その少女は手を伸ばす
湖面に立つは1人の少女。
背に半透明で青色をした蝶のような羽を浮かべ、肩下まで伸びる焦げ茶の髪を穏やかに揺らし、時折、開かれる翠の瞳は青空のもとに広がる森を眺めて。
控えめに、それでも激しく踊るその姿に、思わず手を伸ばしたくなってしまいます。
「おお、浮かんでいるね。あれが魔法なのかな?」
ひっそりとした声で問いかけられ、否定するように首を横に振っておきます。あれは魔法ではなく固有能力と呼ばれていたものですから。
転送直後、千里眼もどきで把握したのは見渡すかぎりの木々。それらの合間は広くも1つ1つが大きくあり、陽の光のほとんどは葉と枝に遮られています。
そんな中にぽつんとある大きくもない澄んだ湖、その中央で少女が踊りだしたのです。それは嬉しそうに、楽しそうに。
「それじゃあ種族特性って言っていた能力かな? 便利そうだね」
少女の胸元に光る銀色のアクセサリーはきっと私が貰ったものと同じ情報アクセサリーでしょう。つまり、この力はアルファ世界の人族だけに与えられたものではないということ。アルファ世界の人族って優位点ねぇですね。
それはさておき、どうしましょうね。近くには周囲をキョロキョロと確認している人達がいて、その胸には湖の少女と同じく銀色のアクセサリーが輝いています。
背中に半透明のひし形を浮かべていたり、頭頂に狐のような耳を生やしていたり、鱗に包まれた尻尾を覗かせていたり、ユウと同じ人族にしか見えなかったり。本当に色々な世界からログインしているようです。
「転送のタイミングは同時だったのかな。近くに今来たばかりの人達がいるみたいだね」
静かな森ですからね、この子なら人の存在を把握できるでしょう。どこまで把握できているかは知りませんが。
「これはあれかな。手を取り合って何かを達成するのかな」
はたしてそこまでうまく事が進むでしょうか。同じ世界、同じ種族ですら違いが存在し、異を排除することもあるというのに、世界も種族も違う相手と手を繋げますかね。
「だからゲーム世界なんだろうね。遊ぶための仮想世界だから、自分達の世界とは一線が引かれているからこそ認められる」
映像の向こうの出来事というわけですか。異世界交流の第1歩として共通のゲームで遊ぶとは考えましたね。
「夢が覚めた時、どう思うのだろうね」
夢なんか見なかったことにすればいいのではないでしょうかね。それができるなら、きっとうまくいきますから。
「ふふっ」
悲しそうな、それでも望むような微笑みは何を示しているのでしょうか。まあ、おいおい考えましょう。今はあれらの相手をしなければなりません。
千里眼もどきは森のいたるところで真っ黒な影が出現し始めた様子を知らせてくれています。それは集まり、形を成し、彩られ、様々な種類の『魔物』と呼ばれる存在へと移り変わっていきました。
灰色の狼の姿をしたゲイルウルフのようなランク1の魔物から植物少女の姿をしたマンドレイクのようなランクのようなランク3の魔物まで。とうぜんのように最も戦いやすいゲイルウルフは私達のすぐそばに出現しました。
「イナバ、お願いできる?」
私と同様に魔物の出現を感じ取ったのでしょう。木の陰から覗いていた顔を引っ込め、こちらを向いたユウは私に問います。何を、なのかは明確ではありません。つまり私の自由にすればいいのです。
とりあえずゲイルウルフの真上に魔法で氷の礫を生成して落としておきます。特に気づかれることもなく自由落下を終えた礫は首の後ろへと衝撃を与え、ゲイルウルフを地に伏せさせました。
気を失ったように動かないゲイルウルフですが、先程の戦闘後と違って粒子となることはありません。
「ありがとう」
笑顔でそう言ったユウは再び木陰から顔を覗かせ、少女へと視線をそそぎます。
おそらくですが少女に向かう魔物は『カマキリ』。アルファ世界の昆虫、子供たちが素手で捕まえられるような緑色の名も知らぬカマキリとそっくりな形をしていますが、体長は3メートルを超えています。その鋭い鎌は少女の身体など容易く裂いてしまうでしょう。
あの子の予想できる実力を考えると首を傾げる魔物ではありますが、湖の上に浮いているのがまずかったのかもしれません。あるいは1人では倒せない魔物が割り当てられている可能性もあります。
そんなことを考えている間も魔物達はそれぞれの得物へ近づいていきます。ほぼほぼ予想通りの経路を通り、予想通りの人物のもとへと。
少女のもとへも予想通りの魔物が。
「っ!」
カマキリが湖の端に差しかかろうかというところで少女の身体が硬直を見せました。視線は翅を広げてゆっくりと近づくカマキリをハッキリと捉え、その両手を胸の前で強く握り込み。
諦めたように立ち竦むことなく、少女は湖に尻もちをつきました。震える身体を後ろへ、後ろへと動かそうと湖面を手で押しますが、それは叶いません。その手は湖面に沈み、力を返してくれません。
「い、いや……私は……」
言葉にならぬ声はパシャパシャと鳴らされる恐怖を上回りません。
だから駆け出します。この子が駆け出さないように。
カマキリはいつから少女を補足していたのでしょうか。今なお、明らかに少女を感知範囲に入れてなお、近づく速度を変えません。それがまた、少女を震えさせるのでしょう。
光を通すほど薄い翅を振動させ、今、少女の間近まで迫りました。予想されるのは鎌を振り下ろす光景。その先を想像してか、少女の目から涙が溢れだします。
しかし、少女の瞳に映ったのはカマキリの翅が消え去る光景。湖面にうっすら触れていただけの足が半分ほど浸かる光景。少女もカマキリも気づくこと無く、この場でただ1人ユウだけが見守る中、湖を駆けていた私の身体が事前に魔法で凍結させた翅を蹴り抜いた結果です。
着地先の湖面を足場に、今にも沈みそうなカマキリの背へと宙返りで着地します。
カマキリを倒すだけなら先程もゲイルウルフに使用した氷の礫を生成する魔法のただ1発でよかったのです。あるいは今の跳び蹴りで急所を貫けばよかったのです。それ以外にもいくつか方法はありました。以前の、それこそ"あの子"と出会った頃の私なら近づくことさえなく核を貫いていたでしょう。
それでも"今の"私が欲しいのは、カマキリが伏せ消える結果ではないのです。
震えぬ少女の手が湖から浮かび上がりました。そのまま胸の前で握られ、開かれた両手はカマキリへと向けられます。
翅を失ってなお浮かび上がろうとしているカマキリは、それでも"重し"のせいで動きが鈍っており、斬りかかるには僅かに届きません。速さだけで避けるのも難しいでしょう。
「***~♪。ウィンドカッター!」
私の身体に刻まれていた知識には無い"音を"紡いだ少女。その手は光を放ち、先端から圧縮された空気を撃ち出します。
カマキリもなにもせず迎えることはせず、その鋭い鎌で空を斬り裂きますが……透明なそれを捉えることはできず頭を湖面へと落としました。
呆然と見つめる少女の視線の先で湖へと沈みゆくカマキリの背、そこから少女の胸元へと跳び移ります。そして少女の胸元にある銀色のネックレスを咥え、少女の視界へ収めました。
「っ! そうだった!」
少女は思い出したかのように慌てて、私が放した銀色のネックレスを両手で握りしめ祈るように目を瞑りました。
蛍火のように舞い始めるカマキリの残した光の粒子は吸い寄せられるように少女へ寄っていき、その手に握られた銀色のネックレスへと降り立ちます。
魔法を扱う世界の人々には馴染みがないでしょうから忘れていたのはしかたがありません。そもそもこの少女の世界ならば粒子を見ることは叶わず、物質だけを残すのが常識でしょうから。
ホッとした様子の少女の視線は自然とお腹の上に乗っている私へと注がれます。その瞳には恐怖はなく、不思議な存在を見るようなものです。
ふむ、どうしましょうか。このあとは何も考えていません。
「もしかして――「イナバ~」」
少女の問いかけは不安そうに私の名を呼ぶ声に遮られました。静かな森だったためか、少女の視線は一直線にそちらへと動きます。
「人族の女の子? もしかして、あなたを探しているのかな?」
少女の視線の先には湖の縁でこちらに手を振るユウがいます。
さて、どうしましょうかね。飛び出して駆けていってもいいですし、この子に運んでもらうのもいいのですが……まあ、エネルギー切れということにして運んでもらいましょうか。
私は弱い弱い兎さん。先程は力を振り絞って渾身の一撃を繰り出しただけ。そうしておきましょう。
そう決めて陸地のユウを見つめ動かずにいれば、見守っていた少女が口を開きます。
「あれ、もしかして水の上を移動できないの? どうやってここまで来たのかな……」
そう言いながら首を傾げた少女は「まいっか」と小さく呟き、立ち上がりました。先程は震えていた足も手も今は問題なく動くようで、湖面に波紋を作りながらユウの待つ場所へと足を進めていきます。
「兎さん、助けてくれてありがとう」
微笑む少女の腕の力が少しだけ強まります。先程の出来事を思い出したのかもしれません。
「イナバ!」
ユウに近づきあと少しで陸地というところで少女の胸元から跳び出します。
大丈夫、優しく蹴ったので痛みはないはずです。その証拠に少女の身体はバランスを失うことなく立ったままでいることができています。
「おかえりなさい。急に飛び出していっちゃったからびっくりしたよ」
ぎゅーと抱きしめられて顔を押し付けられて、心配そうな声音を響かせて。
「ごめんなさい」
湖の境界を挟み、少女はユウに頭を下げました。
抱きしめられる力はそのままに、顔だけが私を離れて少女へと向きます。
「私を助けてくれるために、その子を危険な目にあわせてしまって」
「ううん、きっとそうすべきだと思ったんだよ。この子は優しいから」
後悔の念が感じられる声に答えたのは穏やかで嬉しそうな声。そして暖かな手が頭を撫でる感触を感じます。
「えっと……私はサリア。君は大丈夫だった?」
少し悩んだ様子を見せた少女『サリア』はにっこりと笑って手を差し出しました。世界によって、種族によって挨拶が違うのでどうすべきか迷ったのでしょうか。あるいは名を名乗ることに躊躇したのかもしれません。
「ぼくはユウ。大丈夫、襲われていないよ」
こちらは迷いこなく、差し出された手を握ります。
"片手で私を抱きかかえたまま"で。
「そう、良かった」
サリアは手を胸に当て安堵した様子を見せました。
今しがた自分が死にかけていたというのに、ユウを前にすればそちらの心配です。まあ直前のサリアならともかく今のサリアは魔物を倒してみせました。叶える力を持った意思といえるでしょう。
「それじゃあイナバ、行こうか」
「ま、待って」
振り返り歩き始めようとしたユウを、少女は手を伸ばして呼び止めました。
ユウは振り返り、続く言葉を待つようにサリアを見つめて動きを止めます。
「ここは魔物が出るみたいだから一緒に行かないかな?」
「イナバがいるから大丈夫だよ」
照れますね。
「……そうだ。お姉ちゃんは弱いから、イナバちゃんと一緒じゃないと魔物を倒せないかもしれないの。さっきもカマキリみたいなのに負けかけたし……だめ、かな?」
呟くような「そうだ」に続き、サリアが言い放ちました。必死に考えたであろう、幼き子供と同行する理由を。もしユウが先程の質問で魔物を撃退していたと言っていたならば告げられなかったであろう言葉を。
「……いいの? ぼくは多分、戦えないよ?」
ユウは不安を滲ませた笑顔で答えます。相手に迷惑をかけたくない、それでも提案は嬉しいとでも伝えるように。
「私は寂しいと死んじゃうから、誰かと一緒にいたいの。君とイナバちゃんがそばにいてくれるだけで私は助かるの。だから、私からお願いしたいな。一緒にいてくれないかな?」
それは事実なのでしょうか。困ったような笑顔を浮かべたサリアの言葉はすっと胸に入ってきます。
ただ「怖いから一緒に来て欲しい」、そう言わなかった理由はこの言葉を引き出すためだったのでしょうか。私にはわかりません。
「じゃ、じゃあ……一緒に"進もう"?」
「うん、ありがとう」
ユウが慎重に差し出した手を、サリアは優しく握ります。
さてさて、この子はいったい何を抱えているのでしょうか。可愛い兎の姿をしていたら教えてくれませんかね。どちらかが。




