2話
翌朝
カーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚める頃には、もう六時半を回っていた。
平日。学校がある。そして当然、あの隣人は同じマンションから同じ学校へ通う娘がいるわけで——
ドン、ドン、ドン。
「おい、出てこい澄玲。学校の時間だろうが。」
朝っぱらから容赦のないノックが隣の部屋から響き渡った。
まだ彼女にはクローゼットの中に隠して俺は今度は学校の準備をして外に出た。今回は秘策があった。
「おはようございます。そんなにノックしてどうしたんですか?」
寝起きの不機嫌な顔のまま廊下に出てきた男は、制服姿の大輝を見下した。
「あぁ?うちの娘がそっちに——」
男が言い終わる前に、大輝の背後から足音と声が近づいてきた。
「おはようございます。朝から騒がしいようですが、何かありましたか。」
大輝の秘策——それは警察に連絡を入れておいたことだった。
正直話を聞いてもらえるかわからなかったがなんとか「隣人の父親からDVを受けている可能性があるので、朝に様子を見に来てもらえませんか」と押し通す事に成功した。
まさか自分が直接対応することになるとは思っていなかっただろうが。
警察の姿を見た瞬間、男の態度が露骨に変わった。
「い、いやあ、ちょっと娘に忘れ物届けようとしただけで——」
「娘さん、ですか。少しお話を伺ってもよろしいですか?」
ばつが悪そうに頭を掻きながら、ちらりと大輝を殺意のこもった目で睨んだ。
俺はしらこい顔して父親に話す。
「娘さんならさっき友達と一緒に学校に行ったんじゃないですかね。朝早くから女の子たちの声が聞こえてたんで多分?朝練かな?わかんないですど出ていくの早いと思いますよ。」
それっぽい内容の嘘を父親に話す。
男はぎりっと奥歯を噛んだが、警察が見ている手前、それ以上の追及はできなかった。
「そ、そうかい。じゃあ学校行ったのか。」
「お父様、少しだけお時間いただけますか。最近このあたりで児童相談所の巡回も強化されていまして——」
「は、はあ?関係ないでしょそんなこと。うちはちゃんとやってますんで。」
男はドアを半分閉めながら、それでも警察を完全には無視できずに口だけの応対を始めた。
その隙に大輝は学校へ向かう素振りでその場を離れることができた。
すれ違いざま、大輝にだけ聞こえる声で小さく頷いた。「よくやった」という意味だろう。
エレベーターの中で、大輝のスマホが震えた。LINEの通知。送り主は澄玲。
『大輝くん大丈夫??警察来てくれた??ありがとう本当に』
メッセージの後に、泣き顔のスタンプが三つ並んでいた。
『いやー助かった助かった。先生いないとどうなると思ったよ笑。』
俺はそれだけを返して彼女と一緒学校にいった。そんな生活が1週間ほど続いた。
…………………………………………………………………
一週間。それは短いようで長い時間だった。
警察はあの日以来、定期的に澄玲宅を訪問するようになったらしい。
母親と協力して児相への相談も水面下で進んでいるという話だったが、決定的な証拠がない段階では強制力のある措置には踏み切れずにいた。
それでも、大輝の家に澄玲が泊まる夜は二度、三度と続いた。
父親からの直接的な嫌がらせは大輝の介入以降鳴りを潜めていたが、代わりに壁越しの怒号が増えた。
娘が帰ってこない夜があることへの不満を、家具や壁にぶつけているようだった。
「どこほっつき歩いてんだあのクソガキ」——そんな声が夜な夜な漏れ聞こえるたび、大輝の腕の中で澄玲は小さく震えた。
そして金曜日の放課後。いつものように二人で帰路についていたとき、マンションの入口に見慣れない車が停まっていた。
足が止まった。黒いセダン。その横に立っているスーツ姿の女性二人。
「……あれ、もしかして。」
女性たちの胸元には「児童相談所」の文字が入ったストラップが揺れていた。
「もしかさたらさ、今日、ケリをつけないとかもね、アイツと。」
正直不安だった。自分程度何ができるのだろう。
もし俺側が負けたらどうなってしまうのだろうか。胸がいっぱいだった。
「まぁ、俺が助けるから」
彼女のことが好きだ。もうこの際言っておこう。
何が起こるかわからないこの先で、俺は彼女の肩を掴んで言った。
「すみれ、好きだ!」
言えた。
元々口下手だった俺の口からついに。
その時の光景はやけに静かで2人の心臓の鼓動がやけにうるさかった。
澄玲の目がこれ以上ないくらい大きく見開かれた。
「え——」
口元を手で押さえて、一歩後ずさるように下がって、でも大輝が掴んだ肩は離さなかった。
耳の先から首筋まで一気に紅潮が広がっていく。
「ず、ずるい……こんなときに言うの、ずるいよ……」
目がみるみる潤んでいく。でもそれは悲しみの涙じゃなかった。
震える声で、それでもまっすぐに大輝の顔を見上げて。
「私は…」
その瞬間、マンションの自動ドアが開いた。
中から出てきたのはアイツだった。
仕事帰りらしくスーツを着ているが、ネクタイは緩みきっている。娘と、その肩を掴む見覚えのあるガキの姿が目に入った途端、男の足がぴたりと止まった。
「……おい。」
低い、地の底から這い出るような声。しかしその声はすぐに、入口前に立つ二人の女性の存在に遮られた。
「すみません、こちらのお宅の——」
ボコッ
鈍い音が鳴った。
彼女の音だった。
彼女のが殴られた。
即死だった。
元々父親のストレスで栄養失調気味で病弱だった彼女には十分な一撃だっただろう。
「は…」
いきなりすぎた出来事に俺は守れなかった。
何もできずにただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
こんなに守る守る言ったのに。俺はいつもこうだ。
肝心な時にヘマして迷惑をかける。今回もだ、好きな人すら守れないのに俺はなんで生きている。
俺の頬に熱い水が伝った。
「ああああああああああああああ!!!すみれ、すみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれすみれ」
俺はその場で泣き叫ぶことしかできなかった。
拳が振り抜かれた軌道はまっすぐだった。
体重の乗った一撃が澄玲のみぞおちを捉え、華奢な体が人形のように横に吹っ飛んだ。
地面に崩れ落ちるまで二秒もかからなかった。
「触んなよゴミが。誰の娘に手ぇ出してんだ——」
二人の職員が同時に駆け寄った。一人が男を制止し、もう一人が澄玲に膝をつく。
「動かないでください!警察呼びます!」
だが澄玲は動かなかった。
仰向けに倒れた体は微動だにしない。
殴られた顔が横を向いて、さっきまで笑っていた口元がわずかに開いたまま固まっている。
職員の手が澄玲の首筋に触れた瞬間、その顔が強張った。
脈を探るように指を当て直す。そして、ゆっくりと首を横に振った。
五月の夕暮れ。
オレンジ色の光が倒れた澄玲を染めていた。
ついさっきまで笑っていた唇はもう何も紡がない。
大輝が流した涙がアスファルトに落ちて、彼女の髪に届く前に乾いていった。
職員に腕を掴まれながらも、男は動揺する素振りすら見せなかった。ただ忌々しそうに大輝を一瞥して。
「……勝手に死にやがって。」
「う、うあああああああああああああああ!!!!!」
俺はなりふり構わずアイツの方へ向かい拳を握る。俺はどうなってもいい。大事な人1人すら守れなかった人間などもうどうだってよかった。
「すみれをすみれをおおおお!!!」
俺の拳がアイツに届くことはなかった。
背後から職員のもう一人に羽交い締めにされ、前に進むことすらできない。
体格差も力の差も歴然としていた——だがそれ以上に、俺自身がまともに立てていなかった。膝が笑い、視界がぐらぐらと揺れている。
アイツは俺を鼻で笑った。
「何だそのパンチは。女一人守れねえザコがイキってんじゃ——」
言いかけたアイツを職員が力ずくで引き離す。サイレンの音が遠くから近づいてきていた。
パトカーの赤色灯が視界に入ると、さすがにアイツも顔を青くした。
だが大輝にはもう何も見えていなかっただろう。
地面に横たわる澄玲だけを、ぼやけた視界の中でただ見つめていた。
夕日が沈んでいく。影が伸びる。世界が暗くなっていく。
救急車も到着したが、ストレッチャーが来たときにはもう全てが終わっていた。
白い布が澄玲にかけられる。大輝の叫びは喉が枯れても止まらなかった。




