『雪月の深淵に沈む者』②
「どうしたんだい? 蛍。もしかして、寒いのかな?」
蛍が口を噤んだまま小さく震えている様子に、深月は"今気付いた"、と何処かわざとらしく訊いてきた。
蛍自身も、今自分が何に最も恐れ慄いているのかよく分からない――否、気付かないフリを貫いていた。
特に、光と黒沢の名前を親しげに呟きながらも、声の芯は冷え渡っていたのを聞き逃さなかった瞬間から。
「深月、兄さん……その」
「もしかして、僕が"怒っている"のではないか、と。そう、怯えているのかい?」
毒気のない無邪気な眼差しでにこやかに微笑む深月の問いかけに、蛍は再び言葉を失った。
確かに自分は今、義兄に対してある種の"罪悪感"も芽生えつつある。
最後に遺った唯一の家族まで喪った耐え難い悲嘆から解放されたくて、行方不明の義兄を意識から遮断した。
己の感情を制御できる仕事へ没頭し、後に理想の恋人と安らかな生活も手に入れた。
過酷な地下の闇で孤独に息を潜めていた深月は、そんな蛍を暗に咎め、恨めしく思っているのではないか。
寒風に当てられたように蒼白な顔に浮かぶ蛍の"怯え"の感情は本物だが、理由はそれだけではない。
「そんなに怖がらなくていいよ。君に恋人ができた事は、仕方のないことだから、蛍を一方的に責めることはできない。僕が"君にしてしまった事"を考えれば、ね」
一方深月は、気まずそうにも見える蛍を不憫に思ったのか。
不意に深月は蛍の両肩へ、彼女を励ますように両手を添えた。
蛍の感じている不安や怯えを代弁するように言葉を奏でる。
存外、にこやかに微笑みながら優しく語りかけてくる義兄に、蛍は再び虚を衝かれてしまう。
しかし、蛍の胸に灯るのは安堵とは程遠い感情だった。
「……ち、違うわ……義兄さん。私は……そういうこと、じゃなくて」
やっぱり、おかしいとしか思えない。
目の前の深月義兄さんも、私自身の置かれた状況も。
何も知らない人間から見れば、兄妹の茶を交えた雑談も。
しかし、至って平穏な光景と紙一重で繋がっている"裏側"を蛍は既に勘付いている。
実は既に三日間の過ぎようとしているこの異様な状況。
蛍が触れた瞬間に瓦解する"夢"から剥がれ落ちる"現実"。
そこから明らかになる"真実"を見ることを本能的に恐れていた。
しかし、義兄との会話は重ねるごとに近付く"取り返しのつかない何か"への伏線であり、時間の問題だった。
「違うのかい? だとすれば、何かな……? 蛍」
不安げな蛍の言葉を悠長に待つ深月。
しかし蛍は肩に置かれた深月の手を幾ばくかの罪悪感と共にそっと除け払った。
同時に、自分を存外容易く解放した深月と距離を取るべく、純白の布掛けに覆われた窓を背に後退した。
「っ――兄さんは……」
数メートル先で佇む深月の瞳はどこか愉しげな炎と共に、蛍を真っ直ぐ映していた。
深月の微笑みはどこまでも綺麗に澄んでいて、けれど氷で撫でられるような薄ら寒い威圧感も感じさせた。
「蛍……?」
それでも――蛍はこれ以上先延ばしにするわけにはいかない、と決意した。
刑事官としてだけでなく、深月の義妹であり唯一最後の"家族"として。
「深月兄さんは……私も殺すつもりなの?」
冷凛とした刑事官の表情になった蛍。
薄氷の瞳に微かな緊張の色を映しながら深月を射抜くと――深月の核心へ遂に触れた。
「――何故……?」
「もう誤魔化さなくてもいい、義兄さん。私は、見たの」
夕陽色の灯りが転々と仄照る広間。
蜘蛛の網模様の床通路から浸潤し、空中から浅瀬へ滴る赤黒い液体。
自己意思と生命活動の灯を消された一つのいのち
血濡れた抜け殻を失意と共に見上げる、もう一つのいのち。
常闇の狭間にて、夜に煌めく雪のように駆け誘う深月の後ろ姿。
深月を必死に追いかける中、蛍の瞳に一瞬映った、彼の右手で瞬く銀の耀き――仄かに漂う血の香り。
「あの広間で、何が起こったのかも。あの闇の中で、兄さんは何を所持していたのかも」
蛍の意識へ断片的に浮上した記憶は、過去のある地点から現在へ、とようやく一つの形を成した。
「……さすがだな、蛍。やはり君は優秀な刑事官なんだね。あの状況でそこまで事細かに観察していたとは」
「!……なら、兄さんが、本当に……っ」
蛍の意識を睡魔の沼へと引き摺り込んだ、記憶に新しい"薬品の香り"。
ぞっとするほど、"綺麗な微笑み"を咲かせた深月の顔と重なる幻像は――。
「香坂刑事官を殺したのは……深月義兄さん、あなたなのね……?」
絶望に血濡れた後輩の虚ろな眼差し。
エクリプス区地下で義兄妹が一番最初に言葉越しの再会を果たした時点で存在していた"違和感"。
暗澹たる状況と場に不自然なほど静穏だった深月の態度とその理由。
未明の謎は募ったままだが、今確かな点は唯一つ。
「――そうだよ。僕が、彼を殺した」
囚われていると思しき黒沢を救出しに行った後輩二人の内――香坂刑事官の頚動脈を掻っ切り、望月刑事官の心を砕いたのも。
直後、赤の広間から常闇の通路へと蛍をおびき寄せたのも。
蛍に追いつかれた所で薬物を用いて彼女の意識を奪い、この部屋へ攫ったのも全て――。
「でも、それがどうしたっていうんだい――?」
聖なる賢者さながら柔和な微笑みを咲かせ、天使のような慈愛の眼差しを注ぐ義兄――深月の仕業であること。
だとすれば、レギンが惨殺した被害者の無残な遺体に残された『怪文章』も、やはり義兄が……。
蛍は胸にひしめく感情を精一杯抑えながら、深月の真意を問う。
「どうして、義兄さんが、"あんなこと"を……?」
「僕が、僕自身の『目的』を達成するまでの間……少し"暇を持て余していた"からね」
他人の命を奪い、他人の心を壊した、という罪深い行為と身勝手な動機を穏やかに認めた深月。
冬空色の瞳は罪悪感や憐憫すらなく、果てなき"虚無"を――目の前の蛍のみを澄み映していた。
「――"そんなこと"のためだけに、私の同僚を……?」
昔から深月を深く知っているつもりだった蛍の心には、到底信じ難い現実だった。
確かに昔から義兄は冬の静謐みたいな人だった。
深月が感情的になり、泣いたり怒ったりする姿、蛍の記憶の限りではほとんどなかった。
それでも蛍が嬉しそうに笑えば、深月も穏やかな笑顔を返してくれた。
逆に蛍が悲しみ涙すれば、深月も瞳に哀愁と憐憫を浮かべ、蛍を優しく慰めてくれた。しかし。
「どの道、あの二人も…… 僕にとって"邪魔"になる存在だったからね」
動揺を押し殺しながら問いかけを続ける蛍とは対照的に、やはり深月はひたすら"静穏"のまま。
「どうしたんだい、蛍。そんなに怖い顔をして」
冬空色の瞳はどこまでも冷たく暗い静寂の中で微笑む。
氷山の深淵さながら、透き通っているようで底知れない不気味さを伴って。
「あなたは本当に、あの深月義兄さんなの?」
人間を殺した重い事実を冷然と告白し、命を奪った罪に対する良心の呵責も懺悔すらなく微笑むこの男性は、一体誰なのか。
目の前にいる深月、と幼き蛍の記憶で微笑む深月の人物像は、まるで一致するようで一致しない。
蛍は呼吸まで凍りつきそうな唇で恐る恐る問う。
「ああ、僕は正真正銘の深月・斎賀だよ。蛍だって、分かり切っているだろう?」
生死すら不明だった数年もの時間を経て、やっと生きて逢えた義兄。
蛍にとって唯一最後の大切な家族が生きていてくれて、心から嬉しいはずなのに。
「なら……事件の遺体に残されていた謎の怪文章も、私が地下の隠し通路と自宅にいた時に連絡をくれたのも全ては……私を"ここ"へ呼び寄せるためだったの?」
「その通りだ。『絶対に来てはならない』――ああ言えば、君は必ず僕を探しに来てくれる、と分かっていた。レギンを遣わせたのは、念の為の"保険"だった」
けれど、自分のもとへ帰ってきてくれた義兄は――人殺しすら厭わない"犯罪者"だった。
できれば、こちらの方が"嘘の夢"であってほしかった。
あまりに残酷な現実の前に、蛍は雪嵐のように荒れ凍える心を抑えながら気丈に告げた。
「それが本当なら、深月義兄さん……私はあなたを署まで連行しなければならない」
「……僕を逮捕する、というのかい?」
「義兄さんの言葉は全て"自白"と見なすわ。その上で、他にも知っていることも全て話してもらいます。さあ、黒沢刑事官はどこにいるの? 返答次第ではあなたを――」
深月が事件の首謀犯である確証も情報も未だ不足する今、蛍は刑事官の使命を失念するわけにはいかない。
牽制の言葉を凛然と唱える蛍とは対照的に深月は――。
「――ふふっ」
ただ、心底可笑しそうな笑みを無邪気に零した。
まるで、子どもの強がりを微笑ましそうに眺めるように。
この場に不相応な屈託なき微笑みに、蛍は不愉快から眉を顰めずにはいられない。
「一体何がおかしいの?」
「いや、すまない。ただ……やはり凛々しいことだ」
褒めているらしい言葉も、どこか矛盾した失笑の理由も理解できず、薄氷の瞳に鋭い光を灯す蛍へ深月は穏やかに答える。
「君は自身の囚われているこの場所が果たしてどこなのかも分かっていない。さらに仲間との連絡手段も、僕に抗う武器すら手にしていない。しかも、君の命を握っている……"大切な身内"の皮を被った殺人鬼が目の前にいる」
「……っ」
「そんな絶望的としか言えない状況でも尚、君の瞳も心も曇りなく澄んだ氷のように美しい……」
深月の言うとおり、蛍の置かれた現状は絶望と"死"の淵にあるも同然。
それでも尚、蛍が自分でも想像以上に冷静沈着な姿勢を保っていられる理由は明白だった。
蛍を映す無垢な眼差しには"殺意"の色が、ほぼまるで――。
「はっきり質問に答えなさい。黒沢刑事官は無事なの?」
「彼なら今、別の所で休んでもらっている。安心するといい。彼はちゃんと生かしているよ。これからも、暫くの間は」
今も人質ととして囚われている黒沢は"生きている"。
深月の言葉は嘘でないことを心の底から祈った。
「そう……もし、黒沢刑事官に何かあった時、私は決して容赦はしない」
己を守り、敵を封じる拳銃も武器も持たぬ今、代わりに強い意志で深月を睨み返す。
恐怖も動揺も含め、刑事官としての正義と使命感、覚悟を氷の刃さながらの眼差しで。
「……ああ、君は今でも美しい。やはり、君はそうでなくては」
一方深月は、恐怖と絶望に屈しようとしない蛍の冷凛とした姿を"美しい"、と称賛した。
ソファで優雅に紅茶を嗜んでいた深月は遂にカップを置いて立ち上がる。
見知らぬ個室の窓際に退避している蛍のもとへ悠々と歩み寄ってきた。
冷徹な刑事官の表情をした蛍の眼差しや佇まいに動じる気配もなく。
「香坂刑事官の次は、私を殺すつもり? でも、拳銃も持っていないからとあまく見ないで。私は――」
手を伸ばせば触れ合えるくらいまで距離を詰めてきた深月に、蛍は両手足へ力を込めて身構える。
深月が指先一つでも微動させた時点で、いつでも反撃できるように。
蛍自身には体術・キックボクシングというもう一つの武器があるのだ。
「僕は、蛍を殺さないよ――君が君として在り続ける限り。きっとこの先も、ないだろうね」
「君は殺さない」――幼子を愛おしむような優しい微笑み、嘘も悪意もない澄んだ声で深月はハッキリと零した。
途端、蛍の体内を奔流していた凍てつくような緊張、燃えるような戦意を急速に奪われた気がした。
謎めいた言い回しをする所は昔と変わらない。
ただ、確信に満ちた声と眼差しからは嘘や惑わしは不思議と嘘を感じなかった。
「……? どういう意味なの」
それでも、虚無と愉悦が不吉に耀く瞳は蛍の緊張も怯えも―― その先に秘めた"複雑な感情"すら全て見透かし、愉しむ悪質さも感じ取った蛍は負けじと相手を睨み続ける。
「万が一、そんなことがあるとすれば、それは……蛍が僕を"殺す"ときだろう――」
私が、深月兄さんを、殺すとき――?
「だが、君は決して"僕を殺せない"――」
かつて、叡智の天使さながらの深月を無邪気に敬愛し、崇拝すらしていた頃よりは多少賢くなったつもりだ。
それでも現在の蛍ですら、目の前の深月の真意がまったく読めず、ただ言葉を失った。
しかも、"蛍が深月義兄を殺す"という、蛍にとって到底有り得ざる選択を告げた後で、「君には絶対無理だ」、と彼は断言した。
万が一、蛍が深月へ殺意を抱く 仮定の話、と深月が蛍を殺すことは如何に結びついてくるのか。
"殺られそうになったら殺り返す"という単純な意味合いを超えた深く、おぞましい気配を感じた。
「……深月義兄さんは、一体何が"目的"なの? 何故、義兄さんがこんな……連続猟奇殺人事件へ関わることになってしまったの……?」
現時点で辛うじて理解できるのは、今目の前の深月からは蛍への殺意が一切ないことのみ。
たとえ、昔と変わらないようで何もかもが変わってしまった―― もしくは過去と現在のどちらかが瑞夢か悪夢だったのか、と絶望したくなるほど、今の義兄は死と血のニオイを濃く纏っていても。
「その答えは、蛍自身の力があれば、おのずと辿り着けるだろう。前にも言ったはずだ。僕は蛍を信じている、と」
昔と変わらない慈愛に澄んだ眼差しで真っ直ぐ見つめられると、胸が懐かしい切なさに燃え疼く。
しかし、「君は決して僕を殺せない」、という甘美でおぞましい言葉は、蛍の心へ冷たく、重く響き渡った。
幸福な過去の記憶で塗り固めた"呪い"のように―― 。
「僕の"永年の悲願"を果たす頃、僕は必ず君を―― 」
深月は蛍の問いには決して答えなかった。
代わりに、近い未来を見透す敬虔な予言者さながら静かな歓喜と期待を告げた。
恍惚の熱に浮かされたような調子とは裏腹に、深月は北風さながら突如蛍の目前へ迫ってきた。
反射的に蛍の拳と片膝は深月めがけて素早く伸びた。
しかし、たおやかな白い両手は蛍の片腕と片膝を間髪入れずに受け止めた。
蛍を労るような手付きはそのままで。
そんな、びくともしない――!?
いくら蛍なりに渾身の力を込めても、深月は涼しげな微笑みを崩さなかった。
やがて数秒も経たずして、蛍の力が雪解けさながら急激に尽きてゆく。
単なる男女差では説明のつかない圧倒的な"力の差"を前に、蛍は愕然と立ち尽くす。
一方深月は、双眸を見開く蛍を愉しそうに見下ろすと、彼女の耳元に囁きかけてきた。
「僕が君だけに捧げる"メッセージ"――その全ての意味を蛍ならきっと理解ってくれる。僕は期待しているよ」
いつの間にか、蛍は深月の懐へ飛び込むような姿勢で抱き竦められていた。
慌てて離れようともがいてみたが、やはり腕の中から抜け出す隙すらなかった。
完全に逃げ場を失った蛍が本能的危機を察知した所で、時既に遅し。
「待って! 深月義兄さ――」
「また会おう、蛍。近い内、刑事官として君自ら望んで僕のもとへ必ず来る。その瞬間を心待ちにしているよ」
雪のように優しくも底冷えするような声で甘く囁かれた直後。
甘く独特な芳香に濡れた布が、蛍の鼻と口を覆った。
途端、蛍は抗い難い睡魔へ引き摺り込まれた。
しまった――レギンの時と同じ――っ。
深月に先手を打たれた時点で、蛍はどう足掻いても逃れられぬ蜘蛛の巣の蝶も同然。
今回の事件の"鍵"を握る深月・斎賀を取り押さえるどころか、彼の目的も「あの日」の真相を確かめることすらできず。
意識と身動きを封じられ、またしてもしくじってしまった己の非力さに蛍は無念を覚えた。
もう一度、深月の名を叫ぶことすらできない代わりに蛍は片指先を必死に伸ばしのが精一杯だった。
「久しぶりに、君と過ごしたこの三日間……僕にとって、何にも代え難い幸福だったよ。どうか今暫くは、安らかにおやすみ」
己の懐で最後までもがく蛍を抱きしめている深月は、自分より小さいままの背中を優しく撫でた。
そして、心の底から満たされたような夢心地に微笑んでいるのが何となく伝わってきた。
「" "しているよ――蛍」
意識が完全の闇へ沈む寸前――懐かしい幸せと痛みに、思わず泣きたくなるのを堪えた。
神聖な響きであり、同時に甘い"呪い"を意味する言葉に心臓は灼けるように痛かった。
蛍と深月だけが知っている――。
***次回へ続く***




