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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第1章『猟奇殺人事件追跡編』
24/77

其ノ九『雪月の深淵に沈む者』①

 清らかな雪に包まれるように優しくて冷たい。

 それでいて、凍えた体に温かいミルクがしみ渡る時と似た、甘い夢心地のぬくもりに微睡(まどろ)む。

 華奢な蛍を抱擁する広い胸。

 漆黒の髪を丁寧に撫でる指先。

 蛍に触れてくる"何か"には、冷たい雪にも熱いミルクにもない、静穏な感情が宿っている。


 誰――? とても温かくて、懐かしい――それでいて、胸が異様に切なく疼いた。

 清浄な雪原から芽吹いた花のように儚く震える体。

 冬の朝陽を浴びるようにどこか清々しい目覚めと共に、蛍は双眸をゆっくり上げた。

 雪色の滑らかな布地が、()の視界に映る。

 清々しい微睡みから緩慢に覚めていく意識に合わせて、蛍は上肢を起こそうとした寸前。


 「()()()()――蛍。気分はどうだい?」


 目の前の存在が蛍の名前を囁いた。

 切なくなるほどの懐かしさ、氷砂糖さながら甘く澄んだ声。

 しかし今の蛍には、長年待ち焦がれた相手の呼び声に湧いてくるはずの歓喜を感じられなかった。

 霞の意識から未だ完全に覚めない中、蛍は自分を包み込んでいる相手の顔を見上げた。

 相手は焦点が未だ朧な蛍の瞳を、じっと覗き込む。

 そして、ひどく満足そうな微笑みで緩んだ目尻と唇の輪郭を捉えることができた。


 「……深月、兄さん……?」


 数年前と何も変わっていない――雪のように淡くも、鮮やかな存在感を醸す義兄・深月の微笑みに迎えられる。

 白百合色に艶めく絹製(シルク)の寝台で、蛍と深月は寄り添い合って横たわっていた。

 ()()()()どれほどの時間は経ったのか不明だが、蛍は深い眠りに沈んでいた自覚はあった。


 「君の様子から、"微睡みの海"からは未だ完全に上陸していないね。お茶でも淹れてこよう」


 お茶を淹れるために寝台からさりげなく離れていく義兄。

 以前より広くなったその背中を茫然と見送りながら、蛍は霞の眼差しのまま自分の姿と周囲を観察する。

 今の蛍は潜入捜査服の代わりに、足首まで隠れる長丈衣(ロングカットソー)を着ている。

 恐らく、蛍が意識を失っている間に深月が着替えさせた可能性は高い。


 「林檎紅茶を淹れたんだ。目覚めと弛緩(リラックス)効果があるからね」


 一方、独り言か否か判別のつかやい口調で呟く深月も軽装だった。

 蛍が着ているのと似た純白の長丈衣の裾を臀部下で揺らし、明薄茶(ベージュ)色のチノパンツを履いている。

 昔と変わらず慣れた手付きでティーポットに紅茶を淹れていく、義兄の優雅な後ろ姿を眺めてから、視線を移した。

 十二畳ほどの広い洋室には、白百合色の寝台の他にも、高級そうな家具調度品が揃っていた。

 団栗(どんぐり)色に艶めく円盤状の百年もの(アンティーク)卓状(テーブル)には、白百合を生けた硝子花瓶。

 大人一人ずつで丁度良く座れる臙脂(えんじ)色のベルベッドソファ二つ。

 雪霜色の花柄地の壁に建て付けられた本棚には、義兄の懐かしい愛読書。

 幼少期に過ごした斎賀家の屋敷の一部をさりげなく再現しているようだ。


 「蛍はココアが好きだけれど、朝は林檎紅茶を好んでいたね」


 爽やかな甘い林檎の香る紅茶を注いだ白磁のティーポット、と揃いのティーカップ二人分をお盆に乗せた義兄は懐かしげに微笑む。


 「え、ええ」


 突如話を振られた蛍は、自分でも戸惑いを隠せない弱々しい返事を零した。

 一方、紅茶一式を卓上へ置いた深月は舞い降る雪のように流麗な動作で蛍の手を優しく取った。

 困惑で瞬きをする蛍の背中を支えて寝台からそっと起こし、立ち上がった彼女をソファへ丁寧に付き添い(エスコート)をした。

 深月の紳士的な対応に蛍は胸が妙にくすぐったい一方で、空寒いものも感じた。


 「蛍は、随分と大きくなったね。それに……以前にも増して、美しくなった」

 「……えっと……?」


 やはり何もかもがオカシイ――夢のような錯覚に陥りそうだ。

 本来、エクリプス区の秘密地下へ誘導された蛍は、連続猟奇殺人事件の真犯人を追っていたはずだ。

 それが何故、斎賀の実家に酷似した謎の洋室にいるのか。

 しかも、数年間も行方不明だったが音声越しに無事を確認できた義兄は、当たり前のように姿を現したのか。

 まるで、幼少期と変わらぬ穏やかな朝を二人きりで迎えて。

 目が覚めた瞬間、自分は過去の夢にいると錯覚しかけた。

 しかし、数年前よりずっと大人へ成長した互いの肉体、蛍自身が体の節々と時折、頭の奥で軋む"痛み"が現実を訴えていた。

 目の前の夢現にどう反応すべきか内心困窮する蛍を他所に、深月も対面のソファへ腰掛けた。

 深月は優美に微笑みながら各自のティーカップへ林檎紅茶を注ぐ。

 心無しか、今までになく上機嫌にも見える。


 「いざこうして再び会ってみて……やはり君は、あの頃から何も変わっていないようで、なによりだ」


 互いに向き合う形で座る中、蛍は向かいの席でカップを取る深月を観察する。

 澄んだ冬空を映す双眸を閉じて、林檎紅茶の芳香を静かに嗜む深月の姿。

 蛍も自然と手を添えた自分用のカップ越しの甘いぬくもり、澄んだ深い紅茶色の中身。

 双方を交互に凝視する蛍の眼差しに気付いてか、静粛に構えていた深月は、「安心すればいい。()()()()()()()()()」、と事無さげに呟いた。

 深月の台詞が事実なら安心していいはず。

 しかし、義兄の口から零れた思わぬ不穏な単語に蛍の胸に暗澹たる冷気が立ち込めていく。

 紅茶の水面に映る蛍の表情は冷凛としたまま。

 しかし、薄氷の瞳に隠した蛍の動揺や困惑、疑念すら全て手に取るように見透かしているらしい義兄の瞳はどこか愉しそうに映った。

 冬空色に澄んだ眼差しに見つめられ、居た堪れなくなった蛍は手中にあるカップへそっと口を付けた。

 甘酸っぱの優しく咲いた林檎の芳香、蜂蜜らしき瑞々しい甘味と共に体の芯まで温かく染み渡る。

 紅茶独自のコクと渋みからは、不自然な匂いも苦味もない。

 林檎紅茶に凝り固まった心が少しばかり解れたせいか、蛍も自然と言葉を零した。


 「……それを言うのなら、義兄さんだって変わっていない。背は伸びたみたいだけれど」


 数年ぶりに会った義兄は、本当にあの頃のままだ。

 冬の静寂を箱に閉じこめたような空間で、蛍は義兄を再び見つめながら思う。

 静謐の冬を彷彿させる瞳も、甘い雪のように柔和な微笑みも。

 明らかに変わったのは、数年前よりも成長した容貌だ。

 しなやかな筋肉に引き締まった長い手足。

 元から眉目秀麗な顔貌は、大人の精悍さと共に深く整っていた。

 ただ、少年が青年へ成長しただけではない。

 数年前以上に、天上の賢者さながら超然とした美しさと智性に深みが増していた。

 そんな義兄の貫禄に、蛍は不安と焦燥に渦巻いているはずの胸に、甘い疼きも燻っていくのを感じた。


 「お互い様だね。人間はある時期……一つは"思春期"前後を頂点(ピーク)に人格も行動様式も、ある程度安定していく。だから、この数年間における互いの"変化"はごく自然で不可避な現象だろうね」


 互いの"変容と不変"に対する安堵と寂寥の入り混じった複雑な眼差しと声で呟く深月。


 「……そういえば。髪、伸びたのね」


 一方の蛍も、上手く処理しきれない不安と疑念、わずかな歓喜の中、懐かしき義兄との何気ない会話を続けてみる。

 現在の双方を隔てる透明な"本質的問題"へ至るための試みとして――。

 深月の白銀の髪は後ろ襟足だけ腰辺りまで長く伸び、うなじ辺りで一つに結び留めている。

 最も目に付く変化の一つへ着目された深月の双眸は、ひどく満足そうに細められた。

 まさに、琴線に触れられた歓喜を隠せない屈託のない微笑みに次いで紡がれた台詞に蛍は目を見開くことになる。


 「そうだよ。たとえ離れていても……いつでも、()()()()()()()()()()()()()()()、ね」


 甘く囁くように紡がれた言葉に、蛍は歓喜以上に、言いようのない不安と寒気に震えた。

 甘い芳香と清らかな美しさと甘い芳香で相手を誘う、猛毒を孕んだ花を()んだような。


 「……どういう、意味……?」

 「ところで、蛍の方こそ、どうして髪を切ったんだい?」


 一方で深月の瞳は、数年を経て美しい大人の女性へ羽化した義妹の姿は鮮明に映している。

 白磁のような白い手は、"境界線"を易々と越えて蛍の方へと伸びた。

 蛍の肩で揺れる黒髪を撫で梳く触れる指先。

 慈しむような優しい触れ方に、神経の通っていないはずの髪の先くら頭の天辺は不思議と熱を帯びてきた。


 「今の髪型も、大人っぽくなった君によく似合っている。でも、蛍の綺麗な長い髪も、僕はずっと好きだったから少しだけ名残惜しい。なぜ、切ろうと思ったんだい?」


 蛍の全てを見つめる瞳は以前と変わらず慈しみに澄み渡っている。

 しかし、昔にはなかった甘く煮詰めた酒のように酔いしれた熱を灯した視線に蛍は目眩まで覚える。

 まさに、()()()()()()に一度だけ垣間見たあの――。

 心臓は燃えるように熱いのに、手足は凍りついたように動けない蛍はただ、深月に圧倒されていた。

 辛うじて、脳と唇だけは動ける蛍は深月の質問を額面的に理解し、真っ当な返答を淡々と零した。


 「それは。単に仕事上、短い方が動きやすかったから……」

 「それとも、僕のことを、そんなに――()()()()()()のかい……?」


 いつの間にか離れていた深月の指先を思わず追った先には、無垢に微笑む瞳が見えた。

 二人の間にはどちらか手を伸ばさねば、触れ合えない距離が生じている。

 しかし、深月の優しくも冷たい声色に含みを孕んだ言葉に蛍は耳許で囁かれたような甘い寒気に震えた。


 「そんなこと、ないわ……」


 蛍は自分でも震えているのは明らかな声で零した否定こそ、深月の言葉を肯定していた。

 蛍の動揺を隠せない眼差しから図星だ、と確信した深月は無垢な笑みを一層深めた。

 蛍の"ナカ"を奔流する本能的な恐怖心も、その深淵に燻っている"炎の感情"も全て見透かすように。


 「そうだろうか。蛍は髪をずっと伸ばし、いつも大切に扱っていた。蛍の髪を、僕が好きだからだ、と。そう言って、君はいつも嬉しそうに笑っていた」


 いつの間にか、深月は蛍と肩の触れ合う距離まで詰めていた。

 軽く(かが)んだ深月の目線、と凍直している蛍の眼差しは合わせ鏡のように映り合う。

 さらに深月は伸ばした両手で蛍の両頬を柔らかな黒髪ごと包み込んだ。


 「だが、長い髪を見ていると、僕のことを思い出すあまり、どうしても辛くなった……違うかい?」

 「っ……! 違う、私は」


 まるで、子どもをあやすような優しい表情と手付きに蛍は何となく癪に触ったが、その手を払い除ける気概が湧いてこなかった。

 深月から目を離せないまま、蛍はただされるがまま"心の核心"へと触れられていく。


 「()()()()から、忘れる(抑圧する)――フロイトの言葉だよ。だから、髪を切ったんじゃないか? 僕のことを、忘れるために――」

 「そんなわけないでしょう!?」


 蛍が心の奥底へ沈めたままにした"傷も痛み"も容赦なく抉り突いてくる。

 氷砂糖のように甘くも、容赦のない言葉で冷ややかなに。

 心を揺さぶられている自分を眺め、弄び、愉しんですら見える深月の謎めいた言動。

 遂に蛍は怒りの炎で熔けて暴かれた"感情"を叫んだ。

 昔から深月義兄さんはいつも()()()()()

 己の感情も思考も、秘めた恐怖や痛みすら、義兄の瞳の前には全て透明となる。

 義兄は自分の何もかもを理解したうえで、ただ受け入れてくれた。

 かつての幼い自分にとって大きな救いと安らぎであった義兄の慧眼と寛容さ。

 それらを今ほど憎たらしく感じたことは、今まで一度もなかった。

 悔しいことに、深月の言葉はある意味、()()()()()


 「私がずっと、本当は義兄さんを、どれだけ心配したと思って――っ!」


 ()()()――深月義兄さんは私へ何一つ告げずに忽然と姿を消した瞬間。

 残酷な現実と喪失感に打ちひしがれ、孤独と苦痛に耐えきれなかった私がとっさに願ったのは――義兄の存在を"忘れる"ことだった。

 最も手っ取り早い手段として、私は長い髪をバッサリ切り落とした。

 いつも綺麗で好きだ、と褒めてくれた義兄のために伸ばしてきた長い髪を……義兄への思慕、そこから生まれる寂寥感(せきりょうかんと共に無くしたかった。

 自分の長い髪を眺める度に、いつも頭を優しく撫で、髪を梳いてくれた義兄の温もりと微笑みを思い出してしまうから。

 もう一度、自分に触れてほしい、笑いかけてほしいと、どれほど願っても叶わない現実に虚しくてたまらなかったから。

 優しかったお義父さんとお義母さんが()()()()()()()()、義兄は「ずっと蛍の傍にいる」、と約束してくれた。

 なのに()()()、結局また私は独りになった。

 私を置いてどこかへ消えてしまった深月兄さんを、私はずっと――。


 「"裏切られた"――そんなふうに()()()()()、しかたがないと思ったよ」


 初めて憂いに揺らぐ双眸を伏せる深月。

 当時を振り返りながら零した、謝罪らしき言葉。

 無自覚か否か、嘘偽りを感じさせない態度すら蛍の心を逆撫でした。

 そのせいか、あの夜の記憶の断片的は蛍の脳裏へ蘇ってきた。


 「あの日の夜、蛍には本当に申し訳ないことをした。ずっと僕は心から悔やんでいたよ。蛍……」

 「なら、ちゃんと説明して。どうしてあの日、何も言わずに姿を消したの? あの日、()()()()()()()()()()()()()()……!?」


 運命の()()()――仄暗い雲のたちこめる極寒の冬空の下。

 冷えた唇に灼きついた甘い熱の余韻。

 極寒の冬を圧倒した禍々しい猛炎に蹂躙されていく小さな屋敷。

 ただ、自分の想いを零すだけで肝心の"真実"へ一向に触れない義兄に痺れを切らした蛍は詰め寄った。

 心の瘡蓋(かさぶた)に封じていた悲しみと失意は、切ない怒りとなって破れた場所から溢れ出てくる。


 「……本当に()()()()。だが、君にだけは理解(わか)ってほしい」


 一方、深月は蛍の怒りと困惑を理解している様子で、ただ謝った。

 幼少期ですら見なかった切なげな表情、澄んだ双眸で揺らめく罪悪感の色に、蛍の胸は別の痛みにざわめく。


 「あの日、どうしても僕は君のもとを去らなければならなかった。僕と蛍が……()()()()()()()()()()()()()

 「どういう、ことなの……?」


 あの夜、深月が蛍に黙って姿を消した理由――"(自分)と一緒にいるため"に必要な事だった?矛盾した言葉の真意は測り知れず、蛍は困惑を隠せない。

 ただ、どこか異様な現状に置かれても察し得たのは、唯一つ。

 当時の深月自身は、決して望んで蛍を置いていったのではない事。

 甘く切なげな眼差し、優しく添えられた指先の温もりからも、蛍への愛情と優しさに満ちている。


 「……僕にとっても、この数年間は本当に長かった。()()が全て整うまで、想定以上に時間はかかった」


 苦悩と歓喜に震える声から、真摯な想いは伝わってきた。


 深月自身も、きっと蛍と同等の寂しさと喪失を感じながら時を待ち侘びていたのかもしれない。

 光も祈りすら届かない暗い場所(エクリプス区地下)で、蛍だけに想いを馳せ、彼女の存在を心の支えに――。

 義兄の身に起きた出来事も深い事情も未だ聞けていない。

 あの暗く湿った地下で彼が見てきたものも、いかに過酷な環境下にいたのかも。

 エクリプス区の寂れた景色と共に義兄の心へ想いを寄せると、これ以上義兄を責めることはできない。

 双眸の奥が熱くなっていく蛍を他所に、深月は感慨深そうに言葉を続けた。


 「でも、それも()()()()()()()。ようやく、報われる時が来たん。ああ、ただ困ったな……」

 「……? どういう、意味なの? 兄さん……」

 「でも……こればかりは、暫くの間、君を置いてきた僕にも責任があることだが……」


 悲痛に伏せた表情から一転して、深月の瞳に虚ろな光が灯っていた。

 痛みも切なさも失せ、それ以外の感情の読めない眼差しに射抜かれた蛍は謎の悪寒に襲われた。


 「数年前、蛍は警察になる夢を叶えた。僕を失ってからも、君は健気に研鑽を怠らず、今は立派な刑事官として"新たな人生"を歩んでいる。それは誉れ高きことだ。それに……」


 深月の柔らかな口調からも、蛍のを心から誇らしく思っているのは伝わってきた。

 しかし、作り物めいた微笑みのせいか、どことなく居心地の悪さを覚えた。

 まるで、責められている時と似た――。


 「ベテラン刑事官の君を傍で支え、愛情を注いでくれる献身的な()()まで、できたようだね?」


 深月の唇から何気なく零れた言葉。

 心臓を氷柱で撫でられたような錯覚に、ヒュッと吸った息が喉から肺を冷やした。


 「確か名前は、光・藤堂刑事官、だったね。一般市民と同僚想いの誠実で正義感に溢れている。巷ではかなり評判の良い優秀な刑事官……蛍に()()()()男だ」


 新人時代の蛍は唯一の家族を失った寂寥感を振り払うべく、仕事へ打ち込んでいた。

 我が身を追い込む中、光は最初から蛍を傍で気にかけ、やがて愛してくれるようになった。

 恋人となった光との安穏な生活は、蛍にとって久しくも新鮮で、大切なものだ。

 数年以上も音沙汰のなかった義兄は、何故蛍の恋人の存在を知っているのか。

 しかも、光の名前を含めた事細かな情報を把握している。


 「兄さん、どうして、光の、ことを」


 ただ素朴な疑問を投げた自分の声は滑稽なほど震えていた。

 心臓から脳髄まで侵し始めた異様な寒気は声帯すら麻痺させたのか。


 「最近知り合った"友人"から教えてもらったんだよ。名前はね、()()()()君――蛍も、よく知っている人だろう?」


 蛍にとっては光の次に馴染み深い人物の名前。

 何の繋がりすら見えてこない黒沢の存在を深月が、しかも"友人"と親しみを込めて言及するとは。

 動揺に弾かれた表情で凍りつく蛍の鼓動は、痛みと共に加速していく。

 深月の言葉をなぞれば、二人が友人になった経緯も不明だが、黒沢の行方と安否を確認する手がかりを見つけた。

 しかし、黒沢に関する情報を目の前の深月から深掘りして問う勇気が今の蛍にはなかった。


 .

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