なんだか、雲行きが怪しいです
王宮の大広間は、春そのものだった。
天井から吊るされた巨大な玻璃の燭台が、磨き上げられた白い床へ金色の光を落としている。
壁際には白薔薇や薄桃色の薔薇が惜しげもなく飾られ、開け放たれた窓からは夜風に乗って花の香りが流れ込んでいた。
「綺麗……」
思わず呟く。
こういう瞬間だけは、自分が前世で読んだ小説の世界にいることを忘れそうになる。
ーー挿絵には描かれていなかった音。
ーー文章では伝わらなかった香り。
ーー背景としてしか存在しなかった人々の声。
ここにいる人間は、誰もが自分の人生を生きている。
もちろん、リゼもその一人だ。
「リゼ!」
聞き慣れた声に振り返ると、友人であるアメリア・ロズウェル子爵令嬢がこちらへ歩いてきた。
「やっぱりいた!」
「あら、ごきげんよう。アメリア」
「その言い方。せっかくのデビューなのに全然楽しそうじゃないわね」
アメリアが笑う。
こういう、何でもない会話が好きだ。
王太子も、聖女も、悪役令嬢もーー関係ない。
普通の令嬢として、普通に友人と話す。
そう、私はこれでいい。
「そうだ!」
アメリアが、急に私の腕を掴む。
「聖女様、見た?」
「まだよ」
「ほら!」
アメリアが大広間の中央を示す。
人垣の向こうに、王太子がいて、その隣で、セシリアが微笑んでいる。
「……」
彼女は、前世で見た挿絵より、ずっと綺麗だった。
原作で、彼女の金髪は、『春の光を溶かしたよう』と表現されていた。
大袈裟だと思っていたけれど、今ならわかる。
「綺麗でしょう?」
アメリアが言う。
その言葉を聞いた瞬間ーー鼓動が早くなるのを感じた。
この場面だ。
原作第三巻ーー私が登場するところ。
(ーーよし!)
なんだか、試験本番のような気分だ。
アメリアの隣にいた令嬢が、ため息混じりに言った。
「まるで物語のお姫様みたいだわ」
私はセシリアを見る。
そして、原作通り言った。
「まあ、本当にお綺麗な方ですこと」
一言目は無事に言えた。
ーー次に、別の令嬢が「さすが聖女様ですわね」と言ったので、私は微笑む。
「ええ。さすが聖女様ですわね」
リゼの胸の中では盛大な拍手が鳴り響いていた。
(やった!終わった……!!)
ーーこれで終わり。本当に終わりだ。
原作におけるリゼ・アスティメイラの役目は、これで全部。
ここから先、彼女は物語に登場しない。
なら、もう何も怖がる必要はない。
この一年、物語は原作通りだった。
そして今夜の自分の役割まで、きちんと原作通りに終わった。
やっぱり、大丈夫だったのだ。
一年前ーー、私がイヴァンへ手を貸した程度で、物語が変わるはずなどなかったのだ。
(ーー自由だ!!)
「……リゼ?」
「何?」
「なんでそんな晴れ晴れした顔してるの?」
「人生の大仕事を終えた気分なの」
「何言ってるのよ。聖女様を褒めただけじゃない」
「私にとっては重要なの」
「変な子ね」
(いいわ、何とでも言ってちょうだい!)
私は今ーー、最高に気分がいいから。
この一年、原作通り。
そして、今夜ーー私の出番も原作通り。
やっぱり、あれくらいじゃ何も変わっていないんだ。
一年前、イヴァンをほんの少し助けたことくらい、物語にとっては何でもなかったのだ。
***
私は給仕から葡萄のジュースを受け取ろうと、壁際へ向かった。
ーーその途中で不意に、背中へ視線を感じた。
「……?」
立ち止まる。
気のせいだと思い、そのまま歩こうとした。
けれどーーどうしても気になってしまった。
そして、ゆっくりと振り返ると、大広間の反対側ーー何人もの貴族に囲まれた、イヴァン・ハインリヒがいた。
そして、目が合ってしまったのである。
夜をそのまま纏ったような黒髪。
血を思わせる赤い瞳。
漆黒の正装には銀糸で精緻な刺繍が施され、腰には儀礼用の剣。
一年前、毒に侵されていた彼にはどこか青年らしい危うさがあった。
けれど、今のイヴァンにはそれがない。
(……大丈夫よ、大丈夫)
私はすぐに視線を逸らした。
お願いだから、こっちへは来ないで。
ーーそう祈っていた時だった。
「一年ぶりだな」
私は、恐る恐る振り返った。
赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「……」
どうしてーーさっきまで、あんなに離れたところにいたはずなのに。
「……ごきげんよう。何か、ご用でしょうか?」
私は微笑んだ。
自分でも、ひどく間抜けな挨拶だと思った。
イヴァンの瞳が、ほんのわずかに細くなった。
「……覚えていないのか?」
「はい?」
「俺を」
「……もちろん存じ上げております」
私は笑顔を崩さない。
「イヴァン・ハインリヒ様ーーいえ、ハインリヒ公爵ですよね?」
「ーーそういう意味ではない」
イヴァンは、しばらく私を見つめる。
その視線が顔をなぞる。
ーー髪。
ーー目。
ーー口元。
まるで、自分の記憶と照らし合わせるように見ていた。
「正直ーー顔には、自信がなかったんだ」
「……え?」
「あの夜は暗かったし、毒も回っていたからな」
(ーーなら、まだ誤魔化せるかな?)
「でも、声は覚えていた」
私の儚い希望は、一瞬で消えた。
「お前が関わりたくないと言ったから、この一年、探さずにいたんだぞ」
「なんのことだか……」
「ーー最初は、借りを返したかっただけだと思う」
「……」
「だが……、いつまで経っても忘れられなかった」
「……」
「忘れろと言われたから」
一度、息を吐く。
「忘れようともした」
「……」
「それでも駄目だったんだ」
「……」
「だからーー今度こそ、お前の名前を、教えてくれ」
「……」
一年前、何度も拒絶した質問だ。
でも、今はもう逃げられない。
「……リゼ」
私は小さく答える。
イヴァンが、聞き逃すまいとするように、私に顔を近づける。
「リゼ・アスティメイラ……です」
「……リゼ」
初めて名前を呼ばれた。
イヴァンはそれからしばらく、何も言わなかった。
「そうか」
そして、ほんの少し笑った。
ーーその瞬間、大広間がざわめいた。
私は意味がわからず、周囲を見渡す。
何人もの令嬢がこちらを見ている。
(……どうして?)
アメリアまで、呆然としていた。
私はイヴァンを見る。
「……ハインリヒ公爵」
「イヴァンでいい」
「……結構です」
「なぜだ?言ってみろ。ほらーー」
この感じだと、言うまで引いてくれそうにない。
私は観念して、小さい声で「……イヴァン様」と言った。
イヴァンは、満足したように微笑んだ。
「ああ、なんだ?」
「あの……」
私は姿勢を正す。
「名前もわかったことですし……」
「……」
「これで、一年前のことは、全部終わりですね」
イヴァンの表情が曇る。
「……何?終わりだと?」
「……ええ」
「なぜだ?」
純粋な疑問のようだった。
「なぜって……」
赤い瞳が、まっすぐこちらを見る。
「だって……あなたは、私が誰だったのか気になっていたのでしょう?」
「ああ、そうだ」
「なら、もう知れたので……満足なのでは?」
私は戸惑っていた。




