2章
翌日職場に行くと、朝イチで涼矢が肩を叩いてきて、昨日何だったの?と聞いてきた。
なんとなく聞かれるだろうと思って沙優は準備していたが、別になんでもないよ、と実際答えてみると、予想以上に物足りない答えになってしまった。
ふぅん、と明らかに不満気な相槌を残して涼矢が去っていくと、隣で聞いていたらしい和也がわざとらしい小声で「なんかあったの?」と椅子を滑らせて近寄ってきた。
「なんでもないって言ったの聞いてましたよね?」
沙優は涼矢が残して行った不満気な空気を消化しきれないまま、ほぼ八つ当たりのように答えた。
「絶対なんかあるやつの答え方だったじゃーん。」
和也はまた自分の席に戻りながら口を尖らせて言い返してきた。
当たってしまってスッキリすると、確かに和也なら相談できるかもしれない、と沙優は思った。
幸い和也はもう完全に興味を失っていたようなので、改めて直球に切り出してみる。
「ねぇ、最近珠樹と連絡取ってます?」
和也はえ?と一旦間を空けたが、すぐに考え始めた。
「取ってないかなぁ。んー、最後連絡取ったのいつだったろ。」
「そういう感じね、オッケーです。」
そのドライな返しに、和也は思わず苦笑いする。
「聞いてきたくせに相変わらず冷たい返事ですねぇ。なんかあったの?」
沙優は少し迷ったが、和也ならいいかと思い相談することにした。
「昨日電話、かかってきて。何かなと思っただけ。」
「え、まじ?!」
思いの外和也が食い付いてきたので、逆に沙優が引いてしまう。その様子に気づいたのか、和也はすぐに気を落ち着けた様子で聞いてきた。
「出なかったんだ。電話。」
「なんか、びっくりして。」
「沙優ちゃんでもビビっちゃうことあるんだなぁ。」
やけにニヤニヤして言う和也に割と本気で腹が立ち、沙優は溜め息だけで返した。
「ごめんって。聞いといてあげようか、なんかあったか。」
「うーん、まぁ。でも‥別に。」
目線を落とす沙優に、和也は珍しく戸惑った様子を見せた。
「最近どーお?って聞けばいいっしょ?まぁ会う機会あったら聞いとくわ。」
和也は明るくそう切り上げると、何でもなかったかのように席に戻っていった。こういう気遣いができるところで、和也が年上なことを改めて実感する。
珠樹から再び連絡があったのはそれから2日後だった。
今度は電話ではなくメッセージだ。
『今日、仕事終わったあと時間ある?』
仕事中にこのメッセージを確認した沙優は、なんともいえない閉塞感を感じた。
あると答えても、ないと答えても、苦しくなることが分かっていた。
しかも返事は今日の退勤までに決めなければならない。実際時間はあったが、珠樹に会う覚悟が整っていなかった。用件だけでも先に知りたかったが、聞く勇気もさして整ってはおらず、結局休憩時間に考え抜いた挙句、「いいよ」の3文字を打つので精一杯だった。
珠樹が提示してきた待ち合わせ場所は、会社近くのカフェだった。
同僚に見られそうで気が進まなかったが、珠樹がたまたまこっちに用事があるというので仕方なかった。
待つのは癪なので、約束の時間ギリギリにカフェへ入る。よくあるチェーンのカフェで、見慣れたメニューを見上げて無難なカフェラテを注文する。
受け取って席の方を見ると2人席のソファー側を開けて椅子に座っている珠樹を見つけた。
相変わらずそういうところは気を使うんだな、と溜め息をつく。
「久しぶり。待たせてごめん。」
沙優が先手を切る。珠樹は眉を上げると、力無く答えた。
「ううん、久しぶり。ありがとね、仕事終わりに。」
「別にいいよ、場所こっちに合わせてもらってるし。」
もうかつての関係性が存在しない人と接するのは、なんとも変な感じがした。沙優が座るのを見て、珠樹はすぐに切り出した。
「俺、結局転職した仕事辞めたんだ。」
沙優は話の想像がつかなかった分、そういうことか、と少し構えを解いた。
「そうなんだ、キツかったの?」
「いや。まぁ悪くはなかったんだけどなんか合わなくてさ。長野さんにたまたま会って相談してたら、戻ってこないか、って言われて。
別の部門紹介できるかも、ってありがたいことに言って貰えて。だから、戻ろうと思ってる。」
「あ……そうなんだ」
本題はこっちか、と沙優は構え直す。確かに退職しただけなら沙優に伝える必要なんてない。
仕事に集中して別れると言ったくせに1年で辞めてまた戻ってくるなんて……やはりそう思ってしまう。
いつ誰から聞いたとて、沙優がそう思うことぐらい想像できたはずなのに、なぜ直接伝えにきたのだろう。沙優は眉をひそめた。
頭の中でまとまらない感情が交錯する。珠樹は沙優の顔をチラッと見るとまた目を逸らした。
「気まずいよな。ごめん。できるだけ関わらないようにするから。気にならないようにするからさ。それだけ伝えたくて。」
そう無責任に言い切る珠樹に、沙優は何かを言い返すのも面倒で、かといって何も言わずに去るのもそれはそれで癪だった。
「私は別に気まずくないよ。嫌いになって別れたわけじゃないし。」
沙優はかろうじてそう言うと、もう行こうかな、と時計を見ながら席を立った。別に急いでもないし予定もなかったが、これ以上いてもなんにも整理できない気がした。
珠樹もなんとも言えない様な表情をしていて、感じていることはお互い様らしかった。
「ありがとね。」
そう言う珠樹の声を背中越しに聞きながら、カフェを後にした。しばらく経ってから、そういえば電話出られなかったこと謝るべきだったか、と思い返すがもう遅い。
帰路を歩く間、沙優は思考が珠樹との楽しかった時間の懐古に傾くことを許した。
思い出としてしまっていた過去が、渦巻くように頭の中を荒らしていく。途中、涼矢からのメッセージ通知がきたが確認する気分になれず、そのまま家に帰った。
結局涼矢のメッセージを見たのはベッドに入ってからだった。
「気持ちの整理ついたら話して欲しい。力になれないかもしれないけど、俺が知りたい。」
涼矢のその力強いメッセージに、沙優は一度スマホを胸において天井を仰いだ。涼矢はやはり強い。
ソフトさんの珠樹とは明らかに違う。そこに甘えてもいいのかもしれない、沙優はそう思うと少し微笑むことができた。
「分かった、ありがとう。明日話すよ。」
沙優はそう打った後少し考えてから、「知りたいって嬉しいかも。」と付け加えスマホを脇に置いて眠った。
翌日涼矢とは偶然帰りが一緒になった。
「昨日、メッセージありがとね。」
沙優が言うと、涼矢は一瞬目を丸くしたがすぐに目を細めて礼を言われるようなものは送ってないよ、と言った。
「ううん、なんか、涼矢の強さを感じた。」
「何それ」
涼矢は正面を見たままふっと笑う。
「そこ座ろっか。」
涼矢は公園のベンチを指差して言った。
座って他愛もない話をしばらくしたころ、急に涼矢が改まって沙優、と呼んだ。
「これあんまりいい気持ちしないと思うんだけどさ‥知っといてもらった方がいいと思うから、言っとくね。」
急に涼矢の瞳が不安げに揺れる。また初めて見る涼矢の表情に、沙優は引き込まれる。
仕事中どれほどの感情を隠して涼矢が過ごしいるのか心配になる。
「俺さ、目見なくても勝手にリンクしちゃうんだよね。」
「え、すご。でもそれ疲れない?」
沙優が言うと、涼矢は目を細めた。やけに儚く見えるその表情はいつにも増して美しかったが、そんなことを思っている場合ではなかった。
「沙優はやっぱり優しいんだな。」
「え?」
「嫌がる奴の方が多いだろ、こんなん。」
「なんで‥あ、」
涼矢は笑った。
「そう、分かっちゃうんだよ。感情が。だから普段は仏頂面貫いて感情にできるだけぶつからないようにしてる。」
「なるほど‥。」
沙優は涼矢が仏頂面をしている自覚があったことにまず驚いた。
「あるよ、自覚。別に愛想出そうと思えば出せるんだから。」
涼矢はまた笑うと、探るように沙優を見た。
「え、すご。心まで読めるの‥?」
「いや、感情だけだけど。あんなびっくりしてたら考えそうなことぐらい分かる。」
涼矢は嫌そうに眉を顰めると、怒った?とふわりと聞いた。急に優しくなったその声に思わず心臓が跳ねる。
こういう動揺もお見通しである可能性を考えると確かに恥ずかしい。嘘をついても無駄なようなので、自分の感情を一度整理する。
怒りの感情はないことを確かめる。
「怒らないよ。怒ることではないでしょ。」
涼矢は苦い顔をする。
「ずるいとか居心地悪いとか言う人いるからさ。」
「涼矢…」
涼矢のあの職場での無愛想がそういった傷の蓄積であると思うと、不意に涼矢の見たことがない脆弱さに触れたような気がした。
「だから、嫌だったら言って欲しいんだけど。聞いてもいいかな。その薄い膜みたいな不安の感情がなんなのか。何があったの?」
涼矢は目を合わせず、前を見たまま言った。まるで怒られるのを嫌がって逃げるように罪を告白する子供のようなその表情に沙優は意地らしさを覚えた。
「いいよ、聞いても。大丈夫。私もリンクするからこっち見てよ。それでおあいこでいい?」
沙優がそう言うと涼矢は驚いたように目を丸くしてふっと破顔した。
あまりに可愛いその笑顔に沙優は胸を抑える。
「ちょ、ドキッとするなよ。こっちまで恥ずかしくなるだろ。」
「待って、リンクしてるとそうなるんだ。面白いね。」
沙優が笑うと涼矢は泣きそうな顔で沙優を見た。
「なんだよ。でも、ありがとう。自分がリンクされるなんて思っても見なかったわ。」
そう笑ってやっと目を合わせてくれる涼矢の目の端には少し涙が光っていた。
「お互い素直にいられそうだね。」
「まぁそうせざるを得ないよな。」
涼矢はそう言って笑うと、沙優の方に向き直った。
「で、なんなの?この薄い黒いのは?」
涼矢はそう言いながら沙優の胸のあたりを軽く突く。
「薄い黒い、か。なるほど。」
沙優は少し息を吸って自分の中でも整理しながら話し始める。
「昨日さ。実は珠樹に会って。」
「珠樹?」
涼矢は眉を顰める。覗き込む涼矢の目を見つめ返すと、心配してくれているのが押し寄せるように伝わってくる。
「そう、戻ってくるらしいんだよね。うちの会社に。」
そう言うと心配が一気に不安に塗り替えられるのが分かる。
「辞めたの?転職した会社。」
「そうみたい、合わなかったって。別に私が気にすることじゃないんだけどさ。なんでわざわざ会って話に来たんだろうって思って。」
「そっか。」
そう言いながら涼矢が目を逸らしたので、リンクが切れた。
「ねぇ、涼矢?」
そう言って涼矢を振り向かせるともう一度リンクが繋がった。寂しさと罪悪感が混ざったような感情に触れる。
「別に、心配するようなことはないよ?」
涼矢は2、3度頷くと急に沙優をふわっと抱き締めた。
その突然の優しい柔らかさに思考が止まる。
「ん‥?」
「ごめん。分かってるんだけどさ。沙優が珠樹のことまだ気になってることは知ってるし、その上で付き合ってって言った手前、俺が心配したりする権利もないんだけど。」
涼矢は沙優を抱き締めたままそう言うと、溜息をついた。
「涼矢‥私別に珠樹のことはもう好きじゃないよ。」
「うん、好きじゃないのは分かる。」
涼矢は拗ねたような表情をする。本当に、この豊かな表情をどうやって隠してきたのか不思議になる。
「でも不安?」
沙優は涼矢の目を真っ直ぐに見つめる。
「ごめん‥。だって無関心ではないだろ。」
そう下を向く涼矢の泣きそうな顔に、沙優は堪らなくなる。そっとキスをして涼矢の視線を自分に戻す。
「一ついい?涼矢はもう心配する権利あるから。不安になったら言って。」
そう話す沙優に、涼矢はまだ少し泣きそうな顔で頷くと沙優の肩に顔を埋めた。




