⑧
家の玄関ドアを開けたら、ごはんの炊ける香りがして腹が鳴った。
さっきまで喉を通らないと思ってたのに、身体は正直でちょっと笑えた。
靴も揃えないで、家に上がった。
手を洗って、食卓につくと、洗い物をしていた母さんが大盛りご飯をよそって置いてくれた。
テーブルには、一人分の煮込みハンバーグ、サラダチキンとゆで卵が乗ったサラダが用意されていた。
涎が口の中で大洪水を起こした。
「おかえり。遠足どうだった?」
向いの椅子に座りながら、母さんは何気なく聞いてきた。
「まぁ、普通」
機械的に答えながら、小さく「いただきます」と手を合わせた。
湯気が絶え間なく立ち昇る、真っ白なご飯を口に放り込んだ。
噛むごとに甘さが広がっていって、顔も身体もほぐれていった。
「そう。お弁当足りた?」
「……唐揚げ足りなかった」
「あれでも足りないの?! どんだけ食べるのよ…… まぁ、しょうがないわね。今度から増やすようにする」
「そうして」
「ごはん、おかわりいる?」
「うん」
どんぶりを差し出した。
ゆで卵を咀嚼すると、黄身に口の中の水分をほとんど取られた。
飲み込むと、だし巻き卵を思い出した。
溶けるように無くなった、凛のだし巻きと同じものでできているとは、にわかに信じがたかった。
「母さん」
「なに?」
「明日からだし巻き入れて」
「あら、ゆで卵好きじゃない。 いいの?」
「うん」
「はいはい」
母さんのエプロンの紐が立て結びになっていた。
不器用すぎるだろと思ったけど、父さんか妹の役目なので放っておいた。
俺は、この後ご飯が空になるまでおかわりした。
腹をはち切れそうなほど満たして、早々にベッドに入った。
スマホいじる間もなく、まぶたが重くなってきた。
まどろみの中で、凜の体温を思い出した。
嫌じゃなかった。
慣れてるから? それとも……?
あの後、すぐに凜は俺を離した。
ほっとしたけど、凜が痛みに耐えているような顔になっていて、一気に体温を奪われた。
見たことない顔に俺がさせてしまった。涙が干上がった。
その時の顔がこびり付いて離れない。
枕もとのスマホを掴んだ。
暗い部屋でスマホの青白い光が目に刺さった。
目を細めて、ロック解除すると、橋田からメッセージが届いていた。
開くと今日の写真だった。なにも変わらない、イツメン。違和感はない。
特別近いとも思わなかった。
画面を真っ暗にして、伏せた。
凜に明日から普通にすると言われたが、普通ってなんだろうと抱き枕を締め上げた。
へたってきた抱き枕は手ごたえがなくて、プリントされたシロクマの顔が歪んでいた。
目を閉じたけど、全然眠れなくて、結局スマホを立ち上げて、動画を見ながら寝落ちした。
翌日。
こんな時に限って、遠征だったりする。
土曜日の朝は人が少ない。
完全に日は昇り切ってなくて、さっきウォーキングしてるおじいちゃんに抜かれた。
あまりの鬼畜スケジュールに目を糸のように細めた。
昨日プロテイン飲むの忘れたツケは大きすぎた。
疲れを若干引きずって、とぼとぼ歩いていると、駅に近づくたびにだんだん人が増えていった。
少し先に見慣れたリュックが見えてきた。
「凛!」
あ、と思った時には遅かった。
片腕を上げた状態で固まってしまった。
凛は、遠方の出身で高校進学とともに祖母の家に引っ越して通学している。
意外に近くて、最初は驚いた。
毎日一緒に登下校していて、クセが出てしまった。
凛が足を止めて振り返った。
ザ・無表情。きっと眠いだけだ。そうだ、きっとそうだ。
追いかけないわけにもいかなくなって、大股で近づいた。
「おはよ」
「おう」
会話終了。
目が開いた。
普通普通と意識するたびに、どうやってたか思い出せない。
あれ、なんで俺が普通意識してんの?
隣からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
凜がそっぽを向いて、口を押さえていた。
「なんだよ!」
「手と足一緒になってる」
「え゛?!」
下を向いたら、右手と右足が一緒に前に出ていた。
右手をそのままにして、左足を出した。
その間に凜がスマホをタッチして、改札を先に抜けていった。
俺も後に続いた。
「緊張してんの?」
「いや、翔進だから別に……」
翔進学園高校は、監督同士が大学の同期らしくて、節目ごとに行ったり来たりしている。
1時間半くらいの距離にあって、隣県ながら地方ブロックが違うのでちょうどいいんだと思う。
凜の少しくすんだ色になったスニーカーのかかとを見ながら、階段を上った。
「コート立たせてくれるかな……」
昨日の練習を思い出して、思いっきりため息をついた。
「立たせてくれるかな?じゃなくて、立つ、だろ?」
「そうだけど」
「え? 寝たら忘れるヤツだと思ってた」
「はぁ?! 失礼な!」
肩を拳で軽めに殴った。
大げさによろけて、後ろのおじさんに当たりそうになって、俺は背中に手を伸ばした。
おじさんはスマホをじっと見たままだったから、睨まれずに済んだ。
軽く背中を押して、腕を下ろした。
「セーフ」
「完全アウトだろ。大げさなんだよ」
「パワーがゴリラなんだよ。 ケガする」
「なんだって?」
睨みつけたのに、凜は小刻みに身体を震わせながら必死に口を閉じていた。
「なんも面白くないんだけど」
「いや、オモロすぎなんだけど」
「はぁ? 俺で遊ぶなよ……」
「元気づけてるつもりなんだけど」
「下手すぎんだろ!」
叫んでしまって、一斉に周りの視線が刺さった。
後ろのおじさんもチラっと目線だけが上がって一瞬だけ合ってしまった。
気まずすぎる。
「もういい……チャッピーに慰めてもらう」
なんで昨日気づかなかったんだろう。
凛じゃなくて、AIに慰めてもらおう。
だってそっちの方が、的確な答えがもらえそうだし。
無視してスマホを取り出した。
黒い画面に凛の顔が映りこんだ。
スマホ画面が立ち上がって、凛の顔が消えた。
「見んなよ」
「え? 別にいいじゃん。気になるし」
「なにがだよ」
「昨日のこと。相談したのかな、とかさ」
ちょうど電車が来てしまって、スマホをポケットにねじ込んだ。
両手をつり革にぶら下げて、流れる風景をただ眺めた。
車窓から日が差し込んで、眩しかった。
小刻みに瞬きして、余計なことはあえて考えないことにした。
凛から話しかけられることもなくて、駅を出るまで一言もしゃべらなかった。
日光を追うように凛と並んで歩いた。
おでこに掌をかざして、影を作った。
目尻が若干濡れていた。
「凛さ、」
「なに?」
「昨日の写真、なんで送ってこなかった?」
「……なんでだろ?」
信号が赤になった。
電柱の影に入り込んだ。
バスケの先生が運転する真っ赤な車が前を横切って行った。
「凛?」
顔を見て、昨日に増して「やばい」と思った。
瞳が真っ黒だった。
表情がない。
身体が勝手に動いて、肩を掴んで揺らした。
「あ、ごめんぼーっと……」
「どうした?」
「……」
もう一度、肩を揺らした。
「俺のせいで悠希が、と思うと……」
車が止まった。
たぶん、信号は青になってると思った。
力なくぶら下がった手を握った。
振り払われた。
腕が中途半端に浮いた。
「ごめん」
今度は、がっちり腕を巻き込んだ。
振り払われる前に引っ張って、引っ張って、引っ張った。
最初は重たかったけど、歩道の真ん中くらいから急に軽くなった。
「大丈夫。絶対」
前しか見なかった。
校門をくぐって、葉桜のアーチを抜ける。
体育館の前に高校名が入ったバスが見えた。
一年が荷物を体育館から持ち出していた。
「悠希、離せ」
「嫌」
「普通じゃない」
「普通じゃん」
リュックを思いっきり一回叩かれた。
足を止めて、首をゆっくり回した。
口は引き結ばれていて、焦点が定まっていなかった。
腕は離さない。絶対。
「俺のこと、気持ち悪くないの?」
「嫌じゃない」
「……」
身体ごとちゃんと凛に向き合った。
腕も下ろして。
右だけ髪が少しだけ跳ねていた。
出会ってから一度もそんなとこ見たことなかった。
「嫌じゃなかったから、考えた」
俺も凛も瞬きしなかった。
光が目に入って、涙が縁に溜まったけど関係なかった。
「……なんか言えよ」
「いや……」
「頷かせるって言ったじゃん」
「あ、うん」
凛の目が伏せられた。
沈黙になってしまった。
「……俺、男だよ」
「知ってるよ。俺じゃないとダメなんだろ」
「うん」
一年が「これで全部ー?」って叫ぶ声が聞こえてきた。
横目で見ると、バスの周りには、一年が群がっていた。
凛のこめかみから指先を2、3回差し込んで、髪を整えてやった。
整髪剤の甘い香りがふわっと漂った。
凛の瞳が上がってきた。
やっと、目が合った。
「頷かせてみろよ。凛」
凛の後ろからさす、光が眩しすぎた。




