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『ブリュンヒルドの心葬』  作者: 水澄
第1章『猟奇殺人事件追跡編』
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『狂闇の冬気』②

 「深月、義兄、さん――……」


 雪のように眩い白銀の髪と淡い肌。

 天使の彫刻を彷彿させる端麗な顔立ち。

 薄紅の花びらみたいな唇に咲いた優しい微笑み。

 智性に澄んだ冬空色の瞳に溶けるのは、自分への深い"慈愛"。


 深き冬の月夜に舞う雪のように、清廉で美しい存在――。


 周りは口揃えて義兄をそう称え、自身も強く同感だった。

 たとえ数年以上の年月を経ても、決して忘れるはずはない。

 驚愕で言葉を失っている蛍を、深月は懐かしい微笑みで見つめる。

 陰惨に血塗れた"死の気配"が充満したこの世界に不相応なほど、ただ無垢に。


 「っ……本当に、深月……義兄さん、なの……?」


 数年前に音沙汰もなく消えた深月義兄が目の前にいる。

 唯一()()()()大切な家族が、やっと生きて帰ってきてくれた。

 氷を溶かす熱い蜂蜜のような甘い歓喜を瞳と胸に宿さずにはいられない。

 凍りついていた唇をやっとの想いで動かした蛍は語りかける。


 「そう、僕だよ蛍。きっと、未だ信じられないだろうが、これは"夢"じゃない」


 反面、凍てつく冬に呑まれるような緊張と寒気に心臓が戦慄(わなな)くのも感じながら。

 蛍の歓喜と緊張を察してか、深月は柔らかな口調で答える。


 「君と僕が今ここへ伴に在る――まごうごとなき"現実"だよ」


 雪のように柔らかく、触れると瞬く間に溶け消える。

 どこか掴み所のない詩的な物言いも、蛍のよく知る義兄だ。

 脳と心臓へ奔流する勢いで蘇るのは、義兄と共に在った優しくて甘い日々の記憶と感情。


 「やっと、君に会えて嬉しいよ。"蛍"――」


 氷砂糖のように甘く透き通った声で名前を呼ばれるのも、懐かしくて心地良い。

 何もかもが全て変わっていない。

 敬愛なる義兄との再会に驚きと歓喜に打ち震える蛍へ、深月は優雅に両手を広げて歓待する。


 「……義兄さん」


 蛍の唇から零れたのは彼女自身の想像よりもか細い呼び声だった。

 数年前よりも逞しくなった広い胸と、優しい腕の中へ今すぐ飛び込みたかった。

 しかし、蛍の気持ちとは裏腹に彼女の手足は義兄へ向かって一歩も動けなかった。


 「……蛍……?」


 凍りついたまま一向に瞬きすらしない蛍を前に、深月は軽く首を傾げながら彼女を優しく覗き込む。

 深月の双眸に映る蛍は全身を微かに震わせており、彼女自身も自覚していた。

 蛍を打ち震えさせているものは、"感動の再会"による歓喜ではなかった。

 蛍の醸す不安定な気配を察してか否か、深月は彼女の方へ一歩だけ優しく踏み込んできた。


 「蛍。きっともう、君は"疲れた"んだろう……だから、後は全て()()()()()()()蛍は少しの間だけ、ゆっくり休んで――」


 怯える子どもへ歩み寄るような優しさで囁いてきた深月が、一瞬息を呑んだ気配を蛍は聞いた。

 手を伸ばせば触れ合えるほど真近にある深月の()()辺りへ押し当てられた無機質な感触。


 「っ――どうして……深月義兄さ……っ」


 本来は深月の口から出るはずの台詞は蛍の方から、それも異なる意味を込めて零れた。

 それでも尚、深月の柔和な微笑みが揺らぐことはなかった。

 むしろ、慈しみに澄ませて蛍を映している瞳瞳には、今までになく"恍惚(こうこつ)"と冷えた炎が灯っている。

 どこか異様な深月の佇まいに、蛍の心は冬雲さながら暗く凍てついていくのを感じた。

 一度は降ろしたはずの銃口が再び目の前へ向けられたまま震えている理由は、蛍の視線の先にあった。

 澄み雪のよう色白な深月の右手を染める"不吉の色"は、足元の灯によって鮮明に照らし出される。


 「()()()()、蛍。ずっと待たせてしまって、ごめんよ」


 耳朶を掠めた雪のような囁き声に、ハッと我へ返った蛍は思わず息を呑んだ。

 無垢な微笑みを咲かせた深月の顔は眼前にあった。

 雪のように流麗な動作で瞬く間に距離を詰めてきたせいか、咄嗟に反応できなかった。

 蛍の両手は拳銃を構えたままだが、深月は華奢な彼女をそのまま両腕に包み込む。

 冷たい汗に濡れた蛍の耳許を撫でるのは、雪のように冷えた柔らかい唇。


 「さあ、蛍は"今でも蛍のまま"なのかな……?」


 記憶に新しい甘く独特な香りが、鼻孔を掠めた瞬間。

 蛍の(まぶた)と手足はガクンッと重たくなった。

 朦朧と沈む意識の中、深月は何かを囁き続けているが、蛍の頭には届かない。


 ――何、よく聞こえない……よ、深月、義兄さ――。


 蛍は心身へ纏わりつく睡魔を必死に振り切ろうと手を伸ばす。

 すると朧月のように浮かぶ深月が蛍をあどけなく見下ろしている気がした。

 意識も立つ力も完全に崩れ落ちた蛍の体は軽々と横抱きに担がれた。


 「さあ、今すぐ帰って、()()()()()()()()……」


 昔から今まで大切に取って置いた宝物、"ずっと欲しかったもの"は、ようやく我が手中へ帰ってきた。

 今までにない充足感に満たされる深月。

 冬空の瞳には煌めくような至福を、薄紅の唇には愉悦を咲かせていた。

 意識を失った蛍を優しく抱きかかえた深月は、流麗な足音を奏でながら常闇を歩み始めた。

 二人きりで隔絶された"神聖なる呪しき深淵"へ、嬉々と姿を消していく。

 深月の白い外套(コート)の右(ポケット)へ沈んだ"鋭利な銀の耀き"。

 (ふところ)仄かに漂う匂いは、まさに持ち主の"本質"を香り立たせていた。

 赤い死と甘い毒の溶け合う"深淵の冬闇"の心を――。


 *


 遡ること、午後五時三十五分頃。光達がレギンを足止めしている間に、人質に囚われた黒沢刑事官の発見保護を目的に地下の先へ進んでいた二人の後輩刑事官。

 望月と相棒の香坂は、今まさに"絶望的な窮地"へ陥っていた。


 何故――一体どうして、"こんな状況(こと)"に――?


 二人は例の赤褐色の合金(アルミ)斜路(スロープ)を登って潜り抜けた洞穴へ入った。

 常闇に足元は小さな白熱灯で照らされた狭い通路を突き進んで行った二人は、正直拍子抜けした。

 今頃光達が対峙中の殺人鬼レギンと遭遇した場所とよく似た構造に赤褐色に照る別の広間へ着いた。

 唯一の違いは、こちらの広間の中央には地下水の浅瀬から天井へかけてそびえる"円柱"。

 柱は蜘蛛網状の鉄柵と床に隔てられた斜路の"中継路"の役割を為している点だ。

 小さな夕陽色の灯にぽつぽつと仄照る広間の左右にて。


 浅瀬から円柱の踊り場へ登れる斜路の左側を駆け登ったのは、相棒の香坂だった。

 臆病な自分に代わり、香坂は率先して円柱の上から広間全体を確かめに行ってくれた。

 望月も香坂へ続こうと己を奮い立たせた時には全てが"手遅れ"だった。

 鉄臭い浅瀬に足首の浸かった望月は、前方にそびえる中央柱へ拳銃を構えていた。

 一方、望月の視線と銃口の先には、中央柱の踊り場で立ち尽くす香坂がいた。

 互いを真っ直ぐ見据える二人は共にガタガタと全身を震わせていた。

 刑事官としての現場経験も未熟でありながら、後輩なりに望月も香坂も互いを激励しながら役目を果たしてきた。

 しかし、そんな二人の熱意や努力、勇敢さを嘲笑う悪魔は"現実"と"悪人"でもない、()()()()存在していたのだ――。

 香坂の両腕は《《手錠》》で拘束され、柱の手すりへ繋がれて身動きを封じられていた。


 「っ……けて……たすけ、てくれ……っ!」


 いつも不安の強い望月の手をそっと引いてくれた、紳士で勇敢な"香坂刑事官"は既に見る影もなく崩れていた。

 香坂が涙を浮かべた眼差しで必死に助けを求める相手は、柱の下から()()()()()()()()()()()望月だ。

 しかし香坂を今最も恐怖させているのは、背中に迫っている"死神"だ。

 漆黒の背広と純白の襟服(ワイシャツ)を貫通し、香坂の皮膚を掠めているのは冷たい"刃物"の先端。


 「さあ、今こそ"英断"の時だ。二名の勇敢なる若い刑事官達よ。君達の正義と信念の"強さと美しさ"を、この目で確かめさせておくれ――」


 背後から香坂を押さえつけている"三人目"の気配は泰然と告げる。

 男のもう片手に握る「折り畳み式カッターナイフ」の刃先は、彼の背中をスルスルと撫で上げる。

 どこか浮世離れした知性と美を醸す若い男性。

 突如、音も無く広間へ現れた謎の男性は、瞬く間に香坂を縛り上げて人質に取った。

 絶望に凍りつく望月と香坂とは反対に、謎の男性は二人へ語りかけ始めた。

 殺伐とした場面と己の行為にそぐわない、穏やかな微笑み咲かせて。


 「()()がここへ来てくれるのを待つ間――ちょっとした遊戯(ゲーム)をするんだ」


 冬夜のように冷ややかな(くら)い高揚を孕んだ声で奏でられた提案は、"死刑宣告"さながらおぞましく響いた。

 先輩達が足止めしている"殺人鬼"とは対照的で、むしろ純粋無垢な"聖者"のように美しく穏やかだ。

 しかし、望月と香坂は知らなかった。

 聖人を聖人たらしめるのは、超人的(カリスマ)な博愛の慈悲や強靭な精神、揺るぎなき信仰心だけではなく、"もう一つ"の要素が存在することを。

 

 「っ……嘘でしょう!? そんなの……選べるはずないじゃない……!!」


 聖人然とした男の出した提案に、望月は当然の拒絶を叫んだ。

 何故なら男の持ちかけた遊戯は、望月にとって"究極の選択"を迫るものだった。

 しかも、男が「十秒」数え終えるまでの間に。


 「っ……望月刑事官! この男の口車にも、くだらない遊戯にも乗せられるな!」


 望月が選ばなければならないのは、ただ一つ。

 隠し地下の何処かで今も捕らわれている黒沢刑事官。

 男に刃物を突き立てられている香坂刑事官。


 ()()()()()()()()()()()――。


 遊戯の趣旨は至って単純明快(シンプル)

 黒沢の命を選べば、香坂の命は目の前で散る。逆も然り。

 一人の命を救うために、もう片方の命を見殺しにする。

 しかも、黒沢も香坂も普段から信頼し合い、共に協力して困難を乗り越えてきた"仲間"に選ばせるとは。

 理不尽で残酷な遊戯、先輩と相棒の命は自分へ委ねられた恐怖と重圧に、たまらず望月は涙を浮かべて全身を戦慄かせる。


 「お前、先ずは()()()()()()()()()という"証拠"を見せ――」


 一方、香坂は勇敢に声を絞り出して望月を激励し、背後の男にも交渉のような形で精一杯抗おうとした。

 理不尽な「死の遊戯」は、二人を翻弄する目的のハッタリである可能性も否めない。

 先手として、黒沢刑事官の生存の証明と保障を示させ、言質を取りたかった。

 一方、男が「そうか……」、と心底興醒めした声を小さく漏らしたかと思った瞬間。


 「ぐっ――あぁ……っ!」

 「香坂刑事官――っ!!」


 小さな血飛沫と痛みに悶絶する悲鳴は、虚空へほとばしった。

 香坂が言葉を紡ぎ終える寸前、男は香坂の右頬を鋭い刃物(カッターナイフ)で勢いよく切りつけた。

 男の躊躇ない行動と氷のような眼差しに、香坂と望月は自分達の"甘さ"を思い知らされた。


 「最初に人質の生存を確信するのは賢明な判断だね。だが、勘違いしないでほしい。君達へ求めているものも、僕の"目的"も別々にあるんだ」


 当然ながら遊戯に乗り気でない望月と香坂へ釘を指すように、男はあくまで爽やかに微笑みながら告げた。


 「親愛なる黒沢刑事官は生きているのか否か。どちらを信じたうえで、どちらの命を取って捨てるのか。今ここにおいては、全て君の選択次第で、僕はこの男を迷いなく()()()。それだけの話だ」


 これは遊戯でありながらも、決して冗談やお巫山戯(ふざけ)ではない、命を賭けた"本気"なのだ、と。

 痺れ疼くような痛みを伴って迫り来る死の恐怖に、香坂の顔は右頬の出血と涙で濡れていく。

 香坂の悶絶する姿、彼から下へ滴る鮮血に、望月も血の気が引いていく。


 「っ……! 今すぐ、香坂君を放しなさい! さもないと……」


 男へ強気に激昂した望月は銃口を真っ直ぐ向けた。

 望月は自分なりに精一杯抗いたかった。

 正気の沙汰とは思えない目の前の哲人気取りな犯罪者へ屈するものか、と。

 目の前の相棒も、生存も知れぬ先輩もどちらも守りたいから。


 「なるほど。それも賢明で勇敢な判断だ。僕を撃つというのなら、()()()()()


 しかし、聖なる美を被った狂った犯罪者は、たった一弾で命を奪う正義の鉛玉を恐れすらしなかった。

 今回も決してハッタリや強がりではない男の予想範疇を超えた台詞に、二人は凍りついた。


 「簡単な話じゃないか。仲間を二人まとめて救いたければ、僕を撃てばいい。頭、首、左胸、肺。急所ならどこを狙っても、僕の命を確実に摘み取れるさ」

 「そんな、こと。でも……」

 「正義のため……とはいえ、人間一人の命を奪うのは、怖いかい?」


 男は歓迎の微笑みすら咲かせて、全てを委ねようとする。


 「さあ、僕を殺してみせろ――」


 望月の精一杯の勇気を嘲笑い、彼女の『正義に反する正義』を踏みにじるように。

 この男は、自分達の理解の範疇には到底及ばない思考の主。

 まさに何かを超越した畏怖の存在――見目麗しい聖人を被った無垢でおぞましい怪物と対面しているような威圧感。

 もはや、望月も香坂も心から身体の芯まで凍てつく恐怖に、"全ての終わり"を悟ってしまった。

 確かに男の言う通りかもしれない。

 香坂の命を確実に救いたければ、男を迷いなく撃てばいい。

 しかも、相手は両手を広げて命の急所を無防備に晒している。

 目の前の狂った犯罪者を撃てば、全てが解決する。


 「そんなこと……できない……っ。お願い、香坂刑事官を解放して!」


 しかし、望月は刑事官になってからわずか一年程度の若輩者。

 しかも、望月は銃で犯罪者(ひと)を撃った経験は一度もない。

 本当は怖いし、極力撃ちたくはないのが本音だ。


 「なら、黒沢刑事官は殺そう。それでいいんだね?」

 「それも、いや……! そんなの、黒沢先輩も、殺せない……! どちらも選べない……!」


 決して選べるはずがない。

 目の前で助けを求めている、常に励まし合ってきた大切な相棒。

 いつも自分達を導いてくれた面倒見の良い先輩。

 望月にとって、どちらもかけがえのない存在だ。


 「一……ニ……」

 「あぁあぁ……! やめろ……っ」


 しかし、死の刻限(カウントダウン)を歌い始めた男は再び手を振り下ろした。

 高級な木材に覆われた折りたたみ式のカッターナイフ。

 待ち受ける死の痛みと恐怖に震える香坂の衣服を、男は端っこからビリビリ切り裂いていく。

 紙を夢中で引き千切る子どものように、少しずつ、執拗に。

 香坂は恐怖の絶頂からか、未だ二度目の裂傷も出血もしてない時点で痛ましい悲鳴をあげた。


 「三……四……もうすぐだ……」


 切り裂かれた布から露わになるのは、水風船さながら薄い皮膚―― その下に隠れた細長い血管と血液へ引き寄せられるように、鋭い刃先が冷たく食い込む。

 残酷なまでに美しい声は、二人を無情に追い詰める。


 「やめてくれ……っ……たすけ、て……望月っ」

 「もう、やめて……! あなたは一体、何なの……どうして、こんなことをするの!?」


 一方、冷然に澄んだ瞳は香坂と望月の姿をこれっぽっちも映っていなかった。

 それどころか、男は空虚な微笑みを浮かべながら彼方の次元を眺めていた。

 まるで手持ち無沙汰の子どもが遊びに興じながら、"何か"を待ち焦がれるように。


 「五……彼女は……()は、僕の所へ来てくれる……」


 望月と香坂にとって、尊敬と憧憬を湧き上がらせる響きを両者は聞き逃さなかった。

 薄紅の唇が不意に奏でた名前には、異様な優しさと親しげな声色を宿していた。

 男の正体も名前すら知らないし、今日初めて会ったはずの人物が、何故もう一人の先輩を知っているのか。

 しかも、下の名前である"蛍"を心から愛おしそうに零して――。

 望月は心身を圧し潰す恐怖と息苦しさの中、率直に浮かんだ疑問をたまらず男へぶつけた。問い詰め


 「っ……何故、あなたが櫻井刑事官……蛍先輩のことを知っているの!? もうすぐここへ来るって、どういうこと!?」

 「六……七……」

 「答えなさいよ!」


 しかし、男は望月の声すら聞いていない様子で刻限を冷然と唱え続ける。

 恍惚とした眼差しで遠くを見つめる男は、もはや望月と香坂の存在には一瞥すらくれなかった。

 ひたすら、香坂を衣服からその下の皮膚へ徐々に刃を入れていく。


 「……ほら、もう時間がないよ? ……八……君はどちらを救い、どちらを殺すのかな……?」

 「も、望月……! 助けてくれ! 俺、やっぱり、まだ死にたくない……!」


 無残に切り裂かれた布へ、真紅の斑が染み渡っていく。

 刻限の終わりが近付くにつれて、香坂は身を捩って暴れる。

 冷たい手錠に繋がれた両手足首からも、赤い血が痛々しく滲む。

 香坂が激しく抵抗すればするほど、無慈悲な刃は彼の無防備な皮膚へ赤い筋を幾つも刻んでいく。

 聖人然とした狂人の始めた死の遊戯によって、二人は誇り高き刑事官から"儚くちっぽけな人間"へ貶められた。


 「九……さあ、選ぶんだ……命の重みを――魂の心髄を、その身に受け止めながら」


 死の刻限まで残り一つへ迫った瞬間。

 男は薄い皮膚に隔てられた香坂の首筋を刃先で撫で上げた。

 同時にカッターナイフの位置は動かさずに、男は自らの両腕を左右へ翼のように広げた。

 薄い皮膚と衣類に覆われた己の左胸辺り――命の急所たる心臓へ無防備に指を差した。

 まさに「ひと思いにやれ」、と望月を挑発するように。


 「十――……」


 氷雪のように澄んだ声が最後の数字の音を奏で終える寸前――赤のほとばしる不吉な水音へ、一発の"銃声"が交錯した。

 焦げ臭い硝煙を立ち昇らせる銃口。

 望月は鉄の香る真紅が滴る頭上を呆然と見上げた。


 「香……坂、刑事官……?」


 愕然と凍てついた二つの視線は昏く溶け合った瞬間。 


 「望……月……っ」


 絶望に淀んだ血涙は望月の虚ろな瞳へ落ちた。

 十を数え終える寸前、カッターナイフを引こうとした男めがけて、望月は銃弾を撃ち放った。

 しかし、望月が"迷った"時点で全ては()()()だった。


 「――()()()()()、興ざめな顛末(てんまつ)だ」


 男の端麗な顔の横から大幅に逸れた銃弾。

 深淵を覗き込むような冷めた眼差しの男の手で、残酷な遊戯は呆気なく幕を下された。

 望月の銃弾は確実に外れる――彼女には男を殺せるほどの力も覚悟してもない。

 深淵たる智性を宿した男は、この予定調和的な結末すら全て見透かしていた。

 だからこそ、男は香坂の首筋へ当てた刃を躊躇もなく真横へ走らせた。

 水風船さながら呆気なく裂けた首筋の皮膚からは、頚動脈を巡っていたおびただしい鮮血がほとばしった。


 「あ――あぁ……ぃ――ィヤアアァァアアアァァァーー!!」


 そう、これは自分へ舞い降りた"死の罰遊戯(バツゲーム)"。

 大切な相棒と先輩、どちらかの命を救うことも、両方の命を助けるための覚悟も、選ぶことすらしなかった罪と弱さ。

 そう、これは、誤った選択と己の無力が招いた残酷な結末(バッドエンド)と報い。


 「さようなら――偽りの正義とまやかしの善に踊らされたおのれの愚かさ。選ぶことすらしなかった、罪深き己の無力さ。それら全てを、"深淵"にて悔いるがいい――」


 人間の怠惰を静粛に咎める神のように、美しくも冷やかな眼差しを向ける男。

 上質なカッターナイフを濡らす愚者の血を丁寧に拭き取ると、静かに踵を返した。

 赤い血と死の臭いで充満した広間に、望月の悲鳴は未だ木霊していた。

 しかし、喉を掻き切られたような痛ましい絶唱は、男の心臓を揺さぶるような感慨は何も与えない。

 男の意識と耳朶は、遠くから微かに響いた別の足音一心へ向けられていた。

 新たな気配の主を想像した男は、ほくそ笑むと、颯爽と駆け出した。

 流麗な足音を意図的に鳴らしながら、音は雪のように闇へ溶け去った。


 ずっと、男自身が心待ちして"唯一無二の存在"を誘うために――。





***次回へ続く***



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