ゴブリンヒャッハー
薄暗い洞窟内に、甲高い叫び声が響き渡る。
「キシャアアアッ!?」
緑色の皮膚をした小鬼——ゴブリンが、目の前の異質な侵入者に向かって錆びた短剣を突き出そうとした瞬間であった。次の刹那、風を切り裂く重厚な金属音が空気を振るわせる。
「——『いい感じに処理しておいて』だとぉぉおおっ!!?」
ドゴォッ!!!
唸りを上げて叩きつけられたのは、硬質ジュラルミン製の軟式野球用バット。過酷なミート音と共にゴブリンの頭部が一瞬で破砕され、緑色の肉片が洞窟の岩肌へと激しく飛散した。
バットを構えているのは、三十八歳の食品工場係長、佐藤健一である。スーツのネクタイは大きく緩み、白シャツの袖は捲り上げられ、その目は血走り、口元は歓喜と狂気に歪んでいた。
「抽象的な指示でぶん投げておいて、結果が悪かったら『なんで俺の意図を察しないんだ』だと!? 察せるかバカ野郎! 予知能力者でも雇ってろぉぉぉおっ!」
バコォッ! ガシャアンッ!
正面から襲い掛かってきた二匹目のゴブリンを、ゴルフのドライバーのようにフルスイングでぶち飛ばす。壁に激突したゴブリンは、光の粒子となって消滅し、足元には小さな魔石が転がり落ちた。
「そしてお前らだ部下共!! 『指示されてないのでやってません』!? 聞け! 自分で考えろ! だが勝手に工程を変えてラインを止めるな! なぜ『言われた通りに正確にやりつつ、臨機応変に報告する』という基本ができないんだあああぁぁぁッ!!」
佐藤の怨念のこもったバットが、縦横無尽に旋回する。右へ一閃、左へ一撃、上からの振り下ろし。打撃の精密さは、長年の工場勤務で培われた正確無比な腕の動きそのものであった。理不尽な上司の顔、指示待ち人間の無気力なツラ、勝手に暴走するDIY社員の呆れ顔——それらがゴブリンの醜い顔面と重なり合うたび、佐藤の打撃は冴え渡った。
「キョ、キシャァァ……!?」
恐怖に慄くゴブリンたちが後退りする。しかし、日頃の中間管理職としてのストレスに狂わされた佐藤の足取りは、死神のように素早く、容赦がない。
「逃げるな! 残業だ! これからが本番だろうがぁぁあッ!!」
暗闇のダンジョンで、一人の男による虐殺劇が繰り広げられた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……!」
どれほどの時間が過ぎただろうか。肩を上下させながら、佐藤は手に持った金属バットの感触を確かめた。周囲を見渡すと、あれほど群がっていたゴブリンたちの姿は影も形もなく、ただ洞窟の床に無数の魔石が転がっているだけだった。
胸の奥に渦巻いていたドロドロとした黒い鬱屈が、綺麗さっぱり消え去っている。脳内にはドーパミンとエンドルフィンが溢れ出し、全身をかつてない開放感と爽快感が満たしていた。
ポケットからスマートフォンを取り出し、画面を点灯させる。
「……え?」
画面に表示された時刻は【04:00】。
洞窟に入ったのが午前三時すぎ。夢中になってバットを振り回していた時間は、丸々一時間に及んでいた。
「やばい……っ! 明日も普通に出勤日じゃないか!!」
一気に現実へと引き戻された佐藤は、慌てて足元に転がる魔石をいくつかポケットに押し込み、ダンジョンの出口へと走った。路地裏から自分のアパートへ滑り込み、急いでシャワーを浴びる。ベッドに倒れ込んだ時には、すでに時計の針は午前五時を指していた。
始業は午前九時。七時には起きなければ間に合わない。わずか二時間の睡眠時間——絶望的な重疲労を覚悟しながら、佐藤は泥のように眠りに落ちた。




