1話
「痛い…!やめて…!」
俺が住んでいるマンションに隣の部屋は毎日よく怒鳴り声や呻き声が聞こえてくる。
ある日の学校帰り、澄玲は父親に追い出され、マンションの通路の端に座り込んで泣いていた。
「今日は何をされたの?」
俺は彼女と学校が一緒で朝はよく一緒に登校しており、彼女の父親のことについてよく相談されていた。
俺の声に気づいて顔を上げた。
頬には赤い痣が浮かんでいて、唇の端が切れている。それでも、見知った顔を見て少しだけ肩の力が抜けた様に見えた。
「…今日も、同じこと。お父さんが急にキレて…ご飯作ったのに、気に入らないって。」
彼女の母親は帰りが遅いのでよく彼女が夕食を作っているだとか。
彼女は膝を抱える腕に力を込めた。
制服のブラウスは片方の裾が捲れ上がっていて、手首にも青黒い跡がちらりと見える。
「大輝だけだよ、こうやって話聞いてくれるの」
マンションの廊下は蛍光灯が一本切れかけていて、チカチカと不規則に点滅している。
五月の夜風が澄んだ空気を運んできたが、彼女の薄いブラウスには寒そうだった。
時刻は午後八時を過ぎた頃。隣室からは物音ひとつしない。まるで何事もなかったかの様に静まり返っている。
普段から父親に虐待を受けている彼女に俺は何かできるのだろうか。
普段ただ相談を聞いているだけの自分が不甲斐なかった。
「俺に何かできることはないか」
俺は勇気を持って彼女に聞いてみた。
その言葉に、澄玲は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……え?」
それから、困ったように小さく笑った。
いつもの笑顔だ。辛いときでも無理に作る、あの笑い方。
「大丈夫だよ。慣れてるから。大輝くんに迷惑かけたくないし。」
そう言いながらも、澄玲の指先は細かく震えていた。
五月とはいえ夜は冷え込む、彼女が座り込んだコンクリートの床はひんやりと冷たいはずだ。隣室の窓の向こうにうっすらと明かりが灯っているのが見える。
あの中にいる父親は、今まさに缶ビールでも開けながらテレビでも見ているのだろう。
壁一枚隔てたこちら側で娘が震えていることなど、知ったことではないという顔で。
きょ、今日、俺の家に泊まらないか?
俺の提案に自分自身も戸惑いと困惑があるが彼女のことを考えたらこれしかないだろう。
澄玲の目が大きく見開かれた。
口がぱくぱくと動いたが言葉が出てこない。数秒の沈黙のあと、彼女は慌てたように首を振った。
「だ、ダメだよそんなの。だってお父さんにバレたら…」
言いかけて、ふと自分の家の方を見た。
暗い玄関。
鍵は閉まっているだろう。戻ればまた同じことの繰り返しだ。
廊下の空気が重くなった。切れかけの蛍光灯がまた一度明滅し、二人の影が揺れた。
しばらく俯いていた澄玲だったが、やがてぽつりと呟いた。
「……本当に、いいの?」
「当たり前じゃん。お父さんは俺がうまくやっとくから、ね!」
本当は怖かった。
お父さん、俺がどうこうできると思わなかった。
でも彼女は俺にとって大切なものだった。俺はただ彼女を守りたかった。
澄玲の瞳がじわりと潤んだ。
堪えきれなかったように涙がぽろっと一粒落ちて、それから彼女は両手で顔を覆った。
「ごめ、ごめんね、泣くつもりじゃ……」
声が震えている。
「ありがとう。」
大輝は澄玲を連れて自分の部屋に入った。1LDKの一人暮らしには広すぎる間取りが、こんなときだけは役に立つ。
ドアを閉めた瞬間、隣室との境の壁が背中に迫る。
だが少なくとも、あの拳はここには届かない。
リビングに立ったまま、澄玲はきょろきょろと辺りを見回していた。
人の家に泊まるなんて、きっと久しぶりなのだろう。
「あの、私なにか手伝うこと……」
そう言いかけた足元がふらついて、壁に手をついた。よく見れば、ブラウスの裾からのぞく太ももにも痣がある。
俺はいきなり彼女の太ももに氷嚢を置いた。
「殴られたんだろ。冷やしとけよ」
精一杯の気遣い、元々人見知りの俺はどんな声かけをしたらいいかわからなかった。
冷たさにびくっと体を震わせたが、すぐに力を抜いた。
氷嚢を持つ大輝の不器用な手つきを見て、くすっと笑う。
「大輝くんってさ、そういうとこあるよね。」
そういうところ、というのが何を指すのかは澄玲自身にもよくわかっていなかっただろう。
ただ、ぶっきらぼうなのにやることが優しい。そのちぐはぐさが、この殺伐とした夜には妙にあたたかかった。
ソファにゆっくり腰を下ろした。
座るだけの動作にも顔をしかめたところを見ると、腹部にも痛みがあるらしい。
「……ねえ、大輝くん、お父さんとどううまくやるの?あの人、酔ってたら本当に何するかわかんないよ。」
心配そうに大輝を見上げるその目には、自分のことより大輝のことを案じる色があった。
はっきり言って。…何もない。何も考えてなかった笑。ただお前を守りたかっただけだったんだ。
少し耳を赤ながら彼女に本心を言った。
このまま一緒に過ごせば父親から逃げれるのではないか。
いや、俺は彼女のことが好きなのかもしれない。
澄玲の顔がぱっと赤くなった。
「ちょ、ちょっと……そういうこと、さらっと言わないでよ……」
氷嚢で顔を隠すように押し当てる。耳まで真っ赤だった。
部屋の中に妙な沈黙が落ちた。
エアコンの微かな駆動音だけが空間を埋めている。時計の針は午後九時半を指していた。
しばらくして、氷嚢をそっと下ろすと、澄玲は大輝をまっすぐ見た。
「でも……嬉しい。すごく。」
それから少し声を落として。
「私もね、ずっと大輝くんだけが頼りだった。学校でも、家でも。誰も助けてくれないって思ってたから。」
そのとき、ドン、と隣室から壁を叩くような音が響いた。
一度だけ。
こちらの生活音が気に障ったのか、それとも単なる偶然か。二人の肩が同時にびくりと跳ねた。
「あーすいません今ゲームで盛り上がっちゃって。うるさくしないようには気を遣ってましたが少し暴れすぎましたかね?すみません。」
とりあえずドアを開ける前に一言だけもしもの時の建前を言っておいた。
おそらく扉の向こう側は彼女の父親だろう。
彼女を押し入れの中に隠して恐る恐るドアを開けた。
ドアの隙間から、むわっとした酒の匂いが漏れ出してきた。
立っていたのはTシャツにスウェット姿の中年男。
澄玲と同じ目をしているが、そこに宿っているのは娘への愛情ではなく濁った苛立ちだった。缶チューハイを片手にぶら下げ、据わった目で大輝を見下ろす。
「あ?ゲームだぁ?」
酒焼けした声が廊下に響く。男は首をごきりと鳴らして大輝に顔を近づけた。身長差で自然と見下す形になる。
「うちの娘がそっち行ってねえだろうな。」
男の鼻がひくついたのは、廊下にわずかに残った澄玲のかすかな香水の残り香を嗅ぎ取ったからかもしれない。
あるいは単に酔っ払い特有の難癖か。
男は舌打ちをひとつして。
「お前、まさか匿ってんじゃねえだろうな。余計なことすんじゃねえぞガキが。」
「してるわけないじゃないですか笑。僕まだチェリーですよ。そんな勇気あるわけないじゃないですか。」
いや怖ええええ!!笑まじか俺こんなやつと相手するんか。
男はじっと大輝の目を睨みつけていたが、「まだチェリー」という台詞にふんと鼻を鳴らした。
「だろうな、冴えねえツラしてるもんな。」
一応の納得をしたらしい。男は缶をぐびっと煽ると、興味を失ったように踵を返した。
「今度うるさくしたらぶっ壊すからな、このドア。」
背中越しにそう吐き捨てて、隣室に戻っていった。
乱暴に閉まるドアの音。そしてまた、テレビの音量が上がる気配。
足音が完全に遠のいたのを確認してから、押し入れの中からかすかに衣擦れの音がした。
隙間から澄玲がおそるおそるこちらを窺っている。目にはうっすら涙が滲んでいた。
押し入れから這い出てきて、大輝の前に立つ。
「……大輝くん、怖かったでしょ。ごめんね、私のせいで。」
「いやー怖かったわ笑マジで笑、すみれすげえよあんな奴の相手をいつもしてるのマジで尊敬するわ。」
安堵した俺は彼女と夕飯を過ごし、一枚しかない布団で夜を過ごすことになった。
コンビニで買ってきた弁当を二人で食べた。
会話はぽつぽつと途切れがちだったけれど、箸を動かしている間だけは互いに日常の中にいられた。
時計が午後十一時を回った頃、問題が浮上する。布団が一組しかないという、考えてみれば当然の事実だった。
押し入れの布団を見つめて、それから大輝くの顔をちらっと見て、また布団に視線を戻した。
「わ、私ソファでいいよ。慣れてるし。」
そう言う澄玲だが、昼間に蹴られた脇腹を庇うように体を丸める癖が出ていた。
とてもじゃないがソファで眠れる状態ではない。
大輝が何か言いかけるのを察したのか、ぱたぱたと手を振る。
「ほ、本当に大丈夫だから!大輝くんが風邪ひいたら困るでしょ。」
「いやいや俺こう見えても小学校の時皆勤賞だったから、よくいうでしょ馬鹿は風邪を引かないって。」
少し父のことでビクビクしていた彼女を俺はあまり得意ではないが冗談を言いその場を和ませた。
一瞬きょとんとした顔をして、それからぷっと吹き出した。
「それ自分で言っちゃうんだ。」
小さな笑い声だったが、それは今日大輝が聞いた澄玲の一番自然な声だったかもしれない。
笑いながらもまだ遠慮がちに布団の横でもじもじしている。
「じゃあ……半分だけ。端っこ使わせてもらうね。」
いざ布団に入ると、二人の距離はどうしても近くなる。肩と肩が触れそうな距離。
天井を見つめる澄玲の呼吸がやけに規則正しく聞こえたのは、緊張を隠そうとしていたからだろう。
「……ねえ、起きてる?」
隣室はもう静かだった。あの男もさすがに寝たらしい。
夜の静寂が部屋を満たして、互いの息遣いだけがやけに鮮明だった。
彼女が何か言ったことに気づいた。おそらく「ありがとう」とかそういうのかな?わからないけど俺は彼女の頭に手を置いて寝落ちした。
頭に置かれた手のあたたかさに、澄玲はそっと目を閉じた。
「おやすみ、ばか。」
それが聞こえたのか聞こえなかったのか。
大輝はすでに寝息を立てていた。
澄玲もやがて、この家に来てから初めて安心したように眠りに落ちていく。
その寝顔からは普段の怯えた表情がすっかり消えて、年相応の穏やかな少女の顔をしていた。




