32話 活性化作戦失敗
それは、想像を絶する地獄の始まりだった。
麻痺していた「本来のダメージ」が、利子をつけて数千倍に膨れ上がり、雪崩のように私の脳髄へと押し寄せてくる。
砕け散った肋骨が肺をズタズタに引き裂く激痛。
限界を超えて酷使された筋繊維が、ブチブチと音を立てて断裂する感覚。
呼吸の仕方を忘れたかのように肺が痙攣し、口からは酸素の代わりにドス黒い血の塊がごぼりと溢れ出た。
前髪の奥で輝いていた黄金の光は、フッと吹き消された蝋燭のように虚しく消え失せ、光を失った濁った瞳へと戻っていく。
神速を誇っていた私の身体は、空中で完全に硬直し、ただ慣性に従って敵の眼前へと放り出される「泥まみれのただの肉塊」へと成り下がってしまった。
「あ、が……ッ、ぁ……」
指先一本すら動かせない。握りしめていた折れた長剣が、力なく私の手から滑り落ち、カランと虚しい音を立てて石畳に転がった。
そして、その絶対的な私の「隙」を、目の前の化け物が見逃すはずもなかった。
空中で体勢を崩していたはずのゼンガルは、私が唐突に失速し、眼の光を失った事実を瞬時に理解した。いや、理解したというより、強者の本能がその千載一遇の好機を貪欲に喰い破ったのだ。
彼は空中で身を翻し、ふわりと音もなく石畳に着地すると同時。
自ら無防備に飛び込んできた私の顔面めがけて、剣を失った右手を、大きな蛇が獲物を呑み込むようにガバッと開き――そのまま、私の顔を片手で鷲掴みにした。
「――がッ!?」
視界が、ゼンガルの分厚い手袋に覆われて完全にブラックアウトする。
鼻と口が塞がれ、両目の眼球が指の関節で直接圧迫される。
彼の指は私のこめかみ、顎の骨、そして頭蓋の裏側へと深く食い込み、私の突進の勢いを、たった一本の腕の力だけで「ピタリ」と停止させたのだ。
首の骨がミシッと悲鳴を上げ、私の両足は宙に浮いたまま、巨大な万力に挟まれたかのように完全に固定されてしまった。
「…………」
静寂が落ちた。
いや、それは静寂などではない。嵐の前の、息が詰まるような絶対的な重圧。
私の顔面を片手で鷲掴みにし、宙に吊り上げているゼンガルから放たれる空気は、先ほどまでの「涼しげで優雅な紳士」のものではなかった。
彼の首筋には、私が残した一筋の刃傷から血が滴っている。自慢の細剣は砕かれ、泥に塗れた不完全な堕天使に、あわや命を脅かされかけたという事実。
ドロステの誇る最強の剣士のプライドは、すでにズタズタに引き裂かれていた。
「……調子に、乗りやがって……!」
地獄の底から這い出たような、低く、ドス黒い、静かな激昂。
私の顔面を掴む右手に、ギリ、ギリギリッ……と、人間の枠を完全に超えた常軌を逸した握力が込められていく。
それはただの拘束ではない。純粋な「破壊」を目的とした、圧倒的な圧力。
頭蓋骨が軋み、眼球が裏側から押し出されそうになるほどの凄まじい痛み。顔面の骨という骨が、外側からの尋常ではない力によって内側へとひしゃげそうになっていた。
「んんッ……!? あ、がぁぁ……ッ!!」
口を塞がれているため、私の喉の奥から漏れ出たのは、形にならない酷く鈍く、無様な悲鳴だけだった。
両手でゼンガルの腕を必死に掴み、引き剥がそうと爪を立てるが、彼の大理石のように硬い腕はビクともしない。力が入らない。抵抗すればするほど、顔面を締め付ける万力の圧力は増していくばかりだった。
「ただの薄汚い泥ネズミの分際で……私に傷を負わせ、私の剣を汚した罪……万死に値する」
顔面を覆う指の隙間から、ゼンガルの冷酷で、狂気じみた怒りに満ちた声が鼓膜を殴りつける。
「このまま頭を握り潰してやる……!」
メキ……ッ、メキメキメキッ……!!
「あ、がぁぁぁぁぁッ……!!」
私の頭蓋骨から、決して鳴ってはならない致命的な破断音が響き始めた。
こめかみの骨が内側へとたわみ、脳髄そのものが外殻からの圧力で直接潰されそうになる極限の激痛。視神経が悲鳴を上げ、塞がれた視界の奥で、チカチカと致命的なノイズが走り始める。
「さあ、見せてみろ堕天使……! 神の眷属の脳みその色は、一体何色だろうなあ……!」
ミシ、ミシィィッ……!!
ゼンガルの狂気的な宣言と共に、さらなる絶望的な握力が私の顔面を圧砕していく。
強引な活性化の反動で動かない身体。砕けゆく頭蓋。
私は、圧倒的な死の淵で、自らの頭の骨が今まさに砕け散ろうとするその音を、ただ絶望と共に聞かされることしかできなかった。
メキ……ッ、メキメキメキッ……!!
「あ、がぁぁぁぁぁッ……!!」
私の頭蓋骨が、限界を超えて軋む。
視界は完全に奪われ、暗闇の中で己の骨が砕けていく悍ましい音だけが脳内に響き渡る。
痛覚という概念すら通り越し、脳髄が直接沸騰するような根源的な恐怖。ゼンガルの常軌を逸した握力は、私の顔面を内側へとひしゃげさせ、確実なる「死」の淵へと私を突き落とそうとしていた。
(……あ、あ……)
意識が、白く泡立って遠のいていく。
これまでか。
天界から追放され、泥水をすすり、神から奪い取った微弱な権力を己の脳に突き立ててまで抗ったというのに。
結局、私はこの下等で惨めな裏都市のゴミ溜めで、神の顔を再び拝むこともなく、一匹の泥ネズミとして無様に頭を握り潰されて死ぬのか。
ゼンガルの残酷な冷笑が、鼓膜越しに響く。私の命の灯火が、今まさに完全に吹き消されようとした、その刹那だった。
――ピキィィィンッ……!!
何か、極度に圧縮された莫大なエネルギーが、遥か遠くで弾けるような音がした。
いや、遠くではない。それは凄まじい速度で、この広場へと一直線に向かってきている。
「……む?」
私の頭を握り潰そうとしていたゼンガルの手が、ほんの僅かに止まった。
最強の剣士としての本能が、強烈な危機感知アラートを鳴らしたのだろう。彼が私の顔から視線を外し、その「異常な気配」へと顔を向けた瞬間だった。
『ズドォォォォォォォォンッ!!!』
私の真横の空間から、凄まじい爆炎とソニックブームが弾け飛んだ。
鼓膜を劈くような硬質な金属の駆動音と、空気を無理やり引き裂くジェットの轟音。猛烈な突風が泥水を巻き上げ、視界を青白い熱波が覆い尽くす。
ただの突進ではない。それは一切のブレーキを度外視した、規格外の質量による音速の『特攻』だった。
「チッ……! 野蛮な真似を……!」
舌打ちと共に、私の顔面を締め付けていた絶対的な万力の拘束が、唐突に解き放たれた。
迫り来る圧倒的な質量と熱量の直撃を避けるため、ゼンガルが私を乱暴に手放し、後方へと軽やかに、しかし大きく跳躍して回避行動をとったのだ。
「が、はァッ……! ゲホッ、ゴホォッ!!」
私は泥と血の水溜まりの中へ、ボロ雑巾のように落下した。
気管に詰まっていた血反吐を吐き出しながら、浅く痙攣する肺で必死に酸素を貪り食う。ひしゃげかけた頭蓋骨が脈打つように痛み、視界は極度のダメージでぐらぐらと揺れ動いている。
だが、それでも私は生きていた。
ガガガガガガガッ!!!
私の目の前で、石畳を深く抉りながら、強引に急ブレーキをかける巨大な影があった。
火花を散らしながら停止したその姿は、あまりにも無骨で、泥臭くて、傷だらけで――。
ゼンガルの優雅な美しさとは対極にある、巨大な鋼鉄の塊。
二振りの分厚い刀を抜き放ち、ゼンガルとの間に立ち塞がるようにして私を庇ったその男は、肩の関節からプシューッと凄まじい白煙(排熱の蒸気)を吐き出しながら、ゆっくりと私を見下ろした。
「……遅いぞ、ザント……」
私は泥水に顔を半分沈め、砕けた肋骨と頭部の激痛に顔を歪めながらも、口端から血を流してそう悪態をついた。
今まで彼を「鉄屑」としか呼んでこなかった私が、初めてその名を口にした瞬間だった。
ザントは赤いカメラアイを瞬かせ、一瞬だけ目を丸くした。
無機質なはずの機械の顔に、明らかな驚きが浮かぶ。だがそれも束の間。彼はすぐに、いつものようにニカッと好戦的な牙を剥き出しにして、呆れたように鼻で笑った。
「……ハッ。なんだよ、天使ちゃん。あんなにドヤ顔で『俺はあいつに120%勝てる』って豪語してたのに、なんだそのザマは。泥と血でぐちゃぐちゃじゃねぇか」
「……フン。120%勝つための、入念な準備運動だ。……予定通り、あいつの武器は破壊しておいてやったぞ」
「強がりもそこまでいくと立派だぜ。頭蓋骨ヒビ入ってんじゃねぇか」
軽口を叩きながらも、ザントの二本の刀は微塵の隙もなくゼンガルへと向けられている。
数メートル先で着地したゼンガルは、自慢の軍服の袖が今の突風で僅かに汚れ、焦げているのを見て、ひどく不快そうに眉をひそめていた。
「……下等なサイボーグ風情が。私の『処刑』を邪魔するとは、万死に値しますよ」
武器を失い、素手になってもなお、ゼンガルから放たれる死の重圧は全く衰えていない。むしろ、私という玩具に傷をつけられた怒りで、その冷気は先ほどよりも研ぎ澄まされていた。
「で? こっからどうやって勝つんだよ。お前、もうまともに立つことすらできねぇだろ」
前方を睨みつけたまま、ザントが私に問いかける。
彼の言う通りだ。私の身体はゼンガルの残忍な拳と、強引な脳の活性化の反動、そして顔面圧砕のダメージによって完全に破壊され、指先一本すら動かすことができない。
だが。
私の黄金の瞳の奥で、闘志の炎は微塵も消えていなかった。
私は震える右腕を限界の力で持ち上げ、ザントの分厚い鋼鉄の足にすがりつくようにして上体を起こすと、彼を見上げてはっきりと告げた。
「……私をおぶれ」
「…………は?」
ザントの赤い瞳が、信じられないものを見るように激しく点滅した。
「私をおぶれと言っているんだ。……あの地下水路で、ヴェリーナをやった時みたいにな」
「……ッ」
その言葉に、ザントはかつての記憶を鮮明に呼び起こしたはずだ。
あの夜。圧倒的な速度で襲い来る暗殺者に対し、動体視力に劣る私が『砲台』となり、超高速で動けるザントが『足』となることで、強引に叩き潰したあの変則戦法。
あの時、私はあれほどまでに屈辱に顔を赤くして喚き散らし、「下等な鉄屑の背になんて乗れるか」と拒絶していた。そのプライドの塊のような元天使が。
今、頭蓋骨を軋ませ、血反吐を吐きながら、自分から「背中に乗せろ」と命令しているのだ。
「……ぷはっ!」
ザントは、こらえきれないというように天を仰いだ。
「ぷははははっ! あーっはっはっはっは!!」
絶対的な死地である戦場のど真ん中だというのに、ザントは腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。鋼鉄の身体がガシャガシャと鳴るほどの、心底愉快そうな大爆笑。
「お前っ……あん時、あんなにブチ切れて文句タラタラだったのによ! まさか自分から言い出すとは思わなかったぜ!」
「……るさい、黙れッ! 笑うな、舌を噛み切って死にたくなるだろうが!」
私は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、砕けた肋骨と頭が痛んで激しく咳き込んでしまった。
「ああ、わりぃわりぃ。……だが、最高の作戦だ。お前がその気なら、俺の背中はいつでも空いてるぜ」
ザントは二つの刀を一度カチャリと鞘に収めると、ゼンガルから視線を外さぬまま、私に背を向けて低くしゃがみ込んだ。
私は歯を食いしばりながら、血に濡れた腕で彼の分厚い鋼鉄の首に抱きつき、その背中へとガバッと飛び乗った。
ゴツゴツとした金属の感触が、折れた骨に響いて激痛が走る。
だが、それ以上に……この熱を帯びた機械の背中は、どうしようもないほどに温かく、そして頼もしかったのだ。
「……随分と奇妙な真似をしますね」
数メートル先で、ゼンガルが細剣を下段に構えながら、冷ややかな視線を送ってきた。
「満身創痍の堕天使をおぶって戦う? 大道芸のつもりですか。あなたがかつての同僚ヴェリーナをどう退けたかは知りませんが、私にそのような小細工は通用しませんよ」
「小細工かどうか、その上品な身体で直接味わってみな」
ザントが立ち上がり、再び二振りの刀を引き抜く。
私はザントの肩越しから、右手の小指を前方――ゼンガルへと真っ直ぐに突き出した。
指先に宿る、極小にして無限の魔力。先ほどまでは私が自力で逃げ回りながら発動させるしかなかったため、罠としてしか機能しなかった。
だが今は違う。
「行くぜ、天使ちゃん。振り落とされんなよ!」
「誰に言っている。……あの水色の気取った紳士の顔を、泥水に突っ込ませてやれ!」
『ズバァァァァァンッ!!!』
ザントの足元から、極大のスラスターが青白い火柱を上げて爆発した。
広場の石畳を粉砕しながら、サイボーグの巨体が音速を超えた弾丸となって、ゼンガルへと一直線に突進する。
「速い……が、直線的すぎる」
ゼンガルは全く動じることなく、迫り来る私たちに向けて細剣を突き出した。
彼の異常な剣速から放たれる、不可視の刺突の嵐。
だが、ザントはそれを刀で弾くことすらせず、私の指示を待った。
(――今だ!)
「くらえェッ!!」
私が右手の小指から淡い緑色の『豊穣の光弾』を放つ。
それは一直線に飛来し、ゼンガルの放った無数の刺突の軌道――彼自身の細剣の刃に、正確無比に着弾した。
「なにッ!?」
パシュッ!という音と共に、ゼンガルの美しき細剣の刀身が一瞬にして赤錆に覆われ、ボロボロと砂のように崩れ落ちた。
武器を失い、完全に無防備となった紳士の顔に、初めて明確な『焦り』が浮かび上がる。
「ハハハハッ!言っただろ、120%勝てるってなァ!!」
「それは私が先に......」
「うっせぇ!!!四の五の言わずに行くぜ!!!」
ザントの咆哮と共に、二つの刀が唸りを上げる。
誇り高き堕天使の頭脳と無限の魔力、そして裏都市の荒くれ者の圧倒的な機動力が一つになった完全無欠の『変則機動』
泥と血にまみれた最強の二人の反撃が、今、ついに始まったのだ。




