そうじゃない
胸の奥に、ふと引っかかるものがあった。
(――あれ?)
私は無意識に、大広間の中央へ視線を向けた。
そこには、王太子アレクシスと聖女セシリアがいる。
最初のワルツを終えたばかりなのだろう。セシリアの白いドレスが、まだ音楽の余韻を纏うように揺れていた。
ーー絵になる二人。
それを見た瞬間、少し前までの私は安心していた。
今夜も原作通りだ、と。
けれど、私は隣にいるイヴァンを見る。
彼は、セシリアを見ていなかった。
それどころかーーさっきから一度でも、彼女を気にしたことがあっただろうか。
本来なら、今頃ーーイヴァンの視線は、あそこに釘付けになっているはずだった。
「……」
胸の奥に生まれた小さな違和感が、急速に形を持ち始める。
「――珍しいな」
不意に横から声がして、私は我に返った。
振り向いた先にいたのは、王太子アレクシスだった。
その隣にはセシリアもいる。
先ほどまで踊っていた二人が、いつの間にかこちらまで来ていたらしい。
「殿下」
イヴァンが軽く頭を下げる。
アレクシスはそれに応じながらも、どこか面白そうに彼を眺めていた。
「何年の付き合いになるかわからないが、お前がそんな顔をするところは久しぶりに見たぞ」
「そんな顔……ですか?」
「お前、笑っていただろう」
「俺がですか?」
本人には自覚がないらしい。
するとセシリアも、柔らかく笑った。
「私も公爵の笑顔は初めて拝見しました」
「……え?」
声を上げたのは私だった。
三人の視線が一斉にこちらへ向く。
「あ……すみません」
慌てて取り繕う。
けれどーー胸の奥に、違和感が生まれた。
(初めて?)
今、セシリアはそう言った?
「こちらのご令嬢は?」
アレクシスに尋ねられ、私は気持ちを切り替えて一礼した。
「……ご挨拶が遅れました。リゼ・アスティメイラと申します」
「ああ。アスティメイラ男爵家のご令嬢だったか」
「ご存じなのですね」
「一応、主催側だからね」
アレクシスは穏やかに笑った。
その隣で、セシリアも私へ会釈する。
「セシリアです」
「リゼ・アスティメイラです」
原作のヒロインが目の前にいる。
私は不思議な気分になる。
けれどーー今はそれ以上に、セシリアのさっきの言葉が気になって仕方がなかった。
「それにしてもーー」
アレクシスがイヴァンを見る。
「お前が令嬢相手にこれだけ話し込んでいるのも珍しいな」
「そうなのですか?」
思わず尋ねてしまう。
「ああ。珍しいどころではないよ。夜会へ出れば必要な挨拶だけ済ませて、あとは騎士や役人とばかり話している男だからな。まあ、そもそも夜会に出ていること自体稀だがな」
イヴァンは否定しなかった。
「公爵は女性そのものが苦手なのだと思っていました」
セシリアまでそう言って、小さく笑う。
「以前お会いした時も、ほとんどお話ししてくださいませんでしたもの」
ーー以前。
その言葉に、私の意識が引っかかった。
私は二人を見る。
セシリアは普通に笑っている。
イヴァンも普通に立っている。
「セシリア様……」
気づけば、私は口を開いていた。
「はい?」
「イヴァン様とは……、その……よくお話しされるのですか?」
自分でも不自然な質問だと思った。
でも、確かめずにはいられなかった。
セシリアは少し考えてから、首を横へ振った。
「いいえ?お会いする機会はそれなりにありますけれど、公務の時くらいですね」
「公務……だけ?」
「はい」
「……個人的にお会いしたりは?」
「ありませんけれど……」
セシリアが不思議そうに首を傾げた。
「何かありましたか?」
「ーーい、いえ!」
原作では、孤児院の事件のあとーーイヴァンはセシリアの怪我を気にして、わざわざ見舞いを届けている。
そこでまた話して、セシリアの好きなものを一つ知る。
その小さな積み重ねが執着を深めていったのだけれど……、この世界では事件が終わったらそれで終わっている。
事件だけが原作通りに起きて、本来そのあとに積み重なるはずだった、イヴァンとセシリアの時間だけがなかった。
私はずっと、前半しか見ていなかった。
孤児院の魔獣事件、聖遺物盗難、王太子暗殺未遂、北部の魔獣討伐ーー全て起きたから、原作通りだと思い込んでいた。
原作通りの彼なら、彼女が別の男性と話していれば不機嫌になり、王太子の隣に立つ姿を見ては、自分でも持て余すほどの嫉妬を覚える。
それは恋というにはあまりに重く、嫉妬というには異常なものだった。
「……リゼ」
隣から名前を呼ばれ、はっとする。
イヴァンが私を見ていた。
「どうした?」
「……」
すぐには答えられなかった。
目の前にいるイヴァンと、私の記憶の中にいるイヴァンが、どうしても重ならない。
原作では、この時期にはもう、セシリアのことになると彼は露骨に平静を失い始めていたはずなのに。
「では、私たちはこれで失礼しますね」
「イヴァン、アスティメイラ嬢に失礼のないようにな」
そう言って、アレクシスとセシリアは人々の輪の中へ戻っていった。
***
「……イヴァン様」
私は思わずイヴァンを呼ぶ。
「何だ?」
「聖女様とは……その……この一年、何度もお会いしていますよね?」
唐突な質問に、イヴァンの眉が僅かに寄った。
「ああ」
「……孤児院の魔獣事件の時も、助けに行かれましたよね?」
「行ったな」
「その後も……お会いする機会は?」
「公務では何度かあったが」
「……それだけですか?」
「それだけとは?」
「その……個人的に会ったりとか」
「ない。それは先ほど、セシリアも言っていただろう」
即答だった。
「イヴァン様」
「何だ?」
「……本当に……聖女様のことをーー何とも思っていないんですか?」
さすがに何度も聞かれたことが不思議だったのか、イヴァンが眉を寄せた。
「妙に気にするな」
「それは……」
「リゼは、俺がセシリアを好きな方がいいのか?」
「……え?」
(……まずい!)
イヴァンが訝しげにこちらを見ていた。
「先ほどから、なぜセシリアのことばかり聞くんだ?」
「それは……」
言葉に詰まる。
あなたは本来、彼女に執着しているはずだからなんてーー説明できるはずがない。
「まさか」
イヴァンの目が僅かに細くなった。
「俺とセシリアの仲を疑っているのか?」
「ーーえ?」
思いがけない方向から飛んできた言葉に、反応が遅れた。




