⑲
眠い。眠すぎる。
まだ1時間目なんだけど。
身体は先生の方に向いている。
ホワイトボードには、呪文が生成されていた。
霞んで見えて、全然頭に入らない。
机上のタオルが俺を呼んでいる。
薄いけど、頬を押し付けると、そうそう。
こんな感じで、ふかふかなんだよな。
手を握られて、揺らされた。
「中野、起きろ。起きろ」
「う……ん?」
あ、やべ、寝てた?
のろのろと身体を起こすと、ヨダレが垂れそうになって、口元にタオルを押し付けた。
教科書を眺めた。
横から、にょきって日に焼けた指が伸びてきて、止まった。
「ここから。3行目」
指先の下から、もごもごと読み始めた。
なんとなく読めた。
やるじゃん俺って思ってたのに、最後の最後で詰まった。
なんだ、この単語。
読めねー。
「それ、インヴァイアロンメント」
「イン……?」
「インヴァイアロンメント」
「いんばいえろんめんと」
「はい。いいぞー! 寝るなよ中野ー」
「はーい」
先生が俺が読んだところを読み直して、訳し始めた。
俺は本城に向かって、手を合わせた。
「ありがと。助かった」
「いーえ。ついさっきまで起きてたのに。雪降るかと思った」
「あーははっ……」
「テス勉、ごめんな」
「こっちこそ、ごめん」
本城が申し訳なさそうに頭を下げたから、俺も下げた。
本城の髪が顔にかかった。
「大丈夫そ?」
心配までしてくれるなんて、なんていいヤツなんだ。
「あ、うん。凛に助けてもらう」
「仲直りしたんだな。」
「……ケンカしてないけどな」
「いやいや昨日怖すぎて、チビリそうだったもん」
「ウソっ」
「あ、ヤベッ!」
本城に瞳が前の方に動いて、素早い動きで身体を伏せた。
「中野、真面目に受けよう」
「お、おう……」
早口で、本城がシャーペンを握った。
俺もシャーペンを握って、窓際の一番前の席を見ると、目がバッチリ合った。
凛が顎を手に乗せていて、すぐに顔が前に向いた。
……こっち見てたな。
ひとまずホワイトボードのヤツ、ノートに書き写そう。そうしよう。
シャーペンをノートの上に滑らせた。
ミミズが這うような文字しか書けなくて、途中で諦めた。
背もたれに全体重かけて、先生の声を鐘が鳴るまで聞き流した。
次は体育だった。
着替えて廊下に出ると凛が前のドアから出て、俺を待っていた。
ゆっくり歩いて隣に並ぶと、凛が俺に合わせて歩き始めた。
「結構起きてたじゃん」
「寝たら当てられたけどな」
「寝るなよ」
「頑張ったんだけど、無理だった」
「……本城に手握られてたじゃん」
「そうだっけ?」
背中じゃなかったか?
全然覚えてない。
廊下を突きあたって、階段を見下ろした。
本城はすぐ階下の踊り場で、3人並んで歩いていた。
真ん中で左右に首を動かしながら、他の2人と話していた。
ちなみに他の2人は柔道部の相原と陸上部の松下。
「握らせるなよ」
「無理じゃない?」
「寝なかったら、いいじゃん。それか、グーするとか」
善意でちょっと起こしてくれただけなのに。
失礼じゃない?
そもそも、手、握られたか?
「なにそれ。それより、今日の体育なんだっけ?」
「話変えるなよ」
「は? おっと!」
凛が変なこと言うから、階段の最後の段で踏み外しそうになった。
凛に肘を掴まれて、なとか逆の足で踏ん張った。
転倒は免れたけど、だいぶん恥ずい。
後ろのヤツに見られたか。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう……」
腕を掴まれたまま、踊り場を過ぎて次の階段を下り始めた。
半袖着てるから、直に凛の体温を感じる。
結構強く握られてて、凛の指が沈んでた。
「離せよ。」
「なんで?」
「なんでって……」
もう階段を下り切ったのに、まだ離さない。
体育館までの渡り廊下前で女子たちと合流した。
チラチラと見られて、いたたまれない。
生ぬるい風が前髪を揺らした。
「もう危なくない」
「本城は良くて、俺はダメなんだ」
「状況が違うだろ」
「変わらない」
「一瞬だったじゃん」
「結構ガッツリ握られてた」
面倒。ほんと、めんどくさい。
あー言えば、こう言う。
そもそも、凛って俺のなんなんだ?
付き合っては……ないよな。
なにも言ってないし。
そういえば、好きって言ってないし。
あれ……? なら、これはなに?
凛の白くなった指先を見つめた。
「触れさせて欲しくない……」
「……無理だろ」
「なるだけ」
体育館の入口に差し掛かって、段差を踏み込んだら腕が自由になった。
腕に爪痕が残っていた。
凛も俺の腕を見ていて、袖を下に引っ張った。
全然隠れなかったけど。
痛そうな顔だったから。俺が痛かったんだけどな。
「ごめん」
「別に……」
体育館はシャトルランのリズムが軽快に流れていた。
そうか。今日はシャトルランか。
シャトルランは20メートルの間隔をリズムに合わせて往復する持久走だ。
音楽を聴いてたら、俺の中の負けず嫌いがむずむず込み上げてきた。
「凛、勝負な」
「……話聞いてた?」
「聞いてる聞いてる」
「……」
「なに?」
瞬きもせずに、目をじっと見られた。
そんな見なくても。
ちゃんと聞いてたし。
なるだけ気を付けるし。
俺も負けじと瞳を見た。
「いや……いい。勝負な」
「勝った方の言うこと一個なんでも聞く、でいい?」
「……絶っ対勝つ」
眉頭がピクリと動いて、強めに言われた。
なんだ、凛もやる気じゃん。
なにしてもらおうかな。
去年勝ったし。
チャイムが鳴って、音楽がぷつっと消えた。
準備体操も終わって、先生の短い説明の後、女子からってなった。
俺たち男子は、壇上に登って待機することになった。
俺は真ん中の方で、胡坐をかいて座った。
凛も俺の横に同じように座った。
リズムが鳴り始めて、一斉に女子が走り始めた。
「目標何回?」
「悠希に負けなかったら、何回でもいい」
「必死か!」
「当たり前」
肩に突っ込み入れてみたけど、冷たい目で返された。
急いで腕を引っ込めた。
「なに? 勝負してんの?」
本城の首が俺の隣から伸びてきた。
「うん。そう」
「俺もいい?」
「俺もー!相原、お前は?」
「俺はいいわ……膝痛いし。」
本城は控えめに言ったのに、松下は右手を挙げてアピールしてきた。
相原は、気まずそうな顔で言った。
松下が入ったら、勝負にならないような。
「凛、いい?」
愛想の良さそうな顔をしてて、喉奥が絞まった。
全然目が笑ってないんですけど。
「いいんじゃない?」
「おっし!負けないぞー!」
松下が肩を回し始めた。
レベルアップのアナウンスがされた。
音楽は最初に比べると、格段に次のスタートが早くなっていた。
ステージの下を見ると、藤田と坂下が仲良く隅で座り込んでいた。
脱落早すぎだろ。
「早く走りたい……!」
「林がいるからなー。まだじゃない?」
「落ち着け、松下!」
本城たちが話してるのを見ていたら、床に突いていた、手の甲を撫でられた。
くすぐったくて、身体を竦めた。
手首まで時間をかけて撫でると、凛の手が俺の手の上に掌が重なった。
凛は前を見据えたままだった。
「中野、去年なんかいだった?」
「忘れた。俺が優勝するから」
「なんだとー!」
「あはは!」
本城達と女子が終わるまで話したけど、意識は常に手にあった。
時たま、指を曲げられて指先を撫でられた。
声を上げそうになったけど、ぐっと堪えた。




