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3章

 それから珠樹が戻ってくる、と言う噂はあっという間に広がり、変な気遣いが社内に走るのを沙優はなんとなく感じていた。


「沙優ー、今日ご飯行こ。」

 愛実が声をかけてくれる。正直今社内の人間と話すのはたとえ愛実でさえ嫌だったが、逃げ続けていたって仕方ない。


「はい!行きましょ!今日はなんの気分ですかー?」


 いつも通りのテンションを意識して返しながら、カバンを持って愛実の方を振り返る。


 そのタイミングで不意に涼矢が隣に現れた。


「わ、え?」


「沙優?ちょっと良い?」


「え?ちょっと…なら良いけど…。」


 沙優は驚いた表情が残ったまま、愛実に先行っててください!と声をかける。


「…どうしたの?」


「来て。」


 涼矢はそれだけ言うとスタスタと先を歩き始めた。


 愛実を先に行かせた手前「ちょっと」がどれぐらいなのかが気になって仕方ない。


「大丈夫、そんなに時間取らないから。」


 涼矢が振り返らずに言う。

 あぁ、そうだった、と思う。こういうちょっとした感情の棘に、涼矢は今まで傷ついてきたはずで、気をつけようとは思いながらやはり難しい。


「ごめん、バレてるんだった。」


 沙優はかろうじて茶化すという手法で涼矢が感じたであろう罪悪感を和らげようと試みる。


 人通りの少ない廊下突き当たりでちょうど止まった涼矢は、やっと沙優を振り返るとふっと笑った。


「ねぇ、いいんだよ。謝らないで。」


 涼矢は沙優の頭にそっと手を置いた。

 沙優は悪戯っ子のような笑顔で返す。この表情を涼矢が好きなことは知っていた。狙った嬉しそうな笑い声が聞こえてきて、危うく愛おしさに目が眩みそうになる。


「涼矢?」


 持ち直して本題を促す。


「ごめん、赤坂さん待たせてるのに。」


「ううん。」


 沙優はただ涼矢を見上げて、眉を上げる。


「なんか……気持ちと言ってることがさっき全然違ってたから大丈夫かなって。」


「あぁ‥。」


 そういうことも分かってしまうのか、と改めて涼矢のリンクの強さを思い知る。

 なかなか指摘されたことのない大丈夫?に戸惑っていると、戸惑いの対象を勘違いしたのか涼矢が申し訳なさそうに口を開いた。


「ごめん、嫌だろ?こんな指摘されるの。ただ‥沙優が言えないなら俺が断ろうかなって思って‥、それも迷惑か。マジごめん。無理してる沙優見てたら、なんかいてもたってもいられなくて、気づいたら連れてきてた。沙優も行く選択したのには理由あっただろうし、悪かった。」


 珍しく饒舌に話す涼矢に、沙優は返事に困っていたことも忘れて思わず笑った。


「え?」


 涼矢が驚く。


「ごめん、笑っちゃった、珍しくすごい勢いで喋るから。」


 沙優が笑いながら続けると涼矢は少し困ったような表情で苦笑した。


「だって……。怒ってないか怖くて。」


 沙優は優しく笑う。


「怒ってないよ。怒りの感情ないでしょ?涼矢の優しさにびっくりしてただけ。」


 涼矢は頷いたが少し辛そう続ける。


「読めなくても……感情は隠れてることあるでしょ?普通のリンクと同じで全部の感情読める訳じゃないから。」


 その言葉に沙優は少し驚く。

 今までリンクしていて繋がった感情の他に隠れた感情がある可能性は考えたことがなかった。そこまで考えてしまうのなら、普段職場で感情を節約しているのも納得できた。


「涼矢……。そこまで気にしなくても大丈夫だよ…。」


沙優は少し涼矢の腕に触れる。涼矢は少し眉をしかめると悲しそうに頷いた。


「そう……だよね。ごめん……。ほら、楽しんできて。赤坂さん待たせてるし。これからは気にしないようにするから。」


 涼矢はそう力無く微笑むと、触れていた沙優の手を優しく包んでから離し先に行ってしまった。


 残された沙優は離された手をもう片方の手で握りしめ、ため息を漏らした。

 

 愛実とは店で直接集合した。先に飲み始めてくれており、

 こちらに気を遣わせない年上の優しさに少し安心する。


「ごめんなさい、遅くなって。」


「ううん、先始めさせてもらってます〜。沙優は何飲む?」

 明るい愛実の声にさっきの切なさが癒えていくのを感じる。

 

「で。水野は?大丈夫だった?なんか珠樹も戻ってくるって噂になってるけど。」


 愛実はすぐに本題に入ってくれる。そう言う愛実らしい気遣いも今はありがたかった。


「そうなんですよ。まぁ涼矢は大丈夫だと思うんですけど。喜ばしいことではないですよね。」


 沙優が渋い顔を見せると愛実は少し笑った。


「まぁ喜ばしくはないよね。なんかできることあったらいつでも言ってね。私は何があっても沙優の味方だから。」


愛実はお酒の勢いもあってか、強い言葉をくれる。沙優は目を細めると、ありがとうございます、と丁寧に答えた。




 珠樹が再入社しても、研修中は部屋の遠い人事部にいるらしく、あまり会う機会はなかった。

 変わったことといえば、たまに出勤退勤時被った際に歩くペースを調整する必要が生じる程度だ。


 珠樹本人とはそうだったが、気になるようになったのは絵里だった。珠樹が戻ってきてからなんとなく睨まれている気がする。

 ただあからさまではなく、本当に気がする程度としか言いようがなく、なんとも居心地が悪かった。


 いっそあからさまに睨むか嫌がらせでもしてくれれば話もできるのに、とぐるぐると考えてしまう時もあり、沙優はなんとも精神衛生上良くない、と思いながら何もできず1ヶ月が経とうとしていた。


 絵里は沙優たち現行部に案件の資料を持ってくる部署におり、受け取りは普段麗が確認して受け取ることになっているが、不在時はオフィスにいる社員が受け取り、あとで麗に確認依頼をする。


 その日はたまたま麗もそれ以外の社員も出払っており、オフィスには沙優一人しかいなかった。


「お疲れ様です。」と絵里が入ってくる。


「お疲れ様です。」


 沙優は立ち上がって挨拶を返しながら、絵里に気付き仰け反りそうになる。あまりにもよりによってだな、と心の中で思いっきり顔をしかめる。


「案件お持ちしました。」


 その声は構えていたほど冷たくはなく、やはり考え過ぎだったのかと少し警戒を解く。それが良くなかった。


「ありがとう。そこ置いといてもらっていい?」


 沙優が言うと、空気が動くのを感じた。


「いえ、担当者へ直接お渡しする決まりですので。いつもそうしていないのですか?」


 絵里は急に冷たい刃のように問いを刺す。

 業務上のシンプルな質問であるはずなのに、責める力が強い。


 そこは確かに、マニュアル上はそうなっている。しかし印鑑などは不要のため守っている社員は少ない。

 暗黙の了解がマニュアルを追い越していると言っても良い決まりだった。


 絵里が来る時は極力目を合わせないようにしていたため、普段絵里が麗の不在時にどうしているのかは分からなかった。


 沙優だからこの対応なのか、誰に対してもこの対応なのか。


 「失礼しました。いただきます。」


 沙優は冷たくなってしまった自分の声に辟易しながら受け取る。


 ふと絵里を見る。目があったのでリンクしてみると、怒りの波が押し寄せてきてすぐに目を逸らした。


「お願いします。」


 絵里はさっき感じた怒りのかけらは一切感じられない声で業務的に言い残すと、足早に出ていった。

 なんとなく感じていた違和感が確かに怒りだったことに、沙優は思いの外ショックを受けた。


 直接的に絵里を怒らせるようなことは何も心当たりがない。あるとすれば環樹のことだろうが、環樹とはあのカフェでしか会っていない。

 あのカフェでのことを見られていたとしても、珠樹がとっくに説明しているだろう。


 何を怒っているのか聞きたいが、絵里はあまりに上手く感情を悟られないようにしている。


 リンクして怒りの感情を確かめたことを伝えなどしたら、一生和解することは不可能な気がした。

 



 「あれ、戸塚さん。一人?」


 しばらくして麗がそう言いながら入ってきた。


「あ、長野さん。お疲れ様です。」


 何も手をつけないまましばらく経ってしまっていたことに気づく。


 急に書類のことを思い出して、「あ」と言いながら思いの外勢いよく立ち上がってしまう。


 麗が少し目を丸くして沙優を見る。


「……すみません。案件の書類、預かりました。よろしくお願いします。」


 沙優はそう言って麗に書類を渡すと下を向いてそそくさと席に戻る。


 麗は珍しくふっと笑った。


「ありがとう。置いといてもらって良かったのに。なんか、大丈夫?キツい案件とかあったら相談してね。」


 麗はそう言い残すと座ってパソコンになんやら打ち込み始めた。


「はい、ありがとうございます。」


 沙優は邪魔にならないよう小さく返すと、長めの息を吐いた。




 その日は、結局仕事が全く進まず残業になってしまった。


 冬の夜のオフィスはひどく寂しい。室内なのに、暖房器具の埃っぽいどこか懐かしい匂いが余計に寂しくするのか。それとも今日はみんな定時で上がってしまったからか。


 おそらく後者だなぁ、と伸びをしながら今日何度目かの昼の絵里とのやり取りをまた頭の中でプレイバックしそうになる。


 これではいつまで経っても帰れないな、と顔を顰めるとパソコンに向き直る。

 

 しばらくすると、誰かが入ってくる音がした。


 気づけば時間は21時を回っていた。案外ちゃんと集中できていたらしい。


 誰だろう、と扉の方を見る。

 

 「……涼矢?」


 「沙優、本当にまだいたんだ。」


 涼矢はそう少し驚いたように言うと沙優の隣に腰掛けた。


 「赤坂さんが全然帰れなそうだった、って言ってたから試しに来てみたんだけど。」


 涼矢が差し入れ、と呟きながらコンビニの袋をトンとテーブルの上に置く。


 「え……ありがとう。」


 沙優は微笑むと立ち上がって伸びをした。


 不意に見上げる視線を感じると、涼矢と目が合う。

 

 「ん?」


 沙優がふわっと聞く。涼矢が少し言いにくそうに目を逸らす。


「ねぇ、なんか……あった?」

 

 いつもの申し訳なさそうな表情。


 沙優はそうだよね、と思う。が、絵里のことは自分でも整理ができてなかった。

 

 「え?何にもないよ。」

 

 沙優は一度逃げてみる。


 少し間が空く。


 自分がどんな感情でいるのかさえ、いまいちよく分からなかった。涼矢は更に分からないだろう。

 

「なんか気になることあった?」

 

 おずおずと聞き返してみる。

 涼矢は少し迷ったような素振りを見せる。

 

「いや……。」

 

 涼矢は沙優を見つめた。

 

「涼矢……?」

 

「最近……元気ないから。今日の残業とかも関係あんのかなって。……でも気のせいだったらごめん。」

 

 涼矢はそう言うと、視線を下に戻してコンビニ袋から飲み物を出し始めた。


 そのどこか悲しそうな表情は、沙優には耐えられなかった。多分、涼矢はこうなるのが嫌で職場では何も気付かないようにしているんだろうな、と考えてしまう。

 

「ごめん……。」

 

 思わずそう漏らした沙優に、涼矢はすぐに顔を上げた。

 

「沙優?」

 

 涼矢は下を向く沙優を見ると慌てて立ち上がる。

 

「ねぇ、謝らないでよ。」

 

 そう言いながら沙優を覗き込む。

 

「だって……嘘ついたから。何もないわけではないかも……。」

 

 沙優は下を向いたまま言う。

 

「ただ……」


「いいよ、言わなくて。俺の気のせいだったんだよ。」


 涼矢が眉をしかめて止めてくれる。


 どうすれば良いのか分からなくなる。


 自分が聞いて欲しいのか、言いたくないのか。涼矢の負担は?聞いた方がしんどくなる?隠された方が辛い?分からない。


 沙優はただ首を振った。


「気のせいじゃないよ……。それじゃ納得できないでしょ?」


 沙優の言葉に涼矢は泣きそうな顔をする。また、こんな表情をさせてしまったな、と思う。


「涼矢……。話しても……いい?巻き込みたい訳じゃないんだけど。」


 涼矢は不安気な表情のまま眉を上げる。


「萩野さんの……話なんだけど。」


「……うん」


「なんか……。いや、なんだろ。私が気にしすぎなだけなんだと思うんだけど。」


 沙優は少し苦笑する。絵里が悪いとは思っていない。別に問題は起こっていない。何を言おうとしているんだろう。

 

「待って、……。でもやっぱりなんでもないのかも。全然困るようなことはないんだよね……。なんか……私が勝手に考えすぎちゃってて……。」


 よく分からないまま話していると、急に視界が滲んだ。

 

「……ごめ……こんなつもりじゃ……。」


 溢れてくる感情と涙に、沙優は手で顔を覆って立ち上がった。カバンを持ってドアへ向かう。

 

「沙優、待って。」


 後ろから聞こえてくる涼矢の苦しそうな声がボロボロな心に響いて痛い。

 

「ごめん……俺のために無理したよな……。」

 

 沙優は振り向けないまま足を止める。


 ただ首を振ってそのまま小走りで部屋を出た。

 


 とりあえず駆け込んだ化粧室には、もちろん誰もいない。逃げ込んで溢れる感情に身を任せる。


 これまでひび割れないように塗り固めていた心の膜が溶けて柔らかくなってしまったのが分かる。


 なんでこんなに泣けてしまったのか、自分でも分からない。絵里のことは引っ掛かる程度で、泣くほど辛い訳ではなかったはずだ。

 

 そんな自分はやわじゃない。

 

 涼矢に知られてしまったから?


 弱いところを見せてしまったから?

 

 涼矢が辛そうだから?


 そう考えていると、「俺のために無理したよな……。」という悔しそうな涼矢の声がフラッシュバックする。


 条件反射のように涙が溢れてくる。これなんだ、と思う。涼矢に自責させてしまう自分が許せない。

 

 今もきっとあのままオフィスで待っている涼矢を思うと、居ても立っても居られなった。

 沙優は鏡と向き合い、気合いを入れるとサッと身なりを整えてオフィスへ戻る。

 

「涼矢……。」

 

 涼矢は机に肘をついて願うような姿勢で蹲っていた。


 沙優に気づくと体を起こして心配そうに駆け寄り、迷う瞳で沙優を捉える。

 

「涼矢、ごめん……本当に。余計困らせちゃったよね…?」

 

 下を向いてやっと伝える沙優の頭を、涼矢は優しく撫でる。

 

「沙優。」

 

 涼矢が今度は真っ直ぐに沙優の瞳を捉える。

 

「ねぇ、こっち向いて。リンクできる?」

 

 沙優は鼻を啜って前を向くと、頷いて涼矢に向き直った。


 涼矢の感情の波を探す。


 感じたのは感謝だった。

 

 驚いてそのまま見つめ続ける沙優に、涼矢は優しく微笑んだ。

 

「伝わってるから。いつも俺がリンクしても苦しまないようにしてくれてること。」

 

「涼矢……。」

 

「だから、言いたくないことも言えないことも、別にそう言ってくれればいいから。ね?俺だって沙優に辛い思いしてほしくない。」

 

 沙優はただ頷くと涼矢の手を握った。涼矢はその手をしっかり握り返す。


「優しすぎるんだよ、俺らはきっと。」


 涼矢が真顔で言う。


 沙優はふっと笑う。


「それ自分で言う?」


 吹き出す沙優を見て涼矢もやっと笑う。


「言うよ。お互い苦しみすぎ。」


 涼矢が沙優の顎に手をかける。


 沙優が涼矢を見上げる。


「それだけ好きなんじゃないかな。」

 

 そう言って目線を逸らす沙優を、涼矢は愛おしそうに見つめると、ゆっくりとキスをした。

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