第三十九話「懐かしい人」
新しい店名には、「五月の繕い屋」と言う名前を冠した。エミルの誕生日が、五月だからだ。
そんな薄いヒントで、元の店の客達が戻ってくるはずがない。むしろ、戻って来てくれないほうが良い。
エミルの気配を打ち出すほど、あの眼力警部に、見つかる可能性が大きくなるのだから。
それでも、エミルの気配を嗅ぎ取ってくる人物は、いたのだ。
ある日、店舗に行ったエミルは、受付の椅子に座っている少女を見つけた。
「やー。久しぶり」と、彼女は片手を上げて言う。ファルベだ。
エミルは「やぁ」と答えてから、店のドアを閉め、「誰に聞いたの?」と、尋ねた。
「マリーナから教えてもらった」との、事である。
そう言えば、唯一の情報網と、ファルベは知人だった。
ファルベは、エミルの新店舗開店を祝おうと、手作りの菓子と自家製のワインを持ってきていた。
「時間のある時に、ゆっくり召し上がって」と言って、彼女はニヤリと笑む。
「何か注文が?」と、エミルが聞くと、「うん」と、ファルベは頷く。
紙袋に入って居る衣服を差し出し、「これ、ワンピースドレスなんだけど、裾の近くが擦り切れ気味なのね。そこに、花柄の刺繍をしてほしなーって」との事だ。
「フリルは、ついてる?」と、エミル。
「うん。フリルも少し擦り切れてるから、新しいのに替えてほしい」
そのやり取りを聞きながら、ルカはメモを取り、計算をしている。
彼はファルベに、注文の復唱と、出来上がり日、おおよその代金を告げた。
「ああ。そんなに急がなくて良い」と、ファルベは言う。「だから、ちょーっと、負けて」
ルカは、困ったようにエミルを見る。
ファルベの態度から、普通の客ではない事が分かったのだろう。
「ルカ。何マルクか、安くしてあげて」と述べ、エミルは眉間を押さえた。
「あのお嬢さんは、何者なんですか?」と、ルカは当然のことを聞いて来る。
「古馴染み」とだけ、エミルは答えた。
以前の店が出来たばかりの頃に、「擦りむけを繕って下さい」と言って、手袋の甲を見せてきたファルベを思い出す。
手袋を直すついでに、店で、手と肘の傷の手当てをしてあげたのが懐かしい。
あの、七歳の小さなレディが、そろそろ十六歳の年齢だ。
あと二年もしたら、彼女にも、浮いた話の一つくらい、出てくるかもしれない。
恋愛相談をされるようになったら、それなりの返答を用意しておかなくちゃ。
そんな事を思いながら、エミルは、衣服を着せてあるトルソを前に、仕事を始めた。




