第三十二話「レモンをひとさじ」
秋の頃。日差しの暖かい日。
閉め切った店内にいたエミルは、店の奥の硝子戸と鎧戸を開け、天窓を解放した。
店舗の奥から、心地好い風が吹き抜ける。風は天窓に吸い込まれた。
甘い香りを感じて、近所でジャムが作られていると気づいた。
幼少期のエミルの祖母は、裁縫の他に、様々な生活の知恵を教えてくれた。
――煮詰めたジャムにはレモンをひとさじ。それで色合いが鮮やかになる。
その言葉を思い出し、エミルはジャムを作ってみようと思い立った。
市場で、真っ赤な林檎が出回っていた。一袋分購入し、砂糖とレモンも買った。
家に帰って、山ほどの林檎のうちから二つを選び、キッチンナイフで皮をむいた。
芯を取ってカットした林檎を、薄くスライスする。それを鍋に移して砂糖をかけ、熾火にしていた薪ストーブを点火する。
煮詰めながら、木べらで良く掻き回す。レモンを半分に切って、絞ってレモン汁を用意する。
甘い香りがし始めた。果肉がクタクタになるまで煮て、コンロから鍋を離し、レモン汁を入れて充分に混ぜた。
店舗のドアベルが鳴る。後は冷ますだけの鍋の蓋をして、階下に向かった。
「何か甘いにおいする」と、紙袋を持ったファルベが言う。
「ああ。君か」と、エミル。
「何か作ってるの?」と、ファルベは無邪気に聞いてくる。
「うん。ジャムをね」
「エミルって、奥さんが要らないタイプだよね」
「そのために、祖母からしっかり躾を受けたよ」
そうやり取りをしてから、ファルベは紙袋の中身を取り出した。
冬用のコートだ。
「ずっとクローゼットに仕舞ってたから、虫食いが出来ちゃってさ」
「何時までに直せば良い?」
「雪が降る前には、直っててほしいな」
「分かった。再来週までには直しておく」
「急がなくて良いよ。その代わり……」
「料金を負けてくれ、でしょ?」と、エミルが言い当てると、「わかってるー」と言って、ファルベはニヤリと笑んだ。
格安料金で請け負った仕事に、エミルはその日の内から手を付けた。
辛うじて虫に食われていなかった、内側の繻子の縫い目を解き、幾つかの小さな虫食い穴を、丁寧に繕って行く。
――貴方は恋をするより、友達を作りなさい。
そんな事を、祖母に言われたのを思い出した。
煮沸した瓶に詰めた林檎のジャムを横に、エミルはキッチンで頬杖を突く。
ファルベのあの明るい声を聞くと、心が落ち着くのは本当だ。
十も年の違う子に対して、恋心も何もないだろう。
そんな事を思い、彼は溜息を吐くのだ。




