表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/6

1章

 やっと痛かった日差しも威力を弱め、秋口がかすかに見えてきた頃には、私が珠樹と別れたことが部内全体に共有されていた。

 別に涼矢が広めた訳ではなく、涼矢に話したことで、沙優自身に他人に話す心構えができたのだ。


 珠樹との関係は社内恋愛にあたっていた訳だから、我ながらまぁ確かに1つの大きな話題にはなるのかもしれない。二、三人に話せばあとは向こうから切り出してくれた。



「戸塚さん、この件代わりに向かってもらえる?パートナー和也で。」


 デスクで前件の整理をしていると、課長の麗が横から紙を滑らせてきた。

 麗は愛美と同い年の先輩であるが、あっけらかんとした愛実とは対照的に、実態を伴った責任感そのものというような感じなので、麗の方がかなり年上に見えた。


 麗はクレーム内容の重い件が入るとそちらを優先的にこなさなければならないので、彼の仕事が下っ端に回されることは多々あった。

 和也は麗とは同い年だが、転職でこの会社に入ったので一応沙優とは同期だ。


 「かしこまりました」と麗に返しながら資料に目を通す。


 購入したての掃除機が早々に故障したことへのクレーム対応、企業、顧客共に返金処理希望。

 企業と顧客の希望の対応方法が同じパターンは珍しい。そもそも両者の希望が一致しているなら、わざわざうちに委託する必要がないのだ。


 眉をしかめていると上から「謎だろ?」と声が降ってきた。


 見上げると支度を終えた和也が立っていた。


「はい、これうちに持ってくる必要あったんですかね。」


「いや、それがさ。その夫婦やばいクレーマーらしくて。喰らった従業員は今のところ十割辞めてるらしいよ。だから自分のとこでやりたくないんだとさ。」


「ソフトさんばっかり送ってたんじゃないの」


 私たちはクレームを直に心で受け止めてしまい、傷を負うタイプの優しい一般人のことをソフトさんと呼んでいる。

 まぁ、自分たちを異常者として認めたくないが故の造語とも言える。


 和也は苦笑いした。


「沙優様の前にかかれば、大抵の人はソフトちゃんだけどな。」


「うわ、それ全然嬉しくないです。」


 沙優は和也の軽口を交わしながら支度を整えて、先にオフィスを出た。


 クレーマー夫婦はしっかり二人揃って登場し、わざわざ来て頂いてすみません、などと丁寧に出迎えてくれたので、沙優も和也も思わず目を丸くしながらかしこまっていた。


 しかし和也の、「この度は誠にすみませんでした。」という試合開始の合図を起爆剤に、夫婦の怒りはしっかりと爆発した。


 その爆発に合わせて自分の感情をリンクさせようとしたが、かっちりとハマりかけた瞬間自分の気持ちが一瞬滑り落ちそうになり焦った。

 この人たちは話を聞いて欲しいだけのようだ。2人の生活に飽き飽きしており、第三者を加えることで退屈凌ぎを図り、ついでに偉そうに若者に説教を垂れることで、仕事では満たせなかったカラカラに干からびた年配のプライドを取り戻そうとしている。


 しょうもない、と面倒くさい、という自分の中の感情が押し寄せるのをなんとか留めて、やっとリンクに成功する。


 夫婦はあなたたちの会社の為を思って言ってあげているのだ。あなたたちにとってはたった一商品でも、私たちにとっては大切な生活必需品だ。などと、ありがたチックなお説教を散々説き続け、挙げ句の果てには「最近の若者は」という永年お決まりの愚痴スタイルをアレンジし「最近の家電は」などと語り出す始末で、驚くことに気づけば夫婦は二時間ぶっ続けでこちらの意見を聞こうともせず話し続けた。


 やっとのことで少しの話の途切れ目が訪れると、和也がすかさずまとめに入った。


「頂きましたお話全て仰る通りでございます、私共には勿体無いほどの貴重なご意見、誠にありがとうございます。

 そして、お客さまにおかけした多大なご迷惑は如何なる対応におきましても、償い切れるものではございません。」


 沙優もその機会を逃すことなく言葉を続ける。


「この度の代金は直ちにご返金致します。申し訳ございませんでした。

 弊社のことをこんなにも思ってくださっているお客さまに対して、不備のある商品を販売してしまいましたことは、弊社一同心より反省しております。

 すぐにと申しますのは非常におこがましいことと承知してはおりますが、お客さまにもう一度信頼して頂けますよう努力して参ります。

 お許しいただける日が一日でも早く参りますよう精進する次第でございます。この度は大変、申し訳ございませんでした。」


 沙優は自分の涙声と代金の入った封筒を持つ手を震わせて、頭を下げた。

 和也が隣で全く同じ角度で頭を下げているのを横目で確認する。これで決まらなければ帰れないぞ、と心の中で相手が封筒をとってくれることをただただ祈る。


 自分たちがやってあげていることはとても有意義であり、無知で無能なこの電気屋の従業員たちに自分たちがしでかした失敗の大きさを分かりこませてやらねばならない。


 夫婦のクレームの軸はそんなところであり、自分たちの未熟さと相手の言葉のありがたさ、懸命さを理解したということを伝えることが解決の鍵であると、和也も沙優もリンクした瞬間に読み取ってはいた。

 ただ、この夫婦の話を聞いて欲しいという欲望だけが厄介で、長期戦に持ち込んでいる原因だった。


 結果、夫婦は沙優の涙に同情したのか封筒を受け取り、そのまま二人の解放を許した。



「いやー長かった、マジで。どんだけ喋るんだよあの夫婦。」


 オフィスまでの帰り道、和也が伸びをしながら嘆いた。


「本当ですよね、私めんどくさって思って1回リンク失敗しかけました。」


 和也が吹き出す。和也の笑い方はカラッとしていて思わずもっと笑わせたいと思ってしまう。


「やっぱあのあっ!て表情の時そうだったんだ、すぐ持ち直したから気にしなかったけど。」


「なんだ、バレてたんだ。」


 沙優は嫌そうな表情を和也に向ける。


「リンク失敗したら悪夢だからな。」


 和也は自分の体験でも思い出したのか、顔をしかめて下を向いた。


「にしてもさ、やっぱ沙優泣くの上手いよなぁ。」

「いや、愛美さんには負けるよ。」


 沙優は謙遜などではなく、当然の如くさらっと言う。それが思いの外和也には不満だったらしく、子供っぽく反論した。和也には未だ子供の影が残っていて、そこが沙優にはとても羨ましかった。


「愛美かよ、そこは俺褒め返すんじゃないの。」


 そう言いながらもしっかり大人としての意見を言えるのがまた和也のすごいところだ。絶対に本人に伝えることはないだろうが。


「そりゃ愛美は愛美で上手いんだけど、沙優は反省の涙って感じがするんだよ。自分が悪かった、許して欲しいみたいなね。愛美のは頑張ってる人の悔し涙って感じで同情誘う感じなんだけど。」


「なんか私って必死なんだね。愛美さんみたいに余裕あって格好いいのがいいなー。」


「それがいいんだよ、ほんと天職だよなぁ、この仕事。」


 和也はそう言ってニヤッと笑った。


「ずっと分からないんですけど、さっきから褒めてます?けなしてます?」


 沙優が視線で刺すと和也は怯えた表情を作って褒めてます褒めてます、と両手を上げた。沙優はふっと力の抜けた笑いを漏らす。


「なんかこの仕事で褒められると複雑な気持ちになりません?」


「まぁ、仕事が仕事だからな。」


「分かってるならやめて下さいよ。」


 沙優が少し睨むと和也は縮み上がるフリをして謝った。


 オフィスに戻ると涼矢しか残っていなかった。


「涼矢まだいたのか。」


 和也が驚いたように声を上げた。


「日野さんこそ直帰じゃなかったんすか。」


「いやちょっと運動して帰ろっかなって。」


「うわ、じゃあ俺帰りますね。」


 涼矢はさして冗談でもなさそうな勢いで帰り支度を始めた。隣にいた沙優も露骨に顔をしかめて一本退いた。


「まさかその為に帰ってきたんですか?言ってくださいよ、私先帰ったのに。」


「いやいや、レポート書くだろ?」


 和也は半ば懇願するように確認してきた。


「書こうと思ってましたけど、叫ばれると書けないですって。」


 和也は純粋な納得を見せてしばらく考えるような顔をしたが、すぐに意を決したような表情で腕を出口に向かって伸ばし、頭を下げた。


「じゃあ、お疲れ様でした。お気をつけてお帰りください。」


 沙優は思わず涼矢の方を見た。目が合う。二人ともふっと笑った。


「そんな溜まってるんですね、了解です。」


 沙優が笑みの余韻を残したまま言う。


「発散は優先事項だししょうがないっすね。


 涼矢もまた珍しく笑みを含んで言った。


 その後、せっかく一緒になったし、と言って涼矢が珍しくご飯に誘ってくれたので、ここ最近ずっと食べたかった焼き鳥にしようと沙優は決めた。

涼矢はいつも自分から誘うくせになんでもいいというのだ。


「今日の顧客、そんなきつかったの?」


 注文が終わると涼矢は眉をひそめて聞いた。


「きついと言うよりは面倒かな。喋り相手欲しいだけの倦怠期夫婦。」


「よくそんなうまく要約できるよね。」


「そこに反応してくれるんだ。」


 沙優は思わず柔らかく笑い声を漏らす。


「いや、分かりやす、と思って。」


 そりゃ何より、と言い終わったところでちょうどよくビールがくる。そういえばこの焼き鳥屋さんで会話を遮られた事がないな、とチラと思う。


 ビールに口をつける前に涼矢が初手を切り出したので沙優は一度グラスを置いた。


「あのさ‥」


 話しかけてきた割には目線は机上に注がれたままで、沙優は一度置いたグラスにもう一度手をかける。


「付き合ってみない?」


 沙優は再びグラスから手を離す羽目になった。しっかり聞き取れたくせにえ、と聞き返す。


「付き合ってもらえませんか。」


 律儀に繰り返した涼矢の目線は最早膝の上に落ちていた。


 涼矢は一緒にいて落ち着く存在ではあった。ただ、それが恋かと問われれば違う、と答える類の関係だと思っていたからすぐに答えられなかった。


 答えられなくても涼矢は怒ったりしない、そう分かっているが故の甘えもあったかもしれない。沙優は沈黙で返してしまった。


「ごめん、別れたばっかでそういう気分じゃないとかなら待つし、脈無しならすぐ諦めるから。ただ、別れたって聞いた時からずっと言いたくて。ダメなら遠慮なく言って。」


 涼矢はそんな優しい言葉をかけると、やっと顔を上げた。


 薄々感じていたことだが、涼矢は性格抜きにして考えてみると、爽やかな顔立ちをしていた。

そういえば愛美がこの前、涼矢は愛想がないっていう欠点が第一印象で刻まれちゃうからもったいない、とか言っていた気がする。

まぁ、普段目つき悪いですしね、と返したのが沙優だ。そんな爽やか顔がいつになく優しい言葉を発し、こんなにまっすぐ見つめてきたら、元来面食いの沙優の心も流石に揺らぐ。


「お願いします。」


 タイミングを逃さないように、気づいたら焦ってそう口にしていた。涼矢は初めて聞く感情的な声で、本当に?と聞き返した。


「うん。私のどこがいいのか知らないけど、そんな風に思ってくれてるなら、私も付き合いたい。涼矢といると落ち着くし。」


 「ありがとう。」と涼矢は目を細めた。 

 

 涼矢と付き合うという実感は全く湧かなかったが、少なくともこの笑顔が見られて良かった、と沙優も微笑んだ。


 沙優の休日は基本ソファで始まりソファで終わる。思いの外美味しく淹れられたコーヒーを優雅に啜っているとテーブルとスマホがぶつかり合う音が急に響き渡った。


 沙優はいつも電話がかかってくると、スマホが痙攣を起こしたかのような不気味さを感じる。画面に涼矢と名前が出ていて、少し安心する。


「どうしたの?」


『今日暇?昼メシか晩メシでも一緒にどうかなと思って。』


 涼矢との関係が変わってから表情は比較的柔らかくなったが、声に関しては相変わらずの愛想の無さだった。


「暇だよ。どっちでも大丈夫。」


 あの告白があった日以来、二ヵ月ほど経っていたが、二人は一緒に帰ることはあっても、なかなかプライベートで会ったりはしていなかった。それゆえに、向こうが夕飯がいいと言えば、それなりの進展は覚悟しなければならないな、と答えてから気づいた。


『じゃ、晩メシで。』


 涼矢はあっさりそう決めると、時間と待ち合わせ場所を淡々と述べて電話を切った。もし涼矢の隣で聞いている人がいたら、仕事の打ち合わせ?と聞かれているだろう。


 珠樹ならこうだった、とつい考えてしまう。

比べるのは良くないともちろん分かってはいるが、頭が勝手に考えてしまうのだからしょうがない。珠樹なら、夕飯食べてそのまま沙優の家行っても良いかな、と照れ臭そうに言っただろうな、とか。


 珠樹は自分の見せ方を良く分かっているタイプだった。恋愛気質とでもいうのだろうか。あの頃の沙優はまんまとそれにハマってしまっていたように思う。


 涼矢は真逆のタイプだから、この先物足りなくなったりするのだろうか、と不安になる。それでも、Tシャツにジーンズで現れるであろう涼矢の服装にどう合わせようかと考えていると、とりあえずなるようになるか、と思えるのだった。




 秋の始まり特有の澄んだ冷たい風が沙優の髪をふさふさと揺らす。いつもと変わらないはずなのに、風が冷たくなっただけで夜の暗さと街の明かりのコントラストにどこかもの悲しさを感じる。

年の終わりがよぎるのか、夏が終わってしまった寂しさなのか。


 待ち合わせ場所には案の定半袖のTシャツに細身のジーンズを身にまとった涼矢が待っていた。

涼矢の軽い髪は風になびいて、サラサラと音がしそうなくらいしなやかに揺れていた。


 沙優は好きだな、とふと感じる。


「沙優」


 涼矢は沙優を見つけるとふわっと笑った。

こんな笑い方、職場の同僚が見たらみんな替え玉かと疑うだろうなと可笑しく感じながら、沙優も微笑み返す。


「遅くなってごめん。」


「いや、急だったのにありがと。」


「ううん、こちらこそ。」


 涼矢と話していると周りの空気を柔らかく感じる。付き合うようになってから、より強くそう思うようになった。


「ねぇ」


 自分の呼びかけに眉を上げて優しい瞳を向けてくる涼矢に、沙優は思わずひと息吸った。

一日中この調子で接されると完全に落ちる。

いつもこうなら会社にファンクラブの一つや二つはできただろうに、と余計なことを考えてしまう。


「涼矢ってそういう表情できるんだね。」


 涼矢は眉を下げて困ったように笑う。こりゃダメだ、と観念して沙優は素直にその微笑に魅せられる。


「そりゃできるよ、人間つくりはみんな一緒なんだから。」


「何その返し。そりゃそうだけど、今まで見たことなかったから。」


「まぁ、仕事中は表情動かす必要ないし。」


「それもそうなんだけど、極端じゃない?」


「そうか。変かな。」


 涼矢は目線を前に向けたまま聞いた。身長差のせいで涼矢の表情は見えない。


「変ではないんだよ。ただ……」


「ただ?」


 涼矢の澄んだ瞳が沙優を射抜く。沙優は覚悟も決めないまま急かされたように言葉を続ける羽目になった。


「格好良すぎて……」

 涼矢は一瞬目を丸くしたが、すぐにふっと力が抜けるように笑った。


「なに、そんなこと思ってたの?嬉しい。」


 そう言う涼矢の笑顔が眩しすぎて沙優は目を細めた。涼矢が沙優の手をとった。意外と自分の容姿の良さを理解しているアイドルタイプなのかもしれない。言動の流れに慣れすぎている。

 沙優はのめり込んでいきそうな感情に危険信号を出す。


「涼矢って結構モテる感じ?」


「何、警戒してる?」


 涼矢の視線が降りてくる。沙優は逃げるように前を向いた。


「いや、新たな一面が多すぎて。」


 涼矢はハッと笑った。


「ごめん、だから警戒した。」

「素直。」


 涼矢は更に笑った。


「モテないよ、残念ながら。」


 そう言いながら覗き込んでくる涼矢はますます信用できなかった。それをごまかすのもなんだったので、ふーんとその謙遜を流す。


「うわ、やっぱ素直。」


 そう言いながら前を向き直した涼矢の声はまんざらでもなさそうな程ご機嫌だった。本当にこの人は同期の涼矢なのか、沙優は少し目を細めた。



 時に戻りたくなる過去がある。

沙優はよくその過去に飲まれて、思い出の中でしか思考できなくなる時があった。


 特に珠樹が同僚だった時のことは、一度思い出に足を突っ込むと抜けられなくなる。

珠樹とは付き合っているという噂があったにもかかわらず、よくペアになった。


 当時から課長であった長野(れい)には、噂など気にならなかっただろうし、そもそも耳に入っていたかも怪しい。珠樹は仕事の成果しか気にしないから、私たちが組むと成功率が高いという事実だけでペア決めしていたのだろうと思う。


 事実、私たちは仕事上でもいいコンビだった。私が相手の感情に乗って謝る横で、珠樹はまるで具現化された責任感そのものの如く、心を固くして頭を下げる。クレーマーには、そのコンボが効くらしく、早々に返してもらえることが多かった。

 のちに謝罪やお褒めの言葉を頂いた、という事例もあったほどだ。我ながらこの仕事向いているかもしれない、なんて調子良く思っていたが、今考えてみれば、間違いなく珠樹の功績だった。


 珠樹は優秀だった。

しかし向いていた、とは言えなかった。

心が弱すぎたのだ。彼はリンクを使えてもなお、ソフトさんのままだった。

 

 クレーマーが手始めに突き出す刃は珠樹の心を裂き、すぐに癒えることもないまま、彼は新しい傷を増やしていった。珠樹は和也のような、ストレスリセットの術も持っていなかった。

 

 だから、すぐに壊れた。何を言っても、表情が変わらなくなった。仕事中の涼矢でも、あの時の珠樹よりは表情豊かだった。


 デートなんて気を使わなくてもいいのに、しょっちゅう公園に行こう、と言われた。隣に座ってただ黙っているだけだったが、誘ってもらえるだけで嬉しかった。


 珠樹が変わったのは、萩野絵里(えり)が来てからだ。2つ下の新卒として絵里が入ってきた時に、珠樹はトレーナーとして彼女についた。


 そして、珠樹に表情が戻った。どこから見ても、絵里のおかげで珠樹が自分を取り戻したのは明白だった。沙優はいつ振られるかと気を揉みながらも、自分から振るのは嫌だった。珠樹が好きだったのだ。

 

 例え、絵里が彼にとって特別な存在だとしても、嫌いにはならないらしかった。それに、やはり沙優に対しても元通りの珠樹に戻っていたから、デートが楽しくて仕方なかった。


 心を修復した珠樹はすぐに転職活動を始め、仕事が決まると迷うことなく退社し、沙優に別れを告げた。


 何度思い出しても苦い記憶だ。前に進んでも進んでも、記憶はピタと追いかけてくる。


 絵里とは今でもたまに会社で会うこともあるが、さすがに気まずいのか、明らかに避けられているようだった。

 珠樹と絵里がその後どうなったのかは知らないが、あの感じだと付き合っている可能性が高いと思っていた。どちらにせよ、考えれば考えるほど自分がズブズブと下に沈んでいくのがわかっているので、頭の中を極力無にするようにしていた。



 涼矢は仕事中でも沙優に優しい表情を見せるようになっていたので、涼矢との関係がバレるのに時間はかからなかった。


 大半の同僚にどうしたらああなるのだと怪しまれたが、自分でも全く分からなかったので、「さあね」と正直に答えたものの、周りからは勿体ぶらせた惚気だと捉えられてしまったようだ。


 多少、いや大いにイジられはしたものの珠樹のことで心配をかけた愛美や和也からは、乗り越えたようでよかったよ、と安心された。

 依然として沙優以外には冷遇を貫く涼矢の株は大いに下がったが。


 涼矢と沙優がペアで仕事を任されたのは、彼らの関係が十分周知され、ちょうど馴染み始めた頃だった。

 もちろんペアを決めるのは麗なので、沙優たちがどんな関係にあろうと関係なく組まれるのだが、周りは少しざわついた。


「涼矢と行くの初じゃない?同期なのに意外と二人一緒に仕事してるとこ見たことないよね。」


 案件を言い渡された後、一緒に昼食をとっていた愛美は、いつも飲んでいる紙パックジュースにストローを差しながら言った。


「そうなんですよ。長野さんのことだから、相性悪い認定とっくにされてるものだと思ってたんですけど。」


「あ、あれじゃない?麗も流石に沙優には気使って愛想の悪い涼矢とは組ませないようにしてたんじゃない?」


「それで、私に優しくなったからもう大丈夫かな、ってことですか。」


「そうそう。」


「長野さんって私にそんな気使ってくれてたんですかね。」


 沙優は少し半信半疑で聞いていたが、愛美はあまり冗談でもなさそうだった。


「麗って真面目すぎて堅い印象あるかもしれないけど、意外とみんなに気配ってるんだよね。それゆえに課長に昇進できたんだと思うよ。」


「仕事できるって一口に言っても意味が深いですね。」


 沙優は納得しつつ、人の上に立つとはやっぱり大変なことだなぁ、と他人事ながらに思うのだった。


 担当を任された案件は異物混入だった。クレームの中でも、これは一番厄介だ。うちの会社に異物混入の案件は滅多に回ってこない。


 というのも、向こうの過失か顧客の勘違いかの境界線が曖昧なのだ。会社の過失となれば、それは処理できるようなクレームではなくなる為、自社で対応するのが一般的である。

 それでも依頼してくるケースはあり、大体よっぽど対応したくない客であることが多かった。


 なぜそんな案件を初ペアに任せたのか、ますます麗が分からなくなる。


「準備できた?」


 涼矢が今にも出発しようという体勢で聞く。

案件への不安と疑問は拭いきれないが、物理的な準備はできていた為うなずく。この仕事では揺らがない誠意を見せられるかどうかが成功の鍵だ、揺らいではいけない。


「行こう。」


 沙優は気合を入れて立つ。


 気合を入れた沙優とは裏腹に、涼矢は極めて落ち着いていた。


「そういや、俺ら一緒に仕事したことないよね。」


「ないよ。涼矢ってどのタイプなの。泣き落とし?」


「男の泣き落としほど醜いもんねえわ。」


 涼矢は露骨に嫌そうな顔をした。


「ちょ、原田さんに聞こえるって。」


 そう言うと、涼矢はやっとふっと笑った。


 原田さんは年配のおじさんだが、泣き始めるタイミングがもはや神業と呼べるほど絶妙で、泣き落としの原田と言われている。


「原田さんの泣き方はレベルが違う。あれはその辺の泣き落としと一緒にできない。」


「その辺の泣き落とし、ね。」


 沙優もふっと笑う。いい雰囲気だと思った。


「私その辺の泣き落としだけど、気にしないでね。」


「マジかよ。」


 涼矢が眉を下げて笑った。それを見て沙優も微笑み返す。


「この案件、何が入ってたか教えてくれなかった、ってやばくない?とりあえず来て見てみろ、の一点張りって書いてあるけど。クセ強そう。」


「とりあえず早く終わってくれりゃなんでもいい。」


 涼矢は面倒くさそうに言った。


 沙優はこなすタイプか、と予想する。

彼の普段の愛想のなさから考えると、相手を諦めさせるタイプなら納得できる。


 指定の住所に到着すると、そこは古びた家屋だった。生活感を絵に描いたような庭がある一軒家だ。


 涼矢は「箕輪さんね?」と家を直視したまま確認なのか、独り言なのかよく分からない声量でつぶやくと、躊躇なくドアまで進み、インターホンを押す。


 沙優はそっと背筋を伸ばした。


「やっと来たか。」


 そう言ってドアから覗いたのは、高齢の男性だった。


「こんにちは、石富製菓から参りました、長野と申します。


 予想外にハキハキと話す涼矢に一瞬驚きながらも、沙優も間髪入れず名乗る。


「戸塚と申します、この度は弊社の製品に問題があったとお伺いしておりますが、製品拝見してもよろしいでしょうか。」


「あぁ、ちゃんと自分の目で見ろ。」


 そう言うと箕輪さんは少し部屋に戻り、スナック菓子の袋を手に戻ってきた。


「おうよ。」


 箕輪さんがその袋を沙優に渡す。上が空いている。沙優はリンクするタイミングが今しかない、と思い老人の目を見る。と、急に愉快な気持ちが入り込んできて戸惑った。怒りやネガティブな感情が見当たらない。


 しばらく固まってしまっていたらしく、箕輪さんは流石に痺れを切らしたのか、声を大きくした。


「早く自分のやったことを見んか。」


「はい。」


 ハッとした沙優はそのまま袋の中を除く。そして次の瞬間あっと声になったかならなかったかのような音を出し、袋を落とした。隣で目を細めた涼矢が拾い上げ、ちらと沙優を確認すると、静かに中を覗く。


 沙優とは対照的に、涼矢は冷静だった。


「カエル‥ですか。」

 そう、入っていたのは干からびたカエルの死骸だった。到底生きていたものとは思えないほどの酷い亡骸だった。


 涼矢は同じ物を見たとは思えないほどの落ち着きで、老人の方を真っ直ぐに見据え、全く揺らがない声で続ける。


「本社の方でも、このようなものが入っていたとは予想できておりませんでしょうから、直ちに確認いたします。少しお時間を頂けますか。」


 涼矢は袋を持ったまま、電話を取り出す。


「確認するも何も入ってたんだからまず謝らんか。」


 この時も、感じたのは怒りではなかった。焦りだ。


 沙優はちらっと横目で涼矢を確認する。涼矢の目は依然として感情を伴わない。


「謝罪は、私どもがそのような物を入れて販売したと認めることを意味します。もちろん、箕輪様を信じてはおります。


 しかし、干からびたカエルの死骸が入っていたという事実を受け入れるには、慎重にならざるを得ないのもご理解頂きたいのです。


 弊社は社員一同、毎日衛生管理には細心の注意を払い、取り組んでおります。チリ1つ、髪の毛一本見逃さないよう取り組んでおります。

 そのような状況下で、今回のような大きな異物が入っていたということは、全社員間の信頼関係だけでなく、会社自体の継続価値の損失に値します。


 もちろん、箕輪様が袋を開けたその瞬間に異物が入っていた、と仰るのですから、私どもは会社を上げてお客さま皆様に謝罪せねばなりません。


 それほど、大きな謝罪をこれよりさせていただく訳ですから、過失がどこで起こってしまったのか、そちらの確認だけでも今させて頂けませんでしょうか。


 無論、過失の原因を明らかにしないまま、箕輪様に謝罪申し上げるのも失礼にあたるでしょう。」


 涼矢の眼光はいつにも増して鋭かった。

そして、一ミリとて揺るぐことなく、泳ぎ続ける老人の目を刺す。


 涼矢は一礼すると、一歩下がり袋を持っていない方の手で、番号を押し始める。


「分かったよ。」


 箕輪さんから諦めの感情の波が押し寄せる。

 沙優は、だから依頼案件なのか、と思った。


「わしが入れたんだよ、いつも謝りにくるお姉ちゃんがよ、いい反応するからついいたずら心でよ。」


 老人は恥ずかしそうに言う。笑えない、と自分の感情に支配されそうになるが、必死で押し止める。

 次に寂しさの波が来ることは予想できた、その波に備える。


「箕輪さま」


 沙優は呼びかけて、全てを受け入れる覚悟を込めた眼差しを老人に向ける。目が合う、沙優はそのタイミングを見計らってリンクを強める。


「弊社の製品を、ご愛好いただいておりますことは、大変名誉なことでございます。私どもは、とても嬉しく感じているのです。


 しかし、このような行為によって、少し裏切られたように感じてしまいますのが、正直なところでございます。


 私どもは、箕輪様含め、お客さま皆さまの幸せを願い、日々お菓子を製造しております。


 一袋一袋、心を込めて。だからこそ、異なる方法で信頼するお客さまにご利用されてしまいますのは、残念なのです。


 弊社にご意見がございましたら、是非なんでも仰ってください。私どもは改善の努力をいたします。」

 

 ここまで言ったところで、箕輪さんの感情が大きく動くのが分かった。少し間を開ける。


「わしは、お前さんとこのお菓子は好きなんだ。好きだからこそ、いたずらしたりするだろ。

これぐらい付き合ってくれたっていいじゃないか。お宅のお菓子は毎日買って食べてるんだ。」


 恥ずかしさと取り繕う気持ち、もう少しだ、と思う。


「箕輪さん、だからこそ、でございます。

いつも弊社のお菓子を食べて下さっている箕輪さんにこそ、弊社のお菓子を大切に食べていただけると嬉しいのです。」


 ひとつひとつの言葉に優しさと、涙の予感を滲ませる。


 しっかりと箕輪さんの目を捉える。


「そんな言われちゃあ、たまらんわ。もうやんないよ。はよ帰んな。」


 箕輪さんはそう言うと、そっけなく振り返ってドアを閉めた。


 沙優と涼矢は誰もいないドアに、示し合わせたように頭を下げる。庭を出るまでが仕事だ。

 ゆっくりと静かに歩き、やっと箕輪さん宅から死角に入り大通りに出て、やっとふっと息を吐く。

 


「沙優、ごめんな。」


 涼矢は開口1番目を細めて、覗き込みながら言った。


「え?」


「俺が先中見るんだった。」


 涼矢は袋をすっと指差す。


「あ、ううん。」


 まだ持っていたんだ、と思うと同時に先程のカエルの絵が脳裏にフラッシュバックされる。


「沙優、大丈夫か?」


 沙優が急に立ち止まると、涼矢は沙優の手を引いて引き寄せた。自然と涼矢に向き合う形となる。


 沙優は気持ち悪くなっていた。脳の拒否反応とリンク後の身体的ストレスの相乗効果のせいか、視界すら安定しない。


「ほんと、ごめん。あれは酷かったな。どっかで休も。顔色悪いわ。」


 涼矢はそう言って、何も返せずにいる沙優の頭を軽くぽんぽんと2回叩くと、沙優の手を引いて先を歩き始めた。


 沙優は正直引っ張られるので精一杯なほど、体力を削られていた。涼矢が気づいてくれて良かった、と心の底から感謝した。

 


 二人は近くの公園で休むことにした。幸い木が多い公園で、ちょうどいい木陰があり、普段なら気持ちよく感じただろうが、沙優にとってはそれどころではなかった。


 ベンチに座ると同時に、前屈みになって両手で頭を支える。


「沙優、大丈夫か。」


「ごめん‥気持ち悪い‥。」


 それを聞いても涼矢は驚かなかった。


「まぁ、あんなもん見たらそうだよな。」


 沙優は黙って頷く。情けなかった。どれだけ精神的ストレスを負ったところで参ったりしない自信はあった。が、この手のタイプには耐性がないらしい、弱すぎる。


「ごめん、時間もらっちゃって。」


「謝るなよ。休んでから帰ろ。俺水買ってくる。」


「ありがと‥助かる。」


 沙優はしばらく蹲るようにして目を閉じていた。水を買って戻ってきた涼矢は、ただ黙って隣にいてくれた。今の沙優にはそれが一番ありがたかった。

 

10分ほどで体調は落ち着いた。頭痛がやんわり残っているが歩けないほどではないので涼矢に礼を言い、行こう、と声をかけて立ち上がる。


「待って。」


 涼矢はそう沙優の手を取って引き止めると、包み込むように抱きしめてくれた。


 落ち込んでいた感情が急に和らいで軽くなって行くのがわかる。涼矢のハグは柔らかい。


「涼矢‥」


「無理すんな。必要なだけ休んで。」


 涼矢は沙優を覗き込んでそう言うと、目線を合わせ、マシになったか?と心配そうに聞いた。


 沙優はうなずいてもう一度お礼を言うと、自分から涼矢に体を預けた。そのまま涼矢が頭を膝に乗せ寝かせてくれる。


「涼矢がペアで良かった‥」


 沙優は目を閉じながら言った。


「これ想定して組んでたのだとしたら、長野さんもワルだよなー。」


 涼矢が沙優の頭を軽く撫でて言う。沙優は目線を涼矢から外しながら思わずふっと息を漏らす。


「知らないようで、なんでもお見通しなのかな。」


「怒ってる?」


「怒る、か。その発想はなかったかな。」


 沙優が目を細めると、涼矢は笑った。


「そういうとこ、好きだよ。」


 涼矢が恥ずかしげもなく言う分、こちらが二倍恥ずかしくなる。堪らず行こう、と促して起き上がり公園を出た。


 会社に戻ると、愛美が残っていた。


「あ、お帰り」


「戻りましたー。」


 涼矢は愛美の方を見もせず業務的に返すと、自分のデスクへ向かった。

 涼矢が行ってしまうと、愛実は相変わらずだねぇ、と渋い顔をした。


「ですね。」


 沙優は頬が緩むのを必死に抑えながら、同じように渋い顔を作った。


「どうだった?初ペア仕事?」


「まぁ、顧客の癖は強かったですけど、良かったんじゃないですかね。」


「よかった、か。」


 愛実はこれでもかというぐらいニヤニヤしながら言った。


「なんか、え‥?なんかいろいろ想像してません?」


 沙優が表情を意識しながら言うと、愛美は破顔した。


「バレたか。」


 そう言って笑う愛実を見ながら、沙優は救われた気持ちになる。やはり、いつもの相方の笑顔ほど安心するものはない。


「なんかでも、愛実さんの顔見ると実家に帰った安心感感じました、なんですかこれは。」


 沙優が気持ちを抑えられずそう笑うと、愛美はカラッと笑って、ご飯でも行くか、と誘ってくれた。

 沙優はもちろん、二つ返事で承諾し、早く仕上げるべくレポートに取り掛かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ