安全第一とは
「スライムじゃ……全然ダメだ。脳汁が出ない……」
市役所地下の『地球産ダンジョン』第一層。
ぷにぷにと弾けるだけのスライムを数匹叩き潰した佐藤は、不完全燃焼のまま溜め息をついた。求めているのは、あの夜のゴブリン打撃時に得た至高の爽快感なのだ。
佐藤は迷わず、下層へと続く石造りの階段を下り、第2層へと足を踏み入れた。
第2層は、第一層よりも薄暗く、岩肌が荒々しく剥き出しになったエリアだった。慎重にバットを構えて進むと、前方から獣の低く鋭い唸り声が響いた。
暗闇から姿を現したのは、灰色の毛並みを持った狼のような魔物——レッサーウルフだ。
(レッサーウルフ……講習の資料で見たな。第2層の標準モンスターだ)
大きさや筋力自体は、地上の野犬とさほど変わらない。しかし、先ほどまでのスライムとは放つ殺気がまるで違った。鋭い牙と爪を持ち、こちらを完全に「獲物」として品定めしている。
「来い……ッ!」
佐藤が金属バットを引き絞った瞬間、レッサーウルフが弾丸のような速度で地を蹴った。
「はっ!」
バットをフルスイングする佐藤。しかし——空を切る重い風切り音だけが虚しく響いた。
(速い……! 追いつかない……!?)
佐藤は自分の体の「違和感」に焦りを覚えた。
目では相手の動きを捉えられている。思考力の上昇によって、敵がどう動こうとしているかも頭では理解できているのだ。しかし、身体がそれに追いつかない。
(そうだ……俺の『魔物使い』のステータス……【身体能力】に「×0.7」のマイナス補正がかかってるんだ……!)
元の身体能力が立ち仕事で鍛えられていたとはいえ、ジョブ補正によって俊敏性や筋力は一般成人以下に低下している。自分から追いかけて殴りかかろうとしても、素早いレッサーウルフには軽々と回避されてしまうのだ。
背後から跳びかかってくるレッサーウルフ。佐藤は間一髪で前方に転がり込んでかわしたが、背中にヒヤリとした冷や汗が流れる。
噛みつかれたり、急所を爪で引き裂かれれば普通に命に関わる。地球産ダンジョンの第2層とはいえ、ここはれっきとした死線なのだ。
(落ち着け……焦って自分から踏み込むな。攻撃を当てるんじゃない、相手に飛び込ませるんだ……!)
佐藤は息を整え、姿勢を低く落とした。
自分から追いかけるのをやめ、バットを構えたままじっと動かない「カウンター狙い」へと切り替える。長年の工場勤務で培われた超精密な観察力と、ジョブ補正で高まった【思考力】をフル稼働させ、レッサーウルフの筋肉の収縮、重心の移動をじっと見極めた。
痺れを切らしたレッサーウルフが、鋭い爪を前に突き出し、佐藤の喉元を目指して一直線に跳躍した。
(今だ……ッ!)
敵の軌道は直線。逃げ場のない空中。
佐藤は最短距離でバットを振り抜いた。振り回すのではなく、相手の飛び込む軌道上に硬質ジュラルミンを「置いておく」ような精密な一撃。
バゴォンッ!!!
硬い打撃音が洞窟に響き渡る。バットの芯で顔面を正確に捉えられたレッサーウルフは、空中で激しく回転しながら岩壁へと叩きつけられた。
「ハァッ、ハァッ……やったか……!?」
レッサーウルフはピクピクと足を痙攣させ、やがて光の粒子となって消滅。後には小さな魔石が残された。
「勝った……が……」
ほっと一息ついた瞬間、左腕に走る痛みに佐藤は顔をしかめた。
カウンターを合わせる直前、レッサーウルフの鋭い爪が作業服の袖を切り裂き、前腕の皮膚を浅く引っかいていたのだ。じわじわと赤い血が滲んでくる。
「くっ……痛いな。浅い傷で済んだのが幸いか……」
佐藤は自分の浅はかさを猛省した。
(『魔物使い』が不遇職って言われる理由が嫌というほど分かったぞ……。前衛で直接戦うには身体能力が低すぎるんだ。それに、作業服一枚で入るなんてバカすぎた。防具もなしじゃ、かすり傷一つで命取りになる……)
さらに、倒したスライムやレッサーウルフから手に入れた魔石をポケットに詰め込みながら、佐藤は困惑した。
(魔石を拾うのも一苦労だな……。ファンタジー小説みたいに『アイテムボックス』みたいな異次元収納スキルがあればいいんだが、そんな都合の良いものはない。持ち帰り用のリュックや回収袋も必須か)
自分の知識不足、準備不足を痛感した佐藤は、これ以上の探索は危険だと判断し、速やかに撤退を決意した。
「安全第一の趣味……のはずだったんだがな。しっかり装備と知識を整え直さないと、仕事どころじゃなくなるぞ」
左腕の傷をハンカチで圧迫しながら、佐藤はトボトボと市役所の地上出口へと向かって行った。




