になった後も嬲り辱める――血と暴力の快楽に狂酔した残虐非道な殺人鬼レギン。
レギンの存在も声色から気配まで、暫くは多くの刑事官の記憶に焼き付いて離れないだろう。
浜本らしい理路整然な報告へ耳を傾ける中、蛍は密かに開いた別頁に浮かぶ二つの名前へ眼差しと想いを馳せる。
『殉職:晃・香坂刑事官』
二回目の潜入捜査時に殉職した後輩の一人・香坂の葬儀は、昨日に催された。
香坂の死因は頸動脈を鋭利な刃物で切り裂かれた事に帰する「失血性ショック死」だった。
任務当時、人質として行方不明の黒沢の救出保護をを目指していた二人。
『班離脱並びに不定期休暇:奈々・望月(諸事情により)』
香坂とは良き相棒だった望月は、彼を目の前で殺害された衝撃によって"心が壊れて"しまった。
救助隊と仲間の手を借りて署本部へ帰還して以降も、放心状態は続き、まともな会話も望めなかった。
報告書の冒頭には詳細を記載していないが、内容の核心部分を読めば、誰もが事情を容易に察することはできた――所謂、診断名を借りれば「急性ストレス障害」だ。
人の命が理不尽に奪われる光景を初めて目の当たりにした。
しかも、殺された相手は自分の大切な仲間であり、己の無力と選択の誤りによって招かれたと思っている。
血の匂いと共に脳裏へ染み付いた罪悪感と無力感は、望月の心を圧し潰し、"心神喪失状態"へ陥らせた。
事件当時の血腥い記憶は鮮明な悪夢となって、望月の脳内で幾度も再現される。
夜の眠りも昼の安らぎのどちらも許される間もなく与えられ続ける罰か拷問に等しく。
"再体験"という地獄の責め苦によって、既に八つ裂きにされた心は繰り返し抉られていく―― 。
やがて「|PTSD《心的外傷後ストレス障害」へ移行するであろう望月は、警察官の仕事続行は不可能な精神状態にある、と診断された。
現在は署に併設された「ルーナ警察病院」の精神科病棟に入院し、内村医師による精神療法と薬物療法を受けている。
そのため今日の会議には療養休職中の望月は欠席している。
「現場において、レギンを第一から第三事件までの殺人容疑に次いで、刑事官への殺人未遂と公務執行妨害の現行犯として逮捕しようとした。だが、その矢先……現場にいた藤堂刑事官、頼む」
右脳では望月と最後に交わした"お話"を想起し、左脳で浜本の報告へ耳を傾けていた蛍の意識は目線と共に隣の光へ集中した。
「はい……私藤堂並びに他、複数名の刑事官の発砲によって、奴の無力化を図りました。しかし、任意同行を促す我々へレギンは殺意と共に抵抗。その直接―― 」
蛍と黒が先に発見した隠し通路を潜り抜けた直ぐ先に存在していた広間にて。
先に潜入していた刑事官達はレギンの迎撃を受けた。
後輩達を先に行かせた光達は、レギンの足止めと時間稼ぎために彼と交戦した。
レギンさえ逮捕すれば、ルーナシティ中心区を震撼させた事件は幕を閉じる。
一時的に失われたつつあったルーナシティの平穏と信頼も取り戻せる―― 誰もがそう信じてやまなかった。
しかし、自分達を待ち受けていたのは――予期せぬ結末、さらに混沌と化した"謎"の浮上だった。
「現場に突如現れた不審人物はレギンを射殺し、直ぐに逃亡」
光達に追い詰められたレギンは往生際悪く、負傷した両脚に構わず猛々しく抵抗を示した。
しかし、背後斜め上から飛んできた銃弾に心臓を貫かれる、という呆気ない幕引きを迎えた。
「不審人物の性別は体格と声色から"女性"と推定されます。年齢は……」
レギンに引導を渡した不審者は、『フェンリル』と名乗った謎の少女。
十二歳前後と推定される可憐な容貌を"赤ずきん"と酷似した外套で纏っていたフェンリル。
砂糖菓子のように甘く、それでいて無邪気な冷酷さを響かせた愛らしい幼声。
幼い風貌に不相応な拳銃、頭巾の影から覗いた可憐な微笑み。
素顔は不明であるにも関わらず、一度目にすると決して忘れられない。
フェンリルはそれくらい、鮮烈な存在感で光達を圧倒した。
どこか不吉な伝言を光へ残した後、常闇へ溶けるように消え去った。
事件解決への糸口を掴めた、という手ごたえを感じた矢先。
手がかりは謎の痕跡を残して再びすり抜けてしまった。
殺人鬼レギンの予期せぬ死、彼を殺害した謎の少女によって。
さらに、事件捜査と犯人追跡の末に生じた望まぬ"犠牲"も生じた。
誰が心苦しく、気落ちせずにはいられるのだろうか。
協働捜査班の内側は悲哀と焦燥の渦へどっぷり呑まれていた。
「――以上が、十一月二十二日決行・再潜入捜査の総括報告です」
それでも我々は「警察官」として、社会と一般市民の安全・安心を庇護する役割を遂行する。
我々の落ち込んでいる間にも、"真の黒幕"はさらに他の人々を絶望へ引き摺りこむ罠を張り巡らしているのだ。
雲を掴む想いで足掻き続ける我々を影で嘲笑いながら。
仲間の犠牲と喪失を招き、打ちのめされたなら尚更だ。
我々だけは決して立ち止まるわけにはいかない。
「ご苦労、藤堂刑事官。では、次に猟奇殺人事件の被疑者並びに現行犯逮捕する予定が、遺体となって身柄を確保されたレギンについて。帰還後の記録調査によって、奴の身元は判明できた……神楽刑事官」
謎の偽名レギン、と名乗った殺人鬼の素性が解明された。
途端、蛍を含む刑事官一同は固唾を呑んだ。
浜本はレギンの素性調査を担当した神楽刑事官へ報告を命じた。
「はーい。えーと……レギンの本名は、『芳夫・三浦』。二十四歳・無職の男性だそーです」
「神無月班」に所属する神楽刑事官は、捜査班の三名欠員を補うために新たに配置された。
藤堂と黒沢にとっては一年下の後輩であり、蛍より一年先輩だ。
後輩特有の卑屈さも、先輩特有の高慢さのどちらも属さない"無気力"が形になった独特の雰囲気がある。
神楽は間延びした声、抑揚のない表情で調査結果を淡々と読みあげていく。
「芳夫・三浦。小学校就学当時から同級生、教員への暴力行為。勉学怠慢等。素行不良だらけでしてー。十歳、小学校を自主中退ー」
「以降、地元の不良達へ日常的な喧嘩をし、窃盗や恐喝等から終いには違法薬物取締法違反等の犯罪行為も繰り返すようになりした」
普段の浜本長であれば、神楽の緊張感に欠ける棒読みと伸びた語尾へ苦言を呈するだろう。
真面目な光も呆れたように溜息を吐き、周りもヤレヤレと肩を竦めたが、それも束の間。
「ついに芳夫、十ニ歳。父親への殺人未遂で逮捕。千枚刺しで父親の両眼を一突き、殴り蹴りの半殺し中に近所の通報で警察に現行犯逮捕」
身元調査によって解明された芳夫・三浦被疑者もといレギンの物騒な遍歴。
神楽の口頭報告は省略に過ぎず、電子報告書に記載された芳夫の非行・犯罪歴は次頁までズラリと並んでいる。
しかも、十五歳にも満たない幼い少年が自分の父親を残忍な方法で痛めつけ、殺しかけたという重い事実。
芳夫と接触した瞬間に、肌で感じ取れた獰猛な血と死の匂い。
その危険性の証明たる記録に、本人と接触しなかった神楽を除く刑事官一同は戦慄する。
「その後は家庭裁判所の保護処分に基づき、『少年感化院』へ送致されたようですー」
当時十ニ歳だった芳夫は"犯罪少年"として、先ずは警察に検挙された。
しかし当時の芳夫の年齢や未遂で済んだ事に加え、"家庭の事情"を配慮した結果、刑事裁判には至らなかった。
事実、調査中で芳夫本人の父親への罵倒、周りへの反抗挑戦的な言動、彼自身の肉体に刻まれたおびただしい傷跡は、父親からの日常的虐待を証明していた。
家庭裁判所は「保護処分」の名目で芳夫を「少年感化院」へ送致した。
かくして、芳夫・三浦には少年感化院での矯正生活と同時に、被虐待児として精神科・心理カウンセリング等を主とした療法を受ける救済措置を取られた。
「レギン……否、芳夫・三浦は、父親にも"暴力"によって全てを否定され続けた。その父親を殺しかけた末に辿り着いた少年感化院で、奴は何を想っただろうな……」
芳夫の壮絶な生い立ちを耳にした光は、憂愁の表情で静かに呟いた。
薄氷の瞳に報告書の文字を無言で映していた蛍を含む刑事官一同も、シンっと静まり返る。
幼少期から父親に虐待され、家庭と学校の内外のどこにも居場所はなかった。
初めての逮捕検挙と少年感化院送致へと繋がった殺人未遂事件当時、芳夫はどんな想いで父親の両眼を抉り、命を奪おうとしたのか。
しかし、偽名レギンとして芳夫・三浦が起こした猟奇殺人事件の真相も"芳夫少年"の真意も、彼自身の死によって深淵の闇へ葬られてしまった。
「とはいえ、他人の命を弄んだレギン……芳夫・三浦の罪は決して許されない行為です。たとえ如何なる"理由や背景"があろうとも……"理解"はしても同情はできません」
「……そんなことは、分かっているさ、櫻井刑事官」
罪を犯した人間の背景や心情にすら想いを馳せる光。
警察官らしからぬ光の人の良さを言葉で冷徹に諌める蛍。
「いいんです、責めているわけでありません。ただ、レギンの悲惨な生い立ちに」
反面、光へ注ぐ眼差しも声色も柔らかく、彼らしい優しさに対する蛍の理解と支持も窺えた。
蛍の台詞は浜本長は言わずもがな、他の刑事官の胸にも熱く刻まれたに違いない。
おかげか、陰鬱だった会議室の空気が幾ばくか和らいだ矢先。
「しかし、少年感化院へ入った後、芳夫・三浦は担当心理士や看守等の職員へ全治三か月の大怪我を負わせたこともありました。以降も、他の入所少年や指導官への攻撃的な言動が問題視されています」
神楽が引き続き読み上げた報告書内容に、刑事官達は固唾を呑んで聞き入る。
少年感化院でも問題行動を止めないのは、非行・犯罪を飯と同感覚で繰り返す少年には有りがちな話だ。
ただし誰もが関心を寄せているのは、三浦が本当の殺人鬼になった瞬間へと繋げたキッカケにある。
「ただー……六年前くらいの記録によれば、当時の院へ新しく入った"別の心理士"が担当に就いてから、三浦の暴力行為はパッタリ止んだそうです」
施設での暴力沙汰と問題行為が絶えなかった芳夫・三浦の更生・退院は絶望視されていた。
しかし、十八歳の誕生日を迎えようとしていた六年前――新しい担当心理士との出逢いを境に、芳夫は心を改めたという。
例の担当心理士のカウンセリングを経て、すっかり見違えた芳夫は一年後の十九歳に退院を許可された。
「素行の最悪だった芳夫・三浦が突如改心した理由と経緯について……最後に奴を担当した例の心理士は深く関係しているのでは?」
突如蛍の投げた疑問へ浜本が口出しするよりも先に、神楽は無言で肯いた。
施設出所後の人々の内、身寄りも居場所もなく、生活の目処もない孤立無援者の九割は再犯率が高い。
しかし、問題困難事例扱いで懸念されていた芳夫は退院後の再犯もなく、保護観察経過も良好だった。
担当心理士の紹介で繋がった福祉士の助力もあり、芳夫は住居と工事作業員として就職も確保できていたらしい。
芳夫・三浦は"社会復帰"を果たした、と彼の関係者の誰もがそう楽観視した。
しかし六年後、現実は生易しいものではない、と何故今になって我々へ思い知らせてきたのか。
「はい。当時暴力少年だった三浦の心を開き、彼の更生を親身に支援した。高い貢献度と評価を謳われた例の担当心理士こそ――」
今回の凄惨な殺人事件を起こしていた間、芳夫・三浦はエクリプス区地下を拠点にしていたのは間違いない。
しかし、一度更生したはずの芳夫が、治安も環境も劣悪な区域の、それも一般貧民すら知らなかった隠し空間に潜伏していたのか。
獰猛獣のごとく手の付けられなかった芳夫を手懐けた、という謎の担当心理士の正体が鍵を握っている――。
「深月・斎賀――という男性です」
「っ――何だと!?」
蛍の勘は的中したかのごとく、神楽の告げた重要な名前に、思わず光は人目も憚らずに声を荒げた。立ち上がった。
突然立ち上がった光の動揺ぶりに周りが騒めく。
当の蛍は薄氷の瞳に確信と不穏の色を灯していた。
保護観察終了以降は知られざる芳夫・三浦の動向を把握し、潜伏生活へ関与した疑いの高い人物こそ、彼の最期の担当心理士であり――斎賀・深月だった。
当時は医療機関に勤めていた深月が、対話カウンセリングと認知行動療法を軸にした"若手の敏腕心理セラピスト"として高く評価されていた事も。
さらに週に二度、三度の頻度で他所の施設、その一つに少年感化院にも派遣されていた事も。
かつては"家族"として深月と二人で暮らしていた蛍の記憶にも新しい。
殺人鬼レギンもとい芳夫・三浦 の潜伏先で、かつて彼の心理士を務めていた深月が姿を現した――犯罪者として。
時期的にも、芳夫の退院前後と深月の失踪は重なっている。
少年感化院での深い接点が両者にあった事実から、今回の事件と二人の件は単なる偶然として片付けられない。
「失礼しますが。深月・斎賀は、今回の殺人事件にレギン殺しに関与していると仮定して……結局、彼? は一体何者ですか」
レギン殺害現場に居合わせ、深月の存在を訝るする刑事官達の代表して、須和刑事官は控えめに挙手した。
「……エクリプス区地下で香坂刑事官を殺害しました。恐らく、黒沢刑事官を捕らえている真犯人も……その男で間違いありません」
嘘偽りも感じない研ぎ澄まされた氷のような声が響き渡った。
浜本でも神楽でもなく、作戦当時は自宅待機を命じられていた蛍が代わりに答えた事に須和は目を見開く。
「失礼ですが、櫻井刑事官。あなたは一体何故、そこまでの情報と確信を……?」
「……潜入作戦当日、レギンに脅されて地下へ潜入した私を三日間攫っていたのも……深月・斎賀だからです。本人と直接顔を合わせました」
蛍自身の口から深月・斎賀の名前と共に驚愕の事実を耳にした刑事官一同へ、再びどよめきが広がる。
さらに、二度目も誘拐された蛍が深月本人と顔と言葉も合わせ、三日間も共に過ごしたうえで無事な生還できた事。
奇跡では説明のつかない新事実に、蛍へ集中していた皆の視線に"疑念"の色も浮かんだ。
「皆、静粛に!」
浜本は戸惑いを露わにする刑事官一同を諌めた。
浜本の一言で一斉に静まり返った会議室。
動揺、心配、困惑、疑念、侮蔑羨望まで。
色々な感情の混ざる眼差しを一身に浴びる中、蛍は薄氷の眼差しを崩さず最後まで会議に参加した。
「では、今後の事件捜査の方針と計画の話に移る――」
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