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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第1章『猟奇殺人事件追跡編』
21/77

Interval⑥

 純雪の冬へ舞い降りた天使のような存在。

 蛍という幼き命を祝福し、守護する無垢なる慈愛。


 「(お義兄ちゃんは、私にいつも優しいだけじゃない……私を傷つけるもの全てから、お義兄ちゃんはいつも守ってくれる……)」


 どこまでも優しい深月へ灯り始めた揺るぎない信頼と愛情、憧憬。

 同じく蛍へ優しく接してくれる人達も最近増えた。

 けれど、斎賀義父母や彼女を保護した福祉士へ向けるのとはまた異なる"感情"は、蛍の心へさらに深く、鮮やかになっていく――降り積もる雪のように。

 蛍の瞳よりも遥か先の深淵を見つめる深月。

 その広い背中へ追いつきたくて。

 彩りの物語と世界の秘密を、いつまでも教えてもらいたくて。

 義兄の瞳に映る世界を隣で一緒に見つめたくて。


 「まだ六歳でありながら、蛍の理解力には目を張るものがあるね」


 この家では二年目の秋陽に包まれていた別の或る日。

 蛍は心理学書の教授を義兄にねだっていた。

 いつものように、蛍は深月の膝上に座って共に本を開いていた。

 今日の題材は"無意識"仮説等で有名な精神分析家・「フロイト」だ。

 偉大なる先人の言葉を、深月は氷山の海底さながら含みを孕んだ調子で読み奏でる。

 気高く澄んだ詠みの調べに、蛍は今も聞き惚れていた。


 「そうかな……? だとしたら、お義兄ちゃんのおかげだよ。お義兄ちゃんの教え方は、いつも分かりやすくて、すごく楽しいから」


 蛍にとって、義兄との読書と勉強が日課と楽しみになって以降。

 独学では到底触れることの叶わなかった知識の宇宙――人間と世界の真理"を表す抽象的な概念を言葉の糸で織り成す「哲学」。

 そういったものを、蛍は幼くして自分なりに思案する知力を芽吹かせていた。

 複雑な文字の糸で編まれた抽象的概念を、より身近で分かりやすい言葉へ解いて教授してくれた義兄の賜物だ。


 「それでも、僕から見ても蛍は最も優秀な"生徒さん"と呼んでも過言ではないよ」

 「……あ、ありがとう……お義兄ちゃんに褒められると、一番嬉しい……」


 とはいえ、蛍自身が幼くして煌めかせる純真な感性、本来備わっていた高い理解力には義兄も感心していた。

 義兄に褒められる度に、蛍は太陽みたいな高揚感と誇らしさに熱く満たされた。


 「いや、蛍は本当に賢い子だ。蛍の心は、美しい感性が芽吹いているよ。それは……"哀しみに眠る美しさと幸福"を見出す慧瞳があると呼べる」

 「哀しみに、眠る、美しさと……幸福?」

 「そうだよ。"哀しみ"こそは、美しくて、愛しきもの――哀しみに涙するほどに、人はより強い感情を心臓に燃やす」


 甘い熱に酔いしれた眼差しで呟いた深月の声は恍惚と響き渡る。

 深月の零す"哀しみ"と"燃えるような感情"へ孕んだ特別な意味をちゃんと理解したい蛍は、真剣な眼差しで耳を傾ける。


 「強い感情の炎とは――人生の目的やいきがい、愛、幸福、憎しみ、何でもいい。それは強い原動力の炎となって、生きている人間を突き動かすんだ」

 「例えば、そう……人は何かを"失った時"になって、最も大切なものは何だったのか初めて知ることが多い。初めて気付いた大切なものを人はひたむきに愛し、慈しむ"幸福"へ、人間はようやく至る」

「たとえ、その炎が己の身も魂すら灰も遺さず灼き尽くすとしてもね――」


 哀しみにこそ生まれる、かけがえのない愛しさと幸せ。

 うっとりと奏でられた深月の言葉に、蛍は彼の「美しき()の物語」を甘やかな感覚と共に思い出した。


 「以前、蛍は言っていたね? シグルズとブリュンヒルドは、死後に再会できたのではないか、と――そこで初めて互いに"幸せ"になれたのではないか、と」


 やはり、深月も蛍と同じものを思い浮かべたらしい。

 無垢な冬空色の眼差しをすみれ色の本から蛍へ順番に向けながら、穏やかに問いかけてきた。


 「うん……悲しいことはいっぱいあったけど、同じ瞬間に一緒に逝けた。だから、きっと二人は天国でちゃんと和解して、幸せになれたと……そう信じたいな」


 生きている瞬間は決して身を結ばなかったとしても、二人の深い愛に嘘偽りはなかった。

 死後の世界だからこそ、呪い、罪、禁忌、罠――あらゆるしがらみから解放されて初めて二人は、"愛だけで"互いを()かし合えたのではないか。

 今振り返れば、我ながらご都合の良い解釈だ、と蛍は幼心に恥じらいを覚える。


 「そうだね……シグルズとブリュンヒルドの救い難い悲恋から、"希望の光"を手繰り寄せた蛍の感性は、宝物のように価値あるものだ」


 一方、当時の深月は幼い蛍の考え方を決して笑うことも馬鹿にすることもなく、真剣に聞いてくれた。

 むしろ、深月自身も今までになく双眸を輝かせてすら見えた反応に、幼い蛍は面映くも素直に嬉しかった。

 詩的な言葉で丁寧に紡がれた所感は美しくも、やはり難解に聞こえたが。


 「えぇっとぉ……やっぱり、私には未だ少しだけ難しいけれど、ありがとう……お義兄ちゃん。私、ブリュンヒルドとシグルズのお話、もう一度読みたくなってきちゃった」


 今日はフロイドの話から始まったが、最後は「シグルズとブリュンヒルドの物語」へ終結するのも、いつもの自然な流れだった。

 大好きな義兄と初めて読んだ『ヴォルスンガ・サーガ』は、蛍の一番お気に入りの本だ。

 多様な本を読み漁るようになってからも、蛍はお気に入りの本だけは義兄と一緒に読む。

 毎日、最後に必ず、飽くこともなく。


 「奇遇だね。僕もそう思ったよ、蛍」


 今となっては、"二人の"大切な物語を綴ったすみれ色の本を一緒に手に取って開いた。

 二人だけの秘密のように甘く、花のように美しく儚い悲恋の物語へ共に没入していく。

 この物語の内容そのものは当然、それを愛する深月の朗読へ耳を傾けるのも幸せだった。

 氷砂糖を一粒ずつ運ぶように、丁寧で甘やかに耳朶へ響き溶ける声に心臓が打ち震えるのだ。


 深月お義兄ちゃんも、蛍と同じ気持ちでいてくれること――それが何よりも嬉しくて、甘くて、"幸せ"。


 大好きな優しい義兄の傍にいられる。

 たったそれだけで、蛍は"幸せ"でたまらなかった。

 義兄と共に在る日々は、太陽を浴び、酸素を吸うのと同じくらい、大切で失い難いものとなった今。

 深月のいない日々も未来も、当時の蛍には到底想像できなかった。

 だから、義兄と二人きりで、二人ブリュンヒルドとシグルドの物語をいつまでも一緒に読む幸せが、いつまでも続いてほしい。

 蛍は幼心にひたむきな願いを抱いた。


 深月と出逢ったことで、幼い蛍の深淵に淡く灯った"炎"は激しく燃える。

 やがて、蛍の魂すら熔かし尽くさん勢いで――。

 しかし――二人の"運命"は既に決定づけられた。


 蛍と深月を愛しんでくれた斎賀夫妻――二人の庇護者の()()()()によって。


 そして、蛍と深月を引き裂いた――『冬の殺人火事件』によって。



 ***



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