温泉 3/4
木の棚に、編まれた籠に、扇風機に、針で示すタイプの体重計に。垂れ幕を潜れば一昔……いや、もう少し前の銭湯を思わせる脱衣所が広がっていた。
入り口すぐの場所で振り返ってみれば、やはりもとの部屋は見えない。潜る前にもこちら側が見えていなかったから、何か対策がされているのだろうか。
部屋を見渡してみれば棚の1箇所に真っ白なタオルが置いてある場所があったので近づいてみる。そこにはお客様用の札が傍に置かれていて、これがぼくのために用意されていたものだとわかった。
大きめと小さめのタオルが数枚ずつしか置いていないのは、それ以外は必要ないからだろう。問題はぼくが清潔の魔法を使えないということだけど、きっとマットとかに付加してあるはず。
無ければ……どうしようか。使えないことはないのだけど、使いたくはない。イナバに頼むのは恥ずかしいから、姉さんに頼むしかなくなりそうで微妙な心境になってしまう。
まあ浴場に洗い場とシャンプーやら石鹸やらが用意してあれば問題はないから、今悩むことではないかな。そう思い服に服に手をかけて脱ぎ始める。
……服を脱ぎ終えて、身体を隠すように大きめのタオルを撒いたところで1つ思い出した。
パンツ事件の時、実は溶かされたスカートもパンツも再展開と呼ばれる方法でもとに戻せたらしいのだ。それを聞いたのはイナバからではなく、姉さんから。
まあイナバが解決方法を知っているのはわかっていたけど、それを要求するのは気が引けた。どこまでが『普通』か判断しかねる新たな世界の常識に踏み入ったばかりでは迂闊に動けなかったから。
今なら間違いなく要求する。街で何人か、それも第3陣のうちでも何人かは同じことができるみたいだから。
と、そんなことを考えながら髪を結っていた手を止める。
日本の常識に合わせるなら髪を結い上げるべきだが、ここの管理者は日本どころかアルファ世界の住人ですらない。そのうえ異世界の温泉では髪を浸すことを良しとするみたいだから、そちらに倣ったほうが良いのかもしれない。
同じお湯に同郷の人が入るのなら、同じ常識を持つ人が入るのなら考慮すべきだけど、今回はぼく1人。効能が遥かに高い異世界のお湯なのだから、要らぬ常識にこだわって最善を捨てたくはない。
そう思い髪をほどき、籠の中から黒いリボンを2つ取り出して首の高さで2房に結ぶ。そして浴場に向かう前に、設置してある姿鏡の前へ。
小学生のような身長をしたひ弱そうな身体は真っ白なタオルに包まれていて、覗く手足は日光が不足しているように白い。
真っ白な髪は膝丈に届くほど長く、首の後ろで黒いリボンを使って2房に纏められている。
こちらを見つめる血のように真っ赤な瞳は透き通っていて、穢の1つも無く"見える"。
少年ではなく少女にしか見えないこの身体が、あまり好きではなかった。
別に少女に見えるから、ではない。姉さんに似ている整った容姿は色々と便利だし、色白白髪赤眼といってもアルビノではないので外に出て日光を浴びても問題ない。
あれを思い出させてしまうから、理由はそれだけだ。
もう解決できないそれは、もとに戻れないそれは、きっと受け入れるしかなくて。姉さんの力不足ではないというのに、むしろ小さな力であそこまでしてくれて、とっても嬉しくて。
でも姉さんにとっては足りなかった救いの手でしかない。戻せなかった結果でしかない。
と、こんなことを考えていても、後悔していても鏡の奥の顔は表情を変えない。視られているのだから、変えるわけにはいかない。
ここでぼくの心境を理解できるのなんて、それこそ姉さんだけ……じゃなくて、今はイナバもいるのだった。
きっとあの子はぼくの心の奥底を当ててくる。読み取れなくても当ててくる。だから隠すことなんてしないけど、話すこともしない。
……むぅ。こんな時には幼い子供のように表情が緩んでいる。
悲しい時には崩すことはせず、嬉しい時だけ、見せつけるように表情の枷を解き放っている。
1人で鏡を見て頬を緩めるなんて、それもタイル1枚だけの裸体を見て緩めるなんて……もしかしてまずいのではないのだろうか。
そう思えば、すぐさま振り返って浴場へと足を進めていた。振り返る直前に見えた顔は赤く染まっていたけど、見なかったことにしたい。
……ううん、しっかりと見ていなければいけないのか。きっとそれは、嬉しいことなのだから。ぼくにとっても、姉さんにとっても。
整えられた石の囲いの中に"透明で白濁色の水"が溜まっている。たしかに底は見えるのに、手を付ければ遮ってしまう。そんな不思議な水だった。
開け放たれた浴場の周りには四季の葉が舞っているが、遥か先は雲に包まれているように見えない。積み重なった彩りの葉は時間が経てば消えているのがわかる。
浸かる湯と、彩る景色と。この場所にはそれらしかなかった。
まさしく秘湯。人の身では辿り着けないがゆえに隠されていない秘湯ともいうべき場所……のように見えて、湯船にアヒルさんが浮かんでいるのはどうなのだろうか。
ぼくの容姿を見て用意したわけではなさそうだから、きっと変な情報が混じっていたのだろう。
でもこれはこれで良いものだと思う。だって自分以外の人の存在を知らせてくれるのだから。
かけ湯はできないので省略して、足の先からゆっくりとお湯へ浸かっていく。そうすれば、まるで外から帰ってきて冷えた身体で暖かい湯船に浸かったような心地良さが感じられた。
その心地良さに身体を隠すタオルを外そうかとも思ったけど、あとから来客があるはずなのでやめておく。
このお湯ならば見えはしないのだろうけど、それはぼくの認識でしかない。だから来客者が同性の知った顔だとはいえ、少し躊躇してしまう。
そこまで考えたところで、少し気になって耳を澄ませてみた。
ぼくは耳が良いので喧騒な街中でさえ、それなりに先の音を拾えるのだけど、隣にあるはずの浴場の音は一切聞こえない。
風の音と葉の音と、時折、奏でる水の音と。人の音が聞こえない、とても安らげる場所。
これだけでも日本のどんな名湯よりも価値があるかもしれない。まあ効能は比べ物にならないのだろうけど、それは世界の差だからね。
刻む音すら無い場所でゆっくりと時が進んでいく。自分の心音だけが時の経過を知らせてくれる。
ここは本当に良い場所だよ。
目を瞑ってお湯の心地良さを楽しんでいれば、外の音が鳴り響いた。
からからから、ぴしゃっというドアを開け閉めする音に寝ぼけた思考で案外、来るのが早かったなと思っていたが、とある可能性に気づいて急速に頭が冴えてくる。
「話が長引いてしまいましてね」
気づけばお湯とは別の暖かさに抱きかかえられており、最近、聞き慣れた声が平静を装って普段通りの調子で聞こえてきた。
完全に気を抜いていたとはいえ、ここまで出し抜かれることは珍しい。というか経験がない。
できるできないではなく、できたのにできなかったという事実が心を大きく揺らしてくる。
「イナバ、垂れ幕は見たよね?」
「従魔が召喚主の近くにいるのは不思議な事ではありませんよ。それに私達の種族に性別はありませんから」
身体は作り物。精神は性別に意味をなさない。
つまりはそういうことなのだろう。しっかりと『女性型』であると表記があったのだが、それは別の話。今は違う話。
弾む胸音が背中を叩く。
後ろを振り向けば真っ赤になった顔が待っているのだろうけど、さすがにそれはできない。それに、逃げないように逃さないようにと前に回された手が赤く染まっていて見るまでもなくわかる。
そのまま2人とも喋ることなく、静かな時間が過ぎていく。
1つの音が加わった場所は思っていたよりも心地よく、もしかしたら人の音が無かった場所よりも心地よいかもしれない。
修学旅行には行っていないから、誰かと入るお風呂というのは久しぶりだ。以前、一緒に入ったのは……姉さんとかな。別に幼い姉弟が一緒に入った程度、普通のことだと思う。
そして今日は四葉が一緒に来てくれるかと期待していたのだけど、"急ぐ"ようだったので無理は言えなかった。だから少しさみしかったかといえば間違っていない。
それでも、ここまでのサプライズは予想していなかった。
イナバだから、こんなことはしないと思っていた。
……やっぱり、ぼくはイナバをよく知らない。自分も恥ずかしいはずなのにそれを押し隠して……ないけど、"ぼくを知ろうと"1歩を踏み出したこの子は、やっぱり強い。
予想よりも遥かに。
それがとってもとっても嬉しくて、思わず頬が緩んでしまって。
だから気を引き締めて口を開く。ぼくも1歩を踏み出す。
これが正解でありますようにと"願いながら"。
「イナバ、少し手伝ってほしいことがあるんだ」
「ええ、それを聞きに来ました」
これはイナバには言っていない話。知っていただろうけど干渉はしてこないと思っていた話。
ぼくのわがままに巻き込むつもりなんてなかった。1人で解決してみせるつもりだった。
今までと同じように。
「姉さん達の領土を通過する相手が来ると思うから、彼女と話しをする場を作って欲しい」
「はい。"ユウ達の領土"を大物が通過するので言葉を最後まで告げさせろ、と。しかし、それは楓が悲しむことになりませんか?」
間違いなく悲しむと思う。
それでも満たせてしまったから、そのタイミングがあったから。本命ではないにしても、望む先が叶えられるのだから望むべきだ。
それに姉さんの力不足は事実なのだから悲しむ悲しまないじゃない。認めてもらわなきゃ。
「……そうですか、覚悟しているのですね」
小さく呟いたイナバは、続けて「あの時よりは」と漏らした。
それに四葉と姉さんが関与していることは予想できているけど、詳細までは知らない。知っている人数があまりにも少なすぎるから。
おそらく今はイナバと、四葉が召喚したイロハさん以外は誰も知らないのだろう。だからぼくも知れない。
それにしても"ぼく達の領土"、か。まるでその認識は許さないとでも言うように修正してきたね。
「まあ任せてください。誰が相手かは知りませんが、話を邪魔させない程度のことはできるつもりですので」
そこで少しだけぎゅっと抱きしめる力が強まって。それがとても心地よくて。
「ありがとう、イナバ」
だから絶対に成功させると、最高の形で終えさせると伝えるように、前に回された腕をぎゅっと抱きしめ返した。
イナバに手伝いまでお願いしたのだから最高以外は求めない。妥協できる点は1つすらない。
「ところさ、イナバ」
話はそこで終わりだと伝えるように声音を変えて、普通の男の子のように問いかける。
「はい」
「タオル巻いてるよね?」
イナバならば素肌と同等の感触を有したタオル程度は作れると思っているから、少し気になったのだ。
素肌だと言われても現状の恥ずかしさは変わらないから聞く必要はなかったかもしれないけど、そもそも振り向いて確認できないのだから答え合わせができないのだけども、とりあえず聞いておきたかった。
「この温泉は日本のものを参考に作られています。種族の差と効能を最大限に活かすことを考慮して髪が長い人は浸すべきだとされていますが、日本のマナーは参考にされるべきでしょうねぇ」
僅かな声の震えで恥ずかしながらも言っていることはわかる。それでも平静を装いながら楽しんでいることもわかる。
つまり、ぼくの反応を楽しんでいるのだ。
「そのわりには洗い場が無いようだけど?」
「清潔魔法があるので、温泉に浸かる以外の用途で使用すると考えているのでしょう。そうであれば浸かるだけしか提供しないこの場には不要と考えても不思議ではありません」
魔法が使えるのなら手を洗うよりも清潔魔法を使ったほうが確実で手間がかからず、きっとエネルギー消費的にも勝っているのだろう。
それがない世界の考え方が1つ2つ抜けていても不思議じゃない。
「イナバって素肌と同じ感触のタオルも作れるよね?」
「少々手間ですが、まあ作れますね」
背中を叩く音が少しだけ早まったのがわかる。
背中から叩く音が少しだけ早まったかもしれない。
「……四葉も一緒に来てたら、どうしてた?」
「どうせイロハもこちらに入ってくるので変わりませんよ。きっとね」
その答えに思わず首を傾げてしまう。
ぼくから見たイロハさんならばあちらに入ると思うのだ。こちらがぼくだけだと思っていれば、だけど。
まあ聞きたかったのはそれではないのだけど、逸したという事実が楽しいから追求はやめておこう。
静かな時間が過ぎていく。
風の音と葉の音と、時折、奏でる水の音と。そして人の音がただ2つ。
刻む音がある場所でゆっくりと時が進んでいく。2つの心音が時の経過を知らせてくれる。
ここは本当に良いところだよ。




