軌道修正?
「……!」
ーーその瞬間。
自分が何をしたのか気づいた。
(待って……)
まずい。
セシリアに見つかってはいけない。
今夜の私は、アスティメイラ男爵家の娘として正式に夜会へ出席している。
まだ社交界へ本格的に出てはいないとはいえ、父と一緒に挨拶回りもしている。
もしセシリアに顔を見られたらーー後になって、
『ハインリヒ様と一緒にいた方』として身元を辿られる可能性がある。
ーーそれだけは絶対に駄目だ。
イヴァンだけではない。
セシリアとも関わってはいけない。
セシリアはこの物語のヒロインで、神殿から正式に認められた聖女。
そしてこれから、王太子や王族たちと深く関わっていく人物なのだから。
私は脇役らしく、物語の外側にいなければならない。
だから、イヴァンと一緒にいるところを、見られていいはずがない。
(私の馬鹿!どうして呼んじゃったのよ!)
「どなたかいらっしゃるのですか?」
セシリアの声が近づく。
(どうする……!)
セシリアがこちらへ向かって歩いてくる。
私は咄嗟に大樹の影へ身体を滑り込ませた。
「こちらに……人が倒れています!」
できるだけ顔を出さずに、声だけを飛ばす。
「……え?」
「毒を盛られたようです!」
セシリアの足音が速くなる。
「毒!?」
「はい!お早く!」
(よし、完璧でしょ!)
セシリアは声を頼りにこちらへ来ているようだ。
あとは、私が彼女がこちら側へ回り込む前にここから消えればいいだけ。
振り返ると、イヴァンがこちらを見ていた。
意識はぎりぎりあるようだ。
意識朦朧の中、赤い瞳はまだ私を追っている。
「……行く……のか?」
「ええ」
私は小さく答えた。
「聖女様が来てくださいましたから、もう大丈夫ですよ。安心して下さい」
「名前を……」
ーーまただ。
私は首を横に振る。
「ごめんなさい」
「なぜ……」
「先ほども申し上げましたでしょう?」
私は微笑んで言った。
「これ以上、関わりたくありませんから」
「……」
近づいてくる足音ーー時間がない。
「あなたには今から、きちんと助けてくださる方が来ます」
そうーー本来、あなたが出会うべき人。
あなたを助け、あなたが心を寄せ、物語を動かしていくヒロイン。
「ですからーー今日のことは、どうか忘れてくださいませ」
私は一歩後ろへ下がる。
イヴァンが何かを言おうとしている。
ーーその時、大樹の向こうからセシリアが登場した。
「大丈夫ですか!?」
(ヒロインきたーーー!!)
私はイヴァンへ向かって、咄嗟に口元へ人差し指を立てた。
――言わないで。
という意味を込める。
通じたかどうかはわからない。
そして、イヴァンがいる場所の反対側ーー薔薇の生垣に沿って、静かに後退する。
幸い、王宮の薔薇園は複雑な造りになっていた。
庭師たちが手入れに使う細い通路が、生垣の裏側へ続いている。
私はそこへ滑り込み、ドレスの裾を両手で持ち上げ、走った。
「まあ……!ハインリヒ様!?どうなさったのですか!」
背後からセシリアの声がした。
(……よかった)
そして、次の瞬間ーー生垣の向こうから柔らかな白い光が漏れた。
ーー聖女の力だ。
(これで原作通りね。軌道修正成功だわ!)
このあとは、セシリアが毒を弱め、イヴァンは助かる。
そしてーー彼は聖女へ興味を持つ。
そこから、本来の物語が始まるのである。
「……」
私は歩きながら、自分へ言い聞かせた。
大丈夫、何も変わっていない。
少しーー余計なことをしただけ。
名前は言っていないし、身分も明かしていない。
顔だって、毒で意識が朦朧としていたから、きっとーーすぐに忘れるだろう。
いや、忘れてもらわなくては困る。
なのに、なぜだろう。
胸の奥に小さな棘が刺さっている。
ーー『何も望まず、他人を助ける人間など――いない』
イヴァンの、あの言葉。
信じられないものを見るような赤い瞳。
(駄目よ!)
情を移してどうする。
彼は原作の主要人物。
私は脇役。
生きる場所が違うのだからーー。
今夜限り、それでいい。
そうしてーー私は薔薇園を後にした。
***
「……ハインリヒ様?」
セシリアは、倒れているイヴァンの胸元へ手を翳した。
淡い光が掌から溢れる。
「これは……かなり強い毒ですね……」
苦しそうに眉を寄せる。
「でも、大丈夫ですよ!」
光がイヴァンの身体を包む。
荒れていた呼吸が、徐々に穏やかになっていく。
「……」
イヴァンはゆっくり瞼を開いた。
最初に目へ入ったのは、月明かりを受けた金色の髪の美しい少女。
「よかった……!」
セシリアが微笑んだ。
「お気づきになったのですね」
「……」
「安心してください。もうすぐ人を呼びますからね!」
原作ならここでイヴァンは、自分を救った聖女を特別な存在として、セシリアを見る。
けれどーーイヴァンの赤い瞳は、セシリアを見ていなかった。
「……?」
セシリアが不思議そうにイヴァンを見ている。
「どうかなさいましたか?」
「……女は」
「はい?」
掠れた声。
「ここに……女がいただろう」
セシリアは少し考える。
「確かに、先ほど、声は聞きましたが……でも、姿は……」
そこまで言って。
首を傾げた。
「……そういえば、お見かけしていませんね」
「……」
「ハインリヒ様?」
『今日のことは、どうか忘れてくださいませ』
「……」
イヴァンは、そっと目を閉じた。
女の顔を思い出す。
ーー淡い髪。
ーー揺れる瞳。
ーー呆れたような声。
「……ハインリヒ様?まだお加減が優れませんか?」
セシリアが。
心配そうに呼びかける。
「……いや、問題ない。感謝する」
ーーその日の夜、イヴァンがいつまでも考えていたのは……
聖女セシリアのことではなく、名前すら知らない女のことだけだった。




