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6話 煤の街、牙を研ぐ

朝靄はすでに消え、裏都市に射す光は灰色に濁っていた。

 地上から見上げるその太陽は、ただ冷たい鉄板のように空へ貼りついているだけ。

 希望ではなく、圧迫の象徴。


 アザゼルとリドは、崩れた礼拝堂――いまは作戦会議の拠点となった場所へ向かっていた。


 沈黙の路地を抜ける途中、瓦礫の影で子供が泣きじゃくっていた。

 母親がその口を慌てて塞ぎ、祈りの残骸のような目でこちらを見る。

 恐怖は煙のように街中へ広がり、住民たちの呼吸にさえ混ざっていた。


 軋む扉を押し開くと――

 砕けた祭壇。穿たれた天井。

 そこから差す灰光が、集まった者たちの影をまるで鎖のように長く引き伸ばしていた。


「全員、席に着いてくれ」


 リドの呼びかけに、十数人がバラバラの椅子へ腰を下ろす。

 修理工、廃材拾い、露店の女……戦う術を持たない者ばかり。


 ――ただ一人を除いて。


「……本気? 戦う? 俺、辛い」


 ドア枠を埋めるほどの巨体が、所在なさげに突っ立っていた。

 ド・ガン──元鍛冶屋。

 腕は丸太のように太く、全身に傷跡が走り、煤がこびりついている。

 しかし表情は大きな犬のように情けなく、肩を丸める姿は自分を小さく隠したがっている子供そのものだった。


「戦い嫌、無理。痛い、怖い。嫌。ぜっっったい嫌」


「座れ、ド・ガン」


 リドの呆れた声に押し出されるように、ギシリと椅子が軋む。

 座ってなお、巨体は震えながら小声で「無理……無理……」と呪文のように繰り返す。


「おれ、鍛冶屋。物壊す嫌。平和がいい。

 一生ベッドの上。布団が好き。

 でも……逃げたい」


 大きな拳をぎゅっと握りしめ、俯く背中。

 その不器用さは、胸を締めつけるほど真っ直ぐだった。


 アザゼルは、その巨体の震えを見つめながら静かに言葉を落とす。


「……恐怖は、守りたいものがある証だ」


 ド・ガンの小さな目が、とてもゆっくりとアザゼルを向いた。

 その瞳に、かすかな光が灯る。


 と、その背後から乾いた笑い声。


「守る、ねぇ? いいねその言い回し。

 でも、爆発で全部吹っ飛べば守るもクソもないよな」


 礼拝堂の隅。

 薄汚れたフードを被り、小柄な少年が壊れた椅子に深く腰を落としてニタついていた。

 頬は痩せこけ、目の下には濁ったクマ。

 指先はせわしなく震え、常に何かを壊し続けたい衝動が滲んでいる。


「ヘッヘ……紹介する。ぼくちゃんヒューイ。裏都市の爆弾使いだ」


 リドが額に手を当てる。


「おい酒臭いぞ。それに目バキバキすぎ。……またやったな?」


 ヒューイは誇らしげに空の瓶を掲げた。


「“鍵より先に金庫が爆散する”って噂あるけど?」

 リドが皮肉ると、


「うるせぇ、壊すのは芸術なんだよ。

 つーか鍵なんて使う奴は素人。

 爆破は平等主義だろ?」


 ヒューイは新しい瓶を取り出し、唇を泡に濡らす。

 どこか楽しげに、しかし目は血走ったまま。


 アザゼルは眉を寄せる。


「……こんな奴に爆破を任せて大丈夫か?」


「任せな。壊すなら俺が最強。

 あとこの街、全部嫌いだけど――」


 ヒューイは笑いの形をした怒りを口元に浮かべた。


「“浄化”なんて言葉は、もっと嫌いなんでね」


 その瞳に燃えるのは狂気か、それとも歪んだ正義か。

 信用はできない。しかし頼らざるを得ない。

 裏都市の生き残りとは、いつだってそういう選択ばかりだ。


 テーブルの上に広げられた地図は、何度も折られ、湿った指で触れられた跡が染みついていた。

 灰色の埃が紙面に降り積もり、そこに描かれる裏都市の路地は、まるで生き物の血管のように複雑に絡み合っている。


「……封鎖済み、か」


 アザゼルの呟きは、夜明け前の冷気のように鋭く響いた。

 赤く囲まれた外縁部は、まるで街そのものが追い詰められ、息を止められているかのようだった。


「正面からぶつかれば全滅する。

 戦列にたどり着く前に散り散りだ」


 リドの低い声が、礼拝堂の壁を震わせる。

 崩れた聖像の残骸が、かつての救いの象徴が、今はただの瓦礫として沈黙している。


「隙を作れればいい。俺が爆破で穴あける。

 でも成功しても半分は吹き飛ぶ。爆破ってそういうもんだ」


 ヒューイの指先が地図をなぞり、トントンと軽く叩いた。

 その仕草には悪戯ではなく、破壊を愛する者の昂りがあった。

 瓶を傾ける喉の動きは、まるで油に火を注ぐ儀式のようだ。


「だから軍勢を“誘導”する。

 無秩序を生む罠だ」


 リドが示した路地は、先が細く暗い。

 そこを抜けた者は、生還できない道。


「罠……使う?」

 ド・ガンの声は、巨大な身体に反し小さすぎた。

 彼の太い指が、恐る恐る、恐怖を否定できずに挙がる。


「お前の力がいる。

 落石罠、鉄柵の補強、支柱の破断。全部だ」


「それ……危ない?

 俺……死ぬ?」


 声は震え、呼吸は乱れ、彼の影までも縮こまって見えた。


「死ぬだろな」


 ヒューイが愉悦を隠しきれずに笑う。

 血走った目が、死と爆煙を同列に扱っていた。


「う、うわああああああん!!!

 戦い!!!嫌ァァァ!!!」


 巨体が床に崩れ、子供のように地団駄を踏む。

 その振動で礼拝堂の梁がミシリと鳴った。


 その泣き声に、別の小さな声が針のように突き刺さる。


「アザゼルお姉ちゃんを守ってくれたから。

 今度は……私たちが守る番」


 マリィだった。

 震える拳をぎゅっと握り、瞳に怯えと勇気を同居させる。

 幼い肩が、街の未来を担おうと必死に踏ん張っていた。


 アザゼルは少女の拳を包む。


「恐怖は、捨てるものではない。

 立ち向かうための──刃だ」


 そしてド・ガンを見つめる。


「君の恐怖は、誰かを守りたいという願いの大きさだ。

 大きいから震える。

 だからこそ強い」


 ド・ガンは鼻をすすった。

 涙の向こうで、意地と決意が生まれようとしている。


「……おれ、ちょっとだけ頑張る。

 本当に、ほんとにちょっとだけ。

 でも……そのちょっとで、誰か守れるなら」


 アザゼルは微笑んだ。


「“ちょっと”が命を救う」


 ヒューイがふてぶてしく肩をすくめる。


「臆病者の巨人と、天から落っこちてきた綺麗な外道と、

 脳みそ筋肉リーダーと、勇気出しちゃった子供。

 はい、戦力終了。負け確。死ぬね俺ら」


「死なせない」


 アザゼルの声が礼拝堂全体を張りつめさせた。

 その言葉は剣より鋭く、祈りより確かな重みを持っていた。


 リドもまた、拳を強く握り込む。


「誰もこの街を奪わせない。

 俺たちは──まだ人間だ」


 その瞬間だった。


 地面が、ぐらりと揺れた。

 空気が震え、瓦礫がざらりと崩れ落ちる。

 天井の穴から灰が舞い、まるで黒い雪のように降り注ぐ。


 外から、甲冑の足音。

 一歩ごとに、街が縫い付けられていく。


 冷たい光が扉の隙間から差し——


 扉は、爆ぜるような音で破砕された。


 白銀。

 光。

 そして絶対の殺意。


「裏都市の住民に告ぐ」


 剣を掲げ、聖騎士が進み出る。

 白い外套は一片の汚れもなく、眼差しには、罪を数える慈悲すらない。


「王の名により──浄化を開始する」


 アザゼルは即座にマリィを抱き寄せ、背後へ庇う。

 黒い羽が少女の震えを覆い隠す。


 リドは奥歯を噛み砕きそうなほどに力を込め、武器を構えた。


 ド・ガンは――


「ひっ……ひぃぃぃいいいい!!!」


 盛大に悲鳴を上げたかと思えば、そのまま後ろへ倒れ込み、白目を剥いて失神。


「……お、おい」


 リド含む裏都市の人々は頭を抱えた。


 ヒューイはというと――

 既に導線に火を点けていた。


「芸術は爆発するためにある。

 ようこそ、地獄のギャラリーへ」


 天井から降る灰が、戦いの幕を落とす合図のように舞う。


 逃げ場はない。

 だから立ち向かう。


 灰色の街は、

 今こそ牙をむき――

 喉元を噛み千切る。


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