第十七話 おそらぐちゃぐちゃ
診療所に足を踏み入れた瞬間、薬品の匂いが鼻を突いた。
待合室には数人の村人が座り、受付では職員が慌ただしく動いている。
村の規模を考えれば大きい方なのだろうが、都市部の病院と比べればこぢんまりとした建物だった。
「すみません。巡界士協会から来ました」
セインが受付へ声を掛け、紋章を見せる。
「ああ、はい。村長から話しは聞いてますよ」
年嵩の女性が頷きつつ立ち上がる。
「ちょっと、こちらはお願いしますね」
若い受付に一声かけてカウンターから出てくると、彼女は先導するように奥へと歩き出した。
「被害に遭ったお子さんはいつから入院を?」
「十日程前になりますね」
「十日…」
「頭を強く打っていたこともあって、まだ意識は戻らなくて…」
肩を落とす女性。
「……そうですか……」
僅かに沈むセインの声に、グレイヴが一瞬、視線を投げる。だがすぐに外して先を見る。
さらに奥へと進むと、廊下の空気がわずかに変わった。
人の気配が減り、足音だけがやけに響く。
突き当たりの扉の前で、年嵩の女性が足を止める。
「こちらになります」
静かに扉が開かれた。
中は思った以上に簡素だった。
広さは一室分、窓は小さく、外光は薄く絞られている。眩しさを避けるためだろう。壁際には最低限の医療器具と魔道具が整然と並び、必要以上のものは置かれていない。
中央のベッドには、小さな身体が横たえられていた。
白いシーツの上で、胸だけがゆっくりと上下している。
呼吸はある。
それだけが、この空間の“正常”を示していた。
枕元には簡易の魔道具がいくつか設置され、規則的な間隔で淡い光を灯している。医師が状態を確認するためのものだろう。だがその光も、主張することなく控えめだった。
部屋の中にいる者たちは皆、声を潜めている。
会話は必要最低限。
足音すら、自然と小さくなる。
ここは何かを治すというより、崩れかけたものをただ繋ぎ止めている場所だった。
室内にいた一人の女性がグレイヴ達を振り返る。
「──あの…?」
窶れ、目の下に隠しきれぬ隈を浮かべた女性が、力なく首を傾げた。
「…巡界士協会の者です」
「あ…」
慌てて立ちあがろうとする女性を「どうぞ、そのままで」と押し留めて、セインは頭を下げる。
グレイヴも少し後ろでそれに倣う。
「この度はご心痛のことと存じます。……お辛いところ恐縮ですが、当時の状況を伺ってもよろしいでしょうか」
セインの声に母親はどこか疲れたように頷いた。
診療所のスタッフ達が「お話が終わったら声をかけてください」と退室していく。
「何から、お話しすれば…」
「無理に順番立てなくて大丈夫です。思い出せる範囲で構いません」
「……」
「では、まず。事故が起きたのはいつ頃でしたか?」
「十日ほど前の、昼過ぎ…でした」
その時を思い出しているのか、母親は遠くを見つめるような目をする。
「急に空が曇ってきて……洗濯物を取り込みに裏庭へ向かったんです。遊んでもらえると思ったのか、この子もついて来て……」
ベッドに横たわる子供に視線を向け、彼女は続けた。
「お気に入りの車のおもちゃまで持ってくるものだから…『少しだけよ』って……っ」
膝の上で握り締められた母親の手が震える。
沈黙が落ちる。
グレイヴはベッドの子供へ視線を向けた。
眠っているようにしか見えない。──だが十日間、一度も目を覚ましていない。
セインは何も言わず、母親が落ち着くのを待っている。
「……すみません」
ややあって、少し落ち着いた母親が頭を下げた。
「いえ…。お辛いことを思い出させてしまい、申し訳ありません」
母親が首を振る。
しばし沈黙が落ちた。
「あの……」
不意に。しかし遠慮がちにグレイヴが口を開いた。
セインがちらりと振り返る。
「ちょっといいっすか…?」
「?」
「事故の直前、この子が何か話してたとか……覚えてないっすか?」
「話していたこと……ですか?」
「すげぇ珍しいんすけど、たまに言葉に反応する術式刻印とかもあって」
可能性は低いと思うんすけど一応確認しておきたくて、とグレイヴは目を伏せた。
「話してたこと……」
母親は視線を子供へ向けた。
「そう言えば……」
呟くように言って、小さな窓へ目を移す。
「……この子『おそらぐちゃぐちゃー』って笑ってました…」
グレイヴは伏せていた目を上げた。
「……空が…?」
「きっと雨雲が近付いて来ているのを見て言ったんだと思います」
「なるほど、子供らしい表現ですね」
セインが微笑して会話を終わらせる。
グレイヴが何かを言いかけて、けれど口を噤んだ。
「大変な時に御協力ありがとうございました」
「いえ…。大したお話しもできず…」
「……少しお子さんの様子を確認させていただいても?」
「ええ、是非。……この子、巡界士に憧れてて、大きくなったら巡界士になるんだって……っ」
声を詰まらせる母親にセインは穏やかに笑う。
「それは楽しみですね」
ベッドに近付き、子供の額をそっと撫でる。
グレイヴはその隣に黙って立つ。
陽が高くなって来たからか、ほんの少しだけ室内が明るく見えた。
「……では、我々はこれで」
一礼し、セインは踵を返す。
グレイヴもまた、頭を下げるとセインの後を追った。




