闇は光 光は闇
意識が浮上する感覚を感じて、瞼を開いた。
「ん……?」
青イルカ岳斗は太陽が真上から照らしつける牧場に立っていた。
「ここは……うちの牧場か?」
辺りを見回すと地面まで着いて、数十センチほど地面に寝る長さの青い尻尾が目に入った。
「あれっ? 猫イルカになったんじゃ……」
岳斗が少し驚いていると突然、周りの地面に大量の赤い血痕が前触れもなく刻まれた。
「なっ……!?」
驚きの声を上げると同時に視界が暗闇に覆われ、背後で大きな爆発音が響き渡った。後ろを振り返ると我が家が天まで燃え上がる炎に包まれていた。
「これはっ!? 俺の家……」
炎の前に一人の人間が立っていた。横に灯油ポンプが十数個ほど転がっていて、その人間は全身血塗られている。特に手先から手首までは血が乾き切らなく、指から数十滴も垂れ下がっている。
「来たか……」
一言呟いて、イルカ岳斗の方に振り返った。その正体……それは人間岳斗だった。
シャルルも同じく瞼を開くと城の廊下に立っていた。
「ここは俺がいた城……ん? 目線が低いな?」
ふと鏡が目に入った。灰色の子猫が鏡の向こうで立っている。
「あれっ! 俺、子猫になってる」
シャルルが驚いていると、向こうからシャルルの父が秘書を率いて、歩いてきた。シャルルの小さい耳がピクンッと跳ねて、目が輝いた。
「あっ! 父上ッ!」
懐かしい父に会って、嬉しさで思わず駆けるシャルル。だが、父はシャルルに訝しげな表情を返した。
「其方、誰だ?」
「えっ……?」
一瞬足元が崩れ落ちるような眩暈を感じた。父が何かを閃いて、納得したように頷いた。
「なるほど。大方城に迷い込んだ子供だろう。迷子になって不安だったので、思わず私を父と呼んだ……ってところか」
「あっ……いえ、私は」
「良い良い。ミバー、この子を入り口まで送り届けてやってくれ」
「かしこまりました、王様」
「父上……!」
シャルルが困惑の表情で父に呼びかけた。しかし、父はシャルルが自分の子供だとは夢にも思っていない。
「わ、私は……」
父の瞳を見ている内に自信をなくしたシャルル。思わず衝動的に背を向けて、走り去った。
「あっ……! お待ちを!」
秘書が慌てて駆け出して、廊下の曲がり角で見回すが、シャルルはすでに消え去っていた。
この後、母や兄、姉、使用人たちを見つけては呼びかけたが、いずれも同じ反応だった。いたたまれなくなって、自分の部屋に駆け込む。
「誰も俺のことを覚えてないなんて……」
膝を落とし、床に座り込んで、涙を流し始めた。
「いや、きっと嘘なんだ……! 嘘……だよな…………?」
その時、後ろで足音が響いた。振り返ると白い子猫が立っていた。
「お前は……シャルル・ヴァンタールなのか?」
「そうだよ。貴方、誰……?」
「俺は……」
誰なんだ? 俺の名前は…………? 出てこない。
「バカな……!? いいや、そんなはずは……」
口を開いて、名前を言おうとするも出てくるは虚空のみ。顔を青くして、荒い息を吐きながら俯く。
「どうしてだ……?」
「単純だ。お前が名を持たない存在だからだ」
「ッ!?」
子猫に似つかわしくない厳かな声に変わった。思わず顔を上げると大人になった白猫が立っていた。背中に彼の身長ほどある黒い翼を生やしている。
「なッ――!」
人間岳斗は血に染まった指を口の方に持っていった。そして、指をゆっくり舐めた。見惚れてしまうほど赤い瞳が炎で妖しく輝いている。
「その血……まさか、返り血ッ!?」
「あぁ……楽しかったよ。みんな……みんな、悲鳴を上げながら、血を噴き出す。もがく力が段々弱くなって、死に向かう顔と言ったら……これがまた、傑作なんだな。フフフフ……!」
興奮を抑えきれない様子で静かに笑いながら、手を口に擦り付けた。手を下ろすと口全体が血に赤く染まっていた。
「お前……まさか!?」
「そう、そのまさかだ。お前が大切にしてる奴ら……全部あの中だよ、フフフ……」
不気味に笑って、炎に包まれている家を指差した。やっと意味が飲み込めたイルカ岳斗。激しい怒りを露わにして、拳を握りしめる。
「てめえ……一体誰を燃やしやがったァァァーーーーーッ!!!」
咆哮と共に地面を蹴った。一瞬で人間岳斗を間合いに入れて、右ストレートを勢い良く叩き込んだ。いや、手応えを感じられなかった。
「なっ!?」
人間岳斗を貫通してるはずだ。そう思った瞬間、人間岳斗が消えた。
「消えたっ!?」
「やはり弱い……」
声が聞こえた。瞬間、後頭部に激しい衝撃を感じた。気づいた時には地面に倒れていた。
「ノロマ。やはり、鈍ったか……」
「っぐ……!」
脳が揺れて、気持ち悪い。今にも吐きそうだ。胸を引っ張られる感覚と共に突然視界が回転して、人間岳斗が見えた。瞬間、人間岳斗の左手が勢いよく動いて、イルカ岳斗の喉を握り潰し始めた。
「がぁぁぁ…………ッ!?」
「ハッ、醜い悲鳴だ……」
しかし嘲笑するセリフとは対照的に、顔は額に血管を浮き上がらせ、激しい怒りと憎しみを露わにしている。
「俺は……ッ! 俺は親父を守るために、この六年間……血反吐を吐きながらも猛獣たちを殺していった。なのに!」
歯を強く噛み締め、喉を締める手に力をさらに入れた。
「っあ゙あ゙あ゙……!!」
「お前はタクマとかいうジジイに人の心とかなんとかを吹き込まれ、挙句、平和なところに身を置くようになってしまった。 まるでそこが本当の居場所かのようにッ!」
「ぐぐぐぐ……ッ」
咄嗟に腕を動かして、人間岳斗の左腕を強く握った。人間岳斗の拘束を解こうとするが、重い石のように全く動かない。心臓の脈拍が大きく響き始めた。
背中に黒い翼を生やした白猫が手をシャルルに向けた。同時に手元から光線が鋭く発射された。
「うぉッ!」
咄嗟に地面を蹴って、避けたシャルル。
「くそっ、反撃してやる! ――――――」
魔法の呪文を唱えようとした。しかし、口を動かしただけで声にならなかった。驚きで瞳孔が細くなる。
「な――!?」
「名を持たぬ貴様如きが魔法を使おうなど、笑止ッ!!」
白猫の一喝と共にシャルルは心臓を締め付けられる感覚を強く感じながら、空中に浮き上がった。
ドクドクン…………ドクン……ドクン……ドドクンッ…………ドクン!ドクンドクンン……ッ! ドクドッドッドッドドドド――――!!!
岳斗とシャルル、二人の心臓が苦しみから逃れようと暴れのたうち回る。脈拍も太鼓を叩いたように激しく体を響かせる。二人の脈拍が完全にシンクロした瞬間、二つの声が同時に響いた。
「お前は俺から二年を奪ったッ! お前に安息の地は……ない!」
「亡き人の名前を盗んだ屑ッ! 天罰を与えてくれよう!」
人間岳斗が右手を勢いよくイルカ岳斗の胸に刺し込んで、心臓を握った。
白猫も呪文と共に、シャルルの心臓に拘束魔法をかけた。
「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙………………!!!!!」
激痛が二人を襲う。たまらず、悲鳴を上げる。身体中のほネが気siみ、きィに゙くぁあ千縺弱………………ギュギュギュギュギギギギギギgggg……パァン――!!
心臓が弾け散ると同時に自分の部屋が見えた。ベッドの上で横向きになりながら、荒い呼吸を繰り返している。
「あ、あぁ……?」
震える手で左胸を触る。白シャツ越しからでも、首毛のモフモフと心臓の脈拍を感じられる。
「あ……ある。夢だったのか……?」
安堵して、長いため息をついた。瞬間、何度葬り去っても蘇るツォンとマカロフ、岳斗とシャルルが心臓を抉りあう風景、加那江がツォンに顔をタコ殴りされる風景……記憶していないはずの事実が岳斗の脳内に浮かんだ。
「な――!?」
心臓を鷲掴みにされたような感覚を嫌でも感じる。脳裏に顔が浮かんで、輪郭がはっきりしそうだと感じた時、岳斗は空間を揺らがす大声を上げながら、勢い良く起き上がった。
「うわっ!?」
びっくりして飛び上がった紅葉たちを脇目に入れて、無我夢中でトイレに駆ける。我に返った時には、すでにトイレにゲロを全て吐き終わった後だった。かろうじて残っている胃液を搾り出すようにして吐きだす……いや、喉から落ちる。それを止める力も今は出せない。
慌てた足音がいくつも聞こえて、大きくなった。
「岳斗!? 大丈夫?」
「ハァハァ、あ……あぁ……」
「顔色が悪いぞ」
「だ……大丈夫だ。大丈夫……」
立ち上がって、トイレの水を流した。そのままふらつく足取りで洗面所に向かって、コップに水を汲んだ。一気に三杯飲んで、流し口の壁に体重をかけるように、両手を下ろした。
「ハァァ……フゥ…………」
極度の恐怖で瞳孔が紙のように細くなり、耳も垂れ下がっている。尻尾も股を通って前に出たのち、左足に巻きついている。
「あ、兄様……大丈夫なの?」
紅葉が岳斗の尻尾に手を置いて、撫でるように前後に動かす。
「紅葉……すまねえ。驚かせたな」
「ううん。あたしのことよりも、兄様が心配」
「ん……」
泣きそうな紅葉の瞳を見てると居た堪れなくなってくる。尻尾を元に戻して、立ち上がった。
「みんな、すまん。気分転換に走ってくる」
「あっ……」
邦子たちを避けて、自分の部屋に戻る岳斗。誰も声をかけられなかった。
しばらくして、Tシャツと運動用半ズボンを履いて、部屋を出た。
「岳斗……気をつけて」
邦子がかろうじて一言を搾り出した。岳斗は邦子を一瞥して、玄関のほうに歩いて行った。
靴を履いて、玄関のドアを開ける音が響きわたる。玄関を閉めた瞬間、邦子たちを包む緊張感が和らぎ、代わりに不安が押し寄せてきた。
桜が紅葉を不安そうに見つめて、言った。
「……ねえ、紅葉姉ちゃん。あたしたちがここに拾われたばかりの時もこんな感じだったよね?」
「うん。あの時、私たちはまだ子猫だった」
「最初は正直怖かったが、今は分かる。姉貴、あいつはいい奴だ」
「ええ、私も分かってる」
ラグナロクまであと29時間43分。岳斗は悪夢を忘れるかのように、全力疾走している。
河原の所で足が絡まって、草が生えている堤防を転がり落ちた。谷で止まって、地面にキスするように寝転がった。
「くっ……」
朝日を受けて煌めく川。それを視野に入れながら、自分の情けなさに打ちのめされる。手が再び恐怖で震える。
(ちくしょう……惨めだ。今度ばかりは闘志が湧いて来ねえ! くそっ、これじゃあ……八年前と変わらねえ)
「よぉ、寝坊助!! 河原で二度寝か?」
「ッ!!」
慌てて起き上がるとタクマが堤防の上から見下ろしていた。
「あっ……タクマさん。おはよっす」
タクマが堤防を滑り落ちて、岳斗の側に飛び降りた。
「ガハハ! そういや、数週間ぶりだな!」
「そうっすね。旅に出てたんで」
「おう、聞いたぞ! 宇宙を旅してたんだとさ! 驚いたぜ!!」
「ええ、最初は俺も驚きましたよ。でも、楽しい旅でした。本当に楽しかった……」
最後の一言を言い終えた岳斗。落ち込んでいる表情で、耳が垂れ下がっている。
「……なぁ、何か悩んでんのか? 大体は北三郎から聞いたがな」
「タクマさん……」
タクマから目をそらして、しばらく道を見つめたのち、話し始める。
「俺……自信ないんです」
「自信?」
「俺とシャルルは胸に穴を開けられていたらしいし、加那江とジェシカたちはツォンに連れ去られた。記憶はないんですが、状況的に考えても完敗しました」
「そうか……」
「記憶がないので、ツォンがどう俺たちを打ちのめしたかが分からないんです。それも相待って、恥ずかしいんですが……」
そこから先の言葉を出す勇気が出ない。黙る岳斗をタクマはただただ何も言わず、見守る。数分ほど経って、岳斗が口を開き始めた。
「……怖い。ツォンが怖いんです。八年間も修行したのに完全に敵わなかった」
「んっ……」
「俺……親父と母ちゃんを守ろうと八年間強くなるように努めてきました。世界中の怪物と戦って、打ちのめしました。時に傷つき、血も流しました。なのに……なのに、この八年間が無駄だと嘲笑われたような気分で、悔しいとかいう気持ちすらも出てこない……。ただただ怖くて、考えれば考えるほど不安に押しつぶされそうなんです。途中から覚えていないって言うのもありますが」
岳斗が珍しく弱音を吐いた。それきり黙って、川が流れる音だけが響く。
「なあ……岳斗」
「ん……?」
顔を上げるとタクマが朝日の光に照らされながら、優しく微笑んでいた。
「何です?」
「久しぶりに剣を交えてみないか?」
「えっ……?」
山の麓より少し上で静まり返る道場。そこに二人の男がいた。藍色の剣道着のみで、防具は装備していない。
「しかし、素肌でやるのは六年ぶりだな。結局師匠には一度も勝てなかった」
「タクマさん……やるからには手加減しません。いいですか?」
「ああ、俺もそのつもりだ。では、始めようか」
蹲踞して、一礼する。それを合図に試合を始めた。
「……」
「……」
正面から睨み合って、相手のわずかな動きも見逃さない。岳斗は竹刀を正面に、タクマは下段に構えて、体から発する気を消している。葉が擦り合う音が二人の間を泳いでいる。それもどこか遠くに行ってしまった。再びタクマの眼光が岳斗を貫く。何処かでタクマが遠い存在だと感じる。
不意に、タクマが積乱雲のように大きくなって、迫ってきた。床を蹴って、剣をぶつけ合う。尻尾が波のように大きく揺れた。位置を入れ替え、再び睨み合う。タクマが再び遠ざかると同時に自分の心臓音が大きく響き始める。その音も遠ざかる。目の前が真っ白になる。空間が揺らいだ。タクマの全身から気が溢れ出した。立っていられない。体が悲鳴をあげる。立っている。肩で息をしながら、口を開けている。
(な……んだ…………? この気は…………?)
タクマが空間ごと揺らいで、赤い目の熊と暗闇の林になった。格闘大会で対戦した荒くれたち。虎、鰐、牛、大蛇、猪……白いゲートが目の前に見えた。ゴブリン、十本足のお面、花怪物、月の魔術師……ジョー、ゼロ、アニー、ケンシロー…………ツォン。
叫び声を上げそうになった。早く踏み出したい。タクマは遠いままだ。踏み出していない。上から押されているような気もする。
(怖い……のか? ツォンが怖いのか?)
震えているのか? 分からない。タクマもいつの間にか消えた。視界は白に覆われている。音もなく白い視界に黒い一点が刻まれて、墨汁のように広がった。やがて……視界は黒に覆われた。
(そうか……違う。ツォンじゃない)
そう思った瞬間、岳斗の全身を冷たい風が撫でた。気づくと夕日が沈んで、暗闇に入る森林の中にいた。
「ここは……見覚えがある」
と、血の匂いがした。
「スンスン……スン…………」
獣の嗅覚で匂いの元を辿る。しばらく歩くと一人の少年が岳斗に背を向けて座り込んでいた。瞬間、岳斗の目が大きく見開かれ、瞳孔が細くなった。認識したくなかったが、残酷なことに猫の瞳は暗闇でも風景をくっきりと映し出す。
「ぁ……」
五メートルを超える大蛇は全身を鋭く切り裂かれて、夥しい量の血を流しながら横たわっている。少年がナイフを振り上げて、迷いなく大蛇の首を切り落とした。蛇の血が大きく飛び散る。と、岳斗の気配に気づいて、ゆっくり振り返った。
「……ッ!」
赤い瞳。忘れもしない八年前、岳斗を襲った熊の瞳と同じ色をしていた。その正体は……疑いようもない。十三歳の岳斗だった。




