第三十四話「異国の人」
当時、十七歳だったエミルが、繕い屋を作ったばかりの頃の話だ。
髭がぼうぼうで、髪の毛もぼうぼう。ボロボロの服にボロボロの靴。
そんな有様の男性が、「これを買って下さい」と言って、糸の束を一つ持って来た。
その糸も、手垢や泥で汚れており、品物に使える物でもない。
エミルは、「その糸は受け取れませんが」と前置きしてから、「お金が必要なら、幾らか都合しますよ」と述べた。
「いいえ。この糸を買って下さい」と、浮浪者のような男性は言う。「唯でお金をもらう事は出来ません」
それを聞いて、エミルは勘づいた。
「貴方は、この国の人ではありませんね?」
男性は黙り込んだ。
エミルは受付の椅子を手で示した。
「その椅子に座って下さい」
男性は、震える息をついてから、崩れるように椅子に座り込んだ。
エミルは、お茶とサンドウィッチを用意したトレーを、受け付け台に置いた。
「どうぞ」
「いいえ。この糸を……」
「話を進めるには、貴方にこれを食べてもらう必要があります」
その言葉に、男性は生唾を飲み込み、糸の束をトレーの横に置くと、サンドウィッチにかじりついた。
食事を平らげ、息もつかずに紅茶を飲む。
ゼイゼイと喉を鳴らし、男性は手の平で顔を拭った。
「それでは、この糸を……」
男性は、糸の束をエミルの手元に差し出してくる。
エミルは、サラサラと小切手を書き、サインをした。
「これを銀行に持って行って下さい。貴方の国に帰れる分の、旅費に成ります」
男性は小切手を受け取り、涙をこらえるように目をぎゅっと閉じた。
「この糸は、受け取ってもらえますか?」
「私の家には、糸は沢山あります。その糸は、貴方の服を繕うために、お使い下さい」
エミルがそう言うと、男性は自分の服から解いた糸を、握りしめた。
八年後。エミルのもとに、一通の手紙が届いた。
さっぱりと髭を剃り、髪を整えている、スーツの東洋人の男性が、ウェーバー商会のアーデルベルトと握手をしている写真が入って居る。
写真の裏には、「やっと、八年前の恩義に、報えます」と書かれていた。
後日、ウェーバー商会からエミルの家に、良質な布と糸束、それから貴重なパターンのレースが、大量に送られてきた。
「ホンダと言う名前の、東洋人から注文された」と、アーデルベルトは電話で言う。「彼が言うには、『かつて受け取ってもらえなかった財産を、今度こそ受け取ってもらいたいのです』だそうだ」
どうやら、先の男性は、無事に国に帰れたらしい。




