4章
それからも、特に絵里の件については進展がなく、いい加減沙優は疲弊し始めていた。
ある日の帰り道、オフィスを出たところで絵里が待ち構えていた。沙優は思わず引き返しそうになる。
ただそこで他の人と待ち合わせをしているだけかもしれない、いやきっとそうだ、と心の中で唱えながら絵里の方へ歩いてみる。
「戸塚さん。」
そう呼ばれ、まぁそうですよね、と内心で溜息をつく。
そもそも、今日現場部門でこの時間オフィスに残っているのは沙優だけなのだ。
「萩野さん……どうしたの?」
「あの日、珠樹とカフェで何してたんですか。」
絵里の声は感情的というよりは尖っていた。
「あれは……ただうちの会社に戻ってくるって話をされただけだよ。珠樹は……何も言ってなかった?」
沙優は絵里の逆鱗に触れないよう気をつけながら答える。
「あの人にあなたの話をすると……。」
絵里は苛立たしげに溜息をつくと、肩までストンと伸びた髪をスッと耳にかけ、何かを思い出したように顔を背けた。
「まぁ何もないなら良いです。珠樹にはできるだけ関わらないようにしてください。」
絵里はそう事務的な温度で言い切ると、沙優の返事も待たずに自分の部署へ戻っていった。
絵里とはそれ以降もポツポツと遭遇する機会があり、前のように睨まれているとは感じなくなったが、代わりに見張られているような圧を感じるようになった。
このまま何もなければ、絵里も落ち着くだろうと考えていた矢先、珠樹の研修期間が終わり営業部に配属になったと噂が回ってきた。
営業部は沙優のいる部署の隣の部屋の部署だ。あまり喜ばしくはない結果に沙優はまた黒い何かが心を侵していくのが分かった。
「沙優、今日一緒に帰れる?」
報告書を書いていると、後ろから涼矢が肩を叩く。
一瞬パッと嬉しい気持ちが跳ねるが、今一緒にいたら涼矢を困らせる気がした。沙優は即座に頭を回転させ言い訳を編み出す。
「ごめん、今日はちょっと友達と隣駅で遊ぶ予定あって。声かけてくれてありがとね。」
申し訳無さを強く押し出し、嘘をついた罪悪感がバレないように涼矢を見る。
涼矢は眉を上げると「そっか、楽しんで。」と軽く微笑むと自分のデスクへ戻っていった。
沙優は溜息をつくとまた報告書に戻った。
営業部に配属された珠樹とは、想定以上に出会う機会が多くなった。絵里から関わるな、と言われたこともあり、沙優はできるだけ下を向いて珠樹とすれ違うようにしていた。
……のに、珠樹はそんな沙優を呼び止める。
「沙優?大丈夫か?体調悪い?」
沙優はその優しい声に、唇をグッと噛む。
珠樹を見上げると、視界の端に絵里が映った。
「沙優?ちょっ、顔色悪いぞ。医務室行こ。」
珠樹は心配そうな顔で、固まっている沙優の手をとる。
絵里がクルッと振り返って歩き去るのが見えた。
沙優は泣きそうになる。
「珠樹……ごめん。大丈夫。自分で行けるから。」
沙優はなんとかそう断って珠樹の手を離すと、そのまま化粧室へ逃げた。
その日の帰り、こともあろうか絵里とオフィスを出るタイミングが被ってしまった。
少しゆっくり歩いていると、横目で沙優に気付いた絵里が沙優を睨む。
更にタイミング悪く、そこに珠樹が通りかかり、絵里の表情を見てしまった。
珠樹が驚いたように沙優の方に来る。
沙優は顔を顰めた。これは良くない。
「沙優?絵里となんかあったか?」
「……何もないよ。」
沙優は珠樹から距離をとりながら言う。
「困ってるなら言えよ?」
珠樹は気付いていないのか、沙優が開けた距離をものともせず、沙優の目を覗き込む。
「何も困ってないよ。大丈夫だから。」
沙優は絵里が見ている気がして気が気でなかった。
珠樹が優しさで構ってくれているのは分かるが、さっきまで絵里が近くにいたのだから、少し考えて欲しかった。
「ごめん、まだ仕事残ってるんだった。お疲れ様。」
沙優は耐えられずオフィスへ引き返すことにした。
「ちょっ……沙優。」
「気にしないで、大丈夫だから。」
沙優はそう伝えると足早にオフィスへ戻った。
沙優は自分の席に着くと、やっと息を吐いた。
あまりに珠樹への苛立ちが大きく、思わずため息をつく。
作業に入って忘れようと思いパソコンに向き直ると、不意に和也と一緒に帰ろうとしていた涼矢と目があった。
あの目は知ってるな、と思う。これだけ大きな怒りの感情は涼矢が気付かない訳がない。
伝わらない気がしたが、大丈夫だよ、と思いを込めて頷いてみる。涼矢は少し微笑むと和也と話を続けながら出ていった。
それから1週間程は何事もなく過ぎた。が、重なるときは重なるもので、沙優が謝罪回りを終えて帰ってきたあと、一人で廊下を歩いていると、反対側から歩いてくる絵里が見えた。
思わず逃げそうになるが、引き返すのも不自然なので仕方なく目を合わせないように歩く。
しかし願いも虚しく、絵里に呼び止められた。
「戸塚さん。」
「この前お渡しした案件の報告書、不備があったので長野さんに確認お願いします。」
報告自体は全くのテンプレート通りの内容であるはずなのに、冷たさが滲み出ている。
思わず絵里の目を見てしまい、ただ報告をしているだけと思おうとしていたのに、怒りの圧に押されて返事が遅れてしまう。
「……承知しました。」
沙優が言い終わるか終わらないかのタイミングで、後ろから珠樹が現れた。
「絵里?どうしたそんな怖い顔して。」
そう言いながら珠樹は絵里に眉を上げた。
「怖い顔なんかしてないですよ。」
絵里は苦笑して珠樹を見る。
「そうか……」
珠樹がそう言いながら沙優を見る。心配そうな瞳。
沙優は逃げ出したい思いでいっぱいだった。
そんな顔をしたら……と絵里を見る。
絵里は最早泣きそうな顔で珠樹を見ていた。
沙優が口を開こうとした瞬間、絵里は早足で立ち去った。残されてしまった沙優は、珠樹を見る。
「本当に絵里と大丈夫なのか?」
珠樹が心配そうに聞く。
沙優は溜息を吐く。
「大丈夫じゃないよ。」
「え?」
「萩野さんのこと、早く追いかけて。」
沙優がそう言うと、珠樹が傷付いたのがすぐに分かった。
強く言いすぎたな、と思うが、こうでもしないと珠樹も絵里も傷を広げていくだけだ。珠樹が未練から心配してくれている訳ではないことは分かっていた。
だからこそ、だ。だからこそ……。
沙優はきびすを返すとオフィスに小走りで駆け込んだ。
「あ、沙優。私の方が先だったね。」
できるだけ落ち着いて見えるように気をつけながら席に着くと、一緒に謝罪に出ていた愛実が不思議そうに言う。
「ちょっと、報告書に不備あったらしくて。」
なるべく軽く響くように気をつけて言う。愛実はそっか、と何でもないように頷くと自分の作業に戻った。
ふと涼矢の席を見る。涼矢はいつも通り周りを遮断した静けさと集中力でパソコンと向き合っていた。
その日の帰り、エレベーターを待っていると涼矢と一緒になった。
「沙優、一緒に帰ろ。」
涼矢はこの前と同じトーンで言ったが、なんとなく断れない雰囲気を感じた。これ以上誤魔化すのもかえって怪しいとも思い、沙優は「うん。」と頷く。
聞きたいことはたくさんあるんだろうなとは思う。涼矢が自分に口を挟む権利はない、と我慢していそうな気配は嫌でも感じた。
ただ、沙優自身も涼矢にどう甘えて良いのか分からなかった。
帰り道、二人は特に話すこともせずただ手を繋いで歩いていた。
別れ道が近くなってきた時、口を開いたのは涼矢だった。
「ねぇ。」
「ん?」
「……沙優。俺もう駄目かもしれない。」
「え?」
「もし迷惑かけたらごめん。でももう我慢できないわ。」
涼矢はそう言うと沙優の頭をポンと叩いて、自分の家の方向へスタスタと歩いて行った。
「ちょっ、……」
沙優は立ち尽くしたまま取り残される。最近自分に手が負えないことが多すぎる。沙優はもう泣きたいのを通り越して呆然とするしかなかった。
それから数日後、沙優たち現場担当と珠樹のいる営業部合同のミーティングがあった。
ミーティング後、沙優がお手洗いから資料を取りに戻ろうとすると、部屋に涼矢と珠樹が残っているのが見えた。思わず部屋から一歩下がり隠れてしまう。
「なぁ、珠樹。」
涼矢が話しているのが聞こえて、隠れたまま固まる。
盗み聞きをしたい訳ではないが、体が動かない。
「沙優にもう関わらないで欲しいんだけど。」
職場では滅多に出さない感情を露わにした声。
「え、」
珠樹が驚いたように涼矢を見る。
「気付いてる?お前が沙優を悩ませてんの。」
涼矢の強い言葉に、沙優も目を見開く。
珠樹は少し目を泳がせたが、弱々しく言い返す。
「沙優が……そう言ったのか?」
涼矢は息を吐いてから答えた。
「沙優はそんなこと言わない。言えないから俺が言ってる。」
このままではまた珠樹が傷ついてしまう。分かっていても、普段人一倍相手の傷に敏感な涼矢が話している事実についていけないままでいた。
珠樹が困ったように涼矢を見た後、抱えていた資料を置くのが見える。
「俺は……絵里の態度に沙優が困ってるみたいだったから声をかけただけで……。」
「それで状況は良くなったのか?」
涼矢の声はいつにも増して冷たく静かだった。
沙優は焦った。このままでは珠樹以上に涼矢が傷付いてしまう。
「日に日に辛そうで見てらんないんだけど。」
挑発的な温度はないのに、酷く責めているように聞こえる。
珠樹は答えなかった。
「……そもそも、もう別れたんだから珠樹に沙優を守る権利はないだろ。」
その刺すような言葉に、珠樹は暫く黙っていたが少ししてやっとの声量で言い返す。
「別に付き合ってなくても、同僚として守る権利は……
「中途半端なその優しさが」
涼矢は聞いたこともない荒い大声で珠樹の言葉を遮る。
「沙優を一番傷つけるから。」
涼矢のその強い言葉に、沙優は思わず泣きそうになる。
涼矢の声はもういつもの温度に落ち着いていた。が、視線の鋭さは変わらない。
「俺が口出せることじゃ無いって思ってきたけど。」
涼矢は珠樹を真っ直ぐに見据えた。
「沙優のことを本当に守る覚悟があるのなら、もう関わらないであげて欲しい。」
そう静かに言い切ると涼矢は少し黙った。
珠樹ももう何も言い返さない。
二人は暫く睨み合っていたが、溜め息と共に涼矢が不意に振り返った。沙優は目が合ってしまい、目を見開く。
涼矢も驚いたように瞬きをしたが、そのあとすぐに今までの冷たい表情が嘘のように、沙優に優しい表情を向ける。
「ごめん、余計なこと言った。」
そう言いながら涼矢はスッと沙優の隣をすり抜けて行く。
歩き去る涼矢に取り残された沙優は立ち尽くす。
残された珠樹と眼が合う。
珠樹は迷いを残しながらもゆっくり目を逸した。
沙優は唇を噛むと、すぐに涼矢を追いかけて走った。
涼矢は屋上にいた。下を向いて蹲るようにしゃがんでいる。
沙優は涼矢!と叫ぶ。
涼矢は顔をあげて沙優に気づくと 、眉を上げた。
「沙優……」と気まずそうに立ち上がる。
「怒ってない?」
さっきの鋭さはかけらも残っていない不安定な声で聞く。
「わかってるくせに」
沙優は少し笑う。すると涼矢は本当に困ったように眉を下げて笑う。
「ごめん。さっき感情読まないようにしてたから……バグったのかな。リンクできなくなっちゃった。」
そう頭をかき弱々しく笑う涼矢を見ていると、視界が滲んだ。思わず涼矢を抱き締める。
「涼矢…。」
涼矢は大人しく沙優の肩に顔を埋める。
「ごめんな、見てると思ってなかった……。嫌だったよな、勝手に……。」
そう言って沙優の腰に腕を回す涼矢の声は掠れていた。
「私は…ちゃんと救われたよ?……私こそごめん。結局涼矢に辛い思いさせて……こんなに抱えてくれてたのに話せなくて、本当ごめん。」
涼矢は離れると赤い潤んだ目で沙優を捉える。
「謝らないで。沙優は悪くない。」
「涼矢も悪くない。……誰も悪くない、それでいい。」
沙優はそう言って、リンクしやすいように感謝の気持ちの波を起こして涼矢の目を見つめる。
「救ってくれて、ありがとう。」
沙優が改めて言う。
「リンクは?できてる?戻った?」
沙優がせき立てるように聞くと、涼矢はくしゃっと笑って頷いた。
「すごい大きな感謝の波が来た。」
「良かった……。」
沙優もくしゃっと笑い返す。
涼矢は涙の残る瞳で沙優の目を見つめ返す。
「沙優、こちらこそありがとう。」
沙優も感謝の気持ちを受け取る。
涼矢はただ頷く沙優の髪に手を伸ばし、愛おしそうに撫でるとそのまま引き寄せキスをした。




