社交界デビュー
――あの夜から、一年が経った。
一年前ーー王宮の薔薇園で毒を盛られたイヴァン・ハインリヒは、聖女セシリアの力によって一命を取り留めた。
その事実は翌朝には王都中へ知れ渡り、『聖女セシリア、聖騎士団長の命を救う』という見出しで新聞にも載った。
その記事を見た時、リゼがどれほど安堵したことか。
自分が途中で余計なことをしてしまったとはいえ、最後にイヴァンを救ったのは、ちゃんと原作通りセシリアだった。
ーーそれだけではない。
その後も、物語は驚くほど順調に原作の筋書きをなぞっていった。
春の終わり、セシリアが王都の孤児院を訪れた際には、檻から逃げ出した魔獣が暴れる事件が起きた。
そこへ駆けつけたのが、イヴァン率いる聖騎士団。
夏には神殿から聖遺物が盗まれ、王太子アレクシスとセシリアが事件へ巻き込まれた。
秋には、建国祭で王太子の暗殺未遂。
冬には北部で魔獣が大量発生し、イヴァンが聖騎士団を率いて討伐へ向かった。
どれも前世で読んだ記憶と、大きく違ってはいなかった。
もちろん、現実は小説ほど簡潔ではない。
原作では数ページで終わっていた事件が、実際には数週間にわたって新聞を賑わせることもあったし、名前すら登場しなかった人間が怪我をしたり、予定になかった祝賀会が開かれたりもした。
それでも、大きな流れは同じだった。
セシリアは王太子アレクシスと距離を縮めているし、悪役令嬢となるエレノアは、少しずつ二人の関係へ苛立ちを募らせ始めているらしい。
だからリゼは、いつの間にか安心するようになっていた。
あの夜、自分がイヴァンへ手を差し伸べたことなど、物語という大河へ落ちた小石に過ぎなかったのだ、と。
ほんのわずかな波紋は起こしたかもしれないけれど、大河そのものの流れを変えるほどではなかった。
何より、この一年間。
イヴァンから接触は一度もなかったし、聖騎士団の人間がアスティメイラ男爵邸を訪ねてくることもなかった。
――『今日のことは、どうか忘れてくださいませ』
あの夜、そう頼んだ。
そしてきっと、本当に忘れてくれたのだろう。
その証拠に、何も起きていない。
ーーだからきっと、大丈夫。
そしてーーつい最近、原作通りイヴァンの父親であるハインリヒ公爵が病に倒れ、呆気なく逝ってしまった。
そのため、まだ二十歳になったばかりのイヴァンが公爵となった。
原作通り、順調に、あの男は『冷酷公爵』へ近づいているようだ。
ーーでもそれは、私には関係ないことだ。
***
ーー十六歳の春。
私ーーリゼ・アスティメイラは、ようやく正式な社交界デビューの日を迎えた。
王宮へ向かう馬車の窓から外を見ると、冬の気配はすっかり消え、王都には春の花が溢れていた。
石造りの街路沿いには色とりどりの花籠が飾られ、行き交う馬車にも春らしい薄布や花飾りが結ばれている。
向かいの座席では、母が満足そうに私を眺めていた。
「よく似合っているわ」
「ありがとうございます」
私は淡い紫色のドレスの裾を整えた。
派手すぎず、地味すぎず。男爵令嬢としては十分に上品で、しかし人目を集めるほど華美ではない。
まさに理想的だった。
「もう少し宝石を増やしてもよかったのに」
「これで十分です」
膝の上でぎゅっと指を組む。
「緊張しているの?」
向かいに座る母が尋ねる。
「……少しだけ」
「珍しいわね」
「私だって緊張くらいしますよ」
私は窓の外へ視線を戻した。
本当は社交界デビューそのものより、別の意味で今夜を待っていた。
なぜならーー前世で読んだ恋愛小説、『聖女と白薔薇の庭』の原作において、リゼ・アスティメイラという人物が唯一登場する夜だからだ。
ーー原作第三巻。
聖女セシリアが、王太子の正式なエスコートを受けて春の大舞踏会へ出席する。
その美しさに、貴族たちがざわめく。
そこでーー令嬢の一人として、私が登場する。
『まあ、本当にお綺麗な方ですこと』
『ええ。さすが聖女様ですわね』
以上ーー二行、終わり。
その後、リゼ・アスティメイラという名前は、二度と出てこない。
つまり、今夜ーーこの二行を無事に終えれば、私は正式に原作から退場できるのだ。
(ここまで長かった……)
心の中で。
しみじみと思う。




