九歳の夏
夜自室のベッドに横たわりながら零はなかなか寝付けずにいた。
二日後に紗月が死ぬ。その事実が頭の奥に重く沈んでいる。
瞼を閉じると脈絡もなく古い記憶が蘇ってきた。
小学三年生の夏だった。
夕立が突然降り始めた日。傘を持っていなかった零は下駄箱の前で途方に暮れていた。
周りの子どもたちは次々と親の傘に迎えられていく。誰もいなくなった昇降口で零は一人灰色の空を睨みつけていた。
「一緒に入る?」
振り返ると隣のクラスの天音紗月という女の子が赤い傘を差して立っていた。
当時の零は紗月のことをほとんど知らなかった。話したことも数えるほどしかなかった。
「……いいのか。」
「いいよ。方向同じでしょ。」
傘の下は狭かった。肩が何度もぶつかった。
雨の匂いと紗月の使っていた甘い匂いのシャンプーの香りが混ざり合っていたのを零は今でも鮮明に覚えている。
「零くんっていつも一人だよね。」
「……別に一人でいいし。」
「ふうん。」
紗月はそれ以上深く聞いてこなかった。ただ隣を歩く速度を零に合わせてくれていた。
小さな水たまりを二人で同時に跳び越えた瞬間。
紗月が声を出して笑った。
その笑い声が雨音の中でやけにはっきりと零の耳に残った。
あの日から二人の距離は少しずつ近づいていった。
傘に入れてもらったただそれだけの出来事が零にとっては今でも色褪せない大切な記憶の始まりだった。




