帰り道にて
すべての穴埋め作業と書類改訂を終え、工場の勝手口を出たときには、時計の針は深夜午前二時半を指していた。
体じゅうの細胞が悲鳴を上げている。目が血走り、視界の端がチカチカと点滅していた。
会社の駐車場に向かう途中、ショートカットのためにいつもの狭い裏路地へと足を踏み入れる。街灯が切れかかっており、チチチと不気味な音を立てて明滅している暗がりだ。
(……辞めたい。いや、辞めたらローンの返済が……でも、もう胃に穴が……)
脳内でドロドロとした怨念が渦巻く。大岩課長の顔、鈴木の無表情、田中のへラヘラ顔が回転灯のようにぐるぐると駆け巡る。
その時だった。
「……ん?」
路地の突き当たり、ゴミ集積所の奥で、空間がぐにゃりと歪んだ。
まるで熱気楼のように空気が揺らぎ、そこから黒と紫の混ざり合った不気味な光が溢れ出す。空間に亀裂が入り、見たこともない『穴』がぽっかりと開いたのだ。
穴の奥からは、カビと腐臭、そして湿った土の匂いが立ち込めてくる。
「なんだ……? 疲労でついに幻覚まで見え始めたか……?」
目をこすり、足を止めようとしたその瞬間。
『ギギッ……! ギャハハハッ!』
穴の向こうに、奇妙な歓声とともに低身長の『何か』が映った。
皮膚は不気味な緑色。引きつった醜い顔には鋭い黄色い濁った牙。ボロ布を纏い、手には錆びたナイフを握りしめている。
人間ではない。映画やゲームで見たことがある存在——ゴブリンだ。
『ギギギャッ!』
ゴブリンは血走った目を俺に向けると、ナイフを振りかざして飛びかかってきた。
普通なら、悲鳴を上げて逃げ出す場面だろう。
命の危険を感じ、腰を抜かすのが正常な人間の反応だ。
しかし——
深夜二時半までサビ残を強いられ、脳内から怪しい脳内物質が噴出し切っていた三十八歳中間管理職の反応は、正常とはほど遠かった。
「……あ?」
ゴブリンの醜悪な、薄笑いを浮かべた顔。
それが、一瞬にして『ゴルフの打ちっぱなしの約束をして先に帰った大岩課長』の顔と重なった。
(『いい感じにやっといてよ〜』……『いい感じに』……?)
ブツン、と。
俺の中で、何かが完璧に切れる音がした。
「上等だよ...おい……」
俺は無意識のうちに踵を返し、数メートル後ろに止めてあった自分の愛車へ歩み寄った。
『ギギャ?』
襲いかかろうとしたゴブリンが、突如として背を向けた俺の行動に一瞬気押され、足を止める。
カチャリとトランクを開ける。
そこには、休日に会社の草野球大会で使うために積みっぱなしにしていた、俺の相棒が入っていた。
重厚な黒のグリップ、滑らかなシルバーの打撃部。
俺は無言で相棒(金属バット)のグリップを握りしめた。
しっくりと手に馴染む感触。ズシリとした心地よい重み。
「……またせたな?」
俺はゆっくりと振り返った。
『ギ、ギギャ……?』
ゴブリンは、俺の目を見て後ずさりした。
そこにいたのは、さっきまで死にそうな顔をしていた冴えない中年男ではない。目が血走り、全身から黒いドロドロとしたナニカを爆発させている『深夜の怪物』だった。
「お前……大岩だな?」
『ギャッ!?』
俺はすり足で間合いを詰める。
右足を踏み込み、腰を鋭く回転させる。高校球児時代、甲子園を目指して毎日千回素振りしたあの完璧なフォームが、二十年の時を超えて完全に蘇っていた。
「責任転嫁の!! 丸投げがぁぁぁぁぁっ!!!」
脇を締め、ヘッドを遅らせて強烈なミートポイントへ投げ込む!
——カキィィィィィィィィンッ!!!!
深夜の静まり返った路地裏に、夜空を切り裂くような極上の打球音が響き渡った。
『ギギャアアアアッー!?』
バットの芯で捉えられたゴブリンは、綺麗な放物線を描いて路地裏の夜空へ高く打ち上げられた。
十メートルほど飛翔し、ゴミ集積所のプラスチック容器にダイレクトイン。
ゴブリンは「ピクピク」と痙攣したのち、黒い煙となって弾け飛び、跡形もなく消え去った。後には小さな透明な石(魔石)が一つコロコロと転がっているだけだった。
「ハァ……ハァ……ハァ……!」
俺はバットを構えた姿勢のまま、固まっていた。
腕に残る、ズシッとした手応え。
耳に心地よく残る、完璧な金属音。
そして、飛んでいった『不条理』の爽快感。
ドクン……!
ドクンドクン……!
脳内で、ドパミンとアドレナリンが怒涛の勢いで噴出していくのが分かった。
身体中の血が沸騰し、今まで重く圧迫されていた胃の痛みが、嘘のように消え去っていた。
「……すごい」
俺は自分の手と、金属バットを見つめた。
「最高だ……なんだこれは……! 仕事のストレスが……一瞬で消えた……!?」
俺の視線は、まだ黒く蠢いている空間の穴——ダンジョンのポータルへと注がれた。
穴の奥からは、さらに数匹のゴブリンが「ギギッ」「ギャハッ」と気味の悪い声を上げながら顔を出そうとしている。
その顔はすべて、大岩課長であり、指示待ちの鈴木であり、暴走する田中であった。
「……宝の山じゃないか」
俺は口元を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
ネクタイを力任せに引き抜き、スーツの上着を脱ぎ捨ててトランクに放り込む。ワイシャツの袖を捲り上げ、バットをトントンと右肩に叩きつけた。
「おい、お前ら。残業代は出ないが……全員まとめて『いい感じ』にフルスイングしてやるよ」
三十八歳、中間管理職。
俺はバットを固く握り直し、自ら進んで深夜のダンジョンへと躍り込んだ。




