第十八話「黒いタキシード」
奥の部屋の収納棚に、修復を済ませてある衣類が保存されている。
男物の黒いタキシードのスリーピースが出て来た。
それを作業台に持って行き、丁寧に広げてから、その肩を叩いた。
服は人が着ているように膨らみ、行動を始める。
作業台のこちら側に向かって礼をし、椅子に座るように空中に腰を掛けた。両手を前の方に構える。
ピアノの音が聞こえて来た。
このタキシードの繕いを依頼してきた青年は、駆け出しのピアノ奏者だった。貴族の来るコンサートに参加する機会を得たので、衣装を直したいと言う依頼だった。
しかし彼は、受取日にもコンサート当日にも、店を訪れなかった。
聞き及んだ話では、若かりしピアノ奏者は依頼品を任せた後、酒場の喧嘩に巻き込まれ、重傷を負って帰らぬ人となったと言う。
彼の記憶は、華やかな夢に心を躍らせた時のまま、何時までもピアノを弾いている。
「なんか元気ないね」と、ファルベが言う。
彼女は、転んで擦り切れさせた白いシャツの繕いを頼みに着ていた。
トルソの前で繕いの仕事をしているエミルは、相手の方に顔を向けないまま「誰が?」と、言葉だけは返す。
「やっぱり元気ない」と、ファルベは断言する。「普段だったらね、エミルって、私に色々無茶ぶりしてくるはずなんだよ」
「そんなことしてた?」
「うん。歌を歌えとか、昔話を聞かせろとか、何か面白い話を話せとか」
「確かに、そんな事は頼んだような気がする」
「なんか引っかかってる事があるなら、言ってみなよ。私も聞くくらいはできるから」
エミルは暫く、破れていたシャツを繕っていたが、諦めたように奥の部屋に引っ込んだ。
先日のタキシードを持って戻ってくると、作業台の上に乗せる。
カーテンを閉めて内鍵をかけ、「動か無いで、観てて」と指示をしてから、作業台の上の服の肩を叩いた。
先日と同じ衣服の記憶が再現された時、ファルベは目を輝かせて歓声を上げ、割れんばかりの拍手を送った。
タキシードはピアノの前から離れると、聴者に向かって正式な礼をした。
「本当に聞き惚れた人の歓声」に満足したように、記憶の欠片は消滅する。
服は人の輪郭を失い、その場に崩れた。
「はー。すごい演奏だったねぇ」と、ファルベはあくまで音楽の方に意識が向いている。
エミルは作業台の服を畳み直し、無邪気な友人に「ありがとう」と述べた。
「ん?」と、ファルベは聞き返す。
「君と友達で良かったと思った」
エミルの言葉に、ファルベは首を傾げていた。




