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31話 第1番隊隊長ゼンガル

――ヒュンッ!!

 私の頬を、音置き去りにした鋭利な風が撫でた。

 直後、私が数秒前まで立っていた背後の分厚い石柱が、音もなく円形に穿たれ、ボロボロと崩れ落ちた。

「ハァッ……ハァッ……!」

 私は息を乱しながら、血と泥にまみれた石畳の上を無様に転がり、間一髪でその刺突から逃れた。折れた長剣を杖代わりに立ち上がるが、両足は疲労で鉛のように重い。

「おや。今のは完全に心臓を捉えたつもりだったのですが。さすがは神の眷属、直感と危機回避能力は素晴らしい」

 土煙の向こうから、焦る様子など微塵もない、涼しげな足音が近づいてくる。

 水色の髪を優雅に風に揺らす第1番隊隊長・ゼンガル。彼は美しく装飾された細剣を手首でくるりと回転させ、紳士的な笑みを浮かべたまま私との距離を詰めてくる。

 この泥沼のような戦場のど真ん中にあって、彼の純白の軍服には未だに汚れ一つ付着していない。

「ですが、いつまで逃げ回るおつもりですか? それでは私を倒すどころか、ご自慢の羽すら生えてきませんよ」

「……黙れッ!」

 私は背中を向けたまま広場の瓦礫地帯へと駆け込み、振り返りざまに右手の小指を彼へと鋭く突き出した。

「――絡みつけッ!」

 右手小指の先に宿る、豆粒ほどの『豊穣の権力』が淡い緑色の燐光を放つ。

 ズザァァァンッ!

 ゼンガルの足元の石畳の隙間から、私の魔力によって急成長を遂げた太いいばらの蔓が何本も鞭のように飛び出し、彼の両足を絡め取ろうと襲いかかった。

 だが。

「美しい花には棘があるものですが……いささか無骨すぎますね」

 シャァァァンッ!

 ゼンガルは足元すら見ず、涼しい顔で手首をわずかに返した。ただそれだけで、目に見えぬほどの超高速の刺突の嵐が放たれ、茨の蔓は彼に触れる前に数ミリ単位で細切れにされ、空中に散華した。

(……化け物め。なんて異常な剣速と精密さだ)

 私は舌打ちをして再び走り出し、巨大な女神像の裏へと身を隠した。

 真正面から打ち合えば、今の脆弱な人間の身体では一瞬で蜂の巣にされる。私の戦法は必然的に、地の利を活かして逃げ回りながら、『豊穣の権力』を駆使してトラップを仕掛け続けることに限られていた。

「枯れ落ちろッ!」

 私は通りすがりの金属製の柵に触れ、能力を発動させる。

 追ってくるゼンガルの進行方向にある鉄の柵が一瞬で赤錆に覆われ、彼が踏み込んだ瞬間に崩落するように仕掛けた。

 しかし、ゼンガルは崩れ落ちる鉄の破片を細剣の切っ先でトントンと軽く叩いて足場にし、まるで階段を上るようにふわりと跳躍して躱してみせた。

「金属を老朽化させ、植物を操る。本来であれば恐るべき神の御業なのでしょうが……いかんせん、出力が小さすぎる。あなたのその力では、私に傷一つ負わせることはできませんよ」

 空から舞い降りてきたゼンガルが、再び細剣を構える。

「逃げてばかりでは踊りになりません。そろそろ、幕引きといたしましょう」

 彼の水色の瞳から、紳士の仮面が剥がれ、本物の『殺意』が覗いた。

 圧倒的な身体能力の差。出力不足の権力。普通に考えれば、私が彼に勝てる要素など一つもない。

  ――そこからの展開は、あまりにも一方的で残酷な蹂躙劇だった。

 私が仕掛けた罠を、ゼンガルは文字通り「歩きながら」全て無力化していく。蔓を斬り捨て、錆びた鉄を蹴り砕き、まるで庭園を散歩するかのような優雅な足取りで、私の退路を的確に塞いでいった。

 逃げ場を失い、広場の隅の崩れかけた石壁へと追い詰められた私の背中に、冷たい石の感触が走る。

「さて。鬼ごっこはこれくらいで終わりにしましょうか」

 フッ、と。

 ゼンガルの姿が、私の視界から掻き消えた。

 速い。ヴェリーナの『空間跳躍』のような超常の能力ではない。ただ純粋に、極限まで鍛え上げられた剣士としての踏み込みが、私の動体視力を完全に置き去りにしたのだ。

「――ッ!?」

 気付けば、ゼンガルは私の眼前、鼻先が触れ合うほどのゼロ距離に立っていた。

 細剣の切っ先が来る、と身構えた私の予測を裏切り。

 彼は剣を持たない左手の拳を、一切の容赦なく、私の鳩尾へと深々と叩き込んだ。

 ゴフッ……!!!

 内臓が破裂したかと思うほどの、凄まじい衝撃。

 肺から空気が根こそぎ絞り出され、声にならない悲鳴が喉の奥で詰まる。私の身体は「く」の字に折れ曲がり、胃液と血が混じったものが口からどばっと吐き出された。

「おや。これほど無防備に腹を晒すとは……神の眷属の身体というのは、よほど頑丈にできているのですね。ならば、遠慮はいりませんね」

 ゼンガルは涼しげな笑みを崩さないまま、うずくまろうとする私の胸ぐらを左手で掴んで強引に引き起こし、再び鳩尾へ向けて重い拳を叩き込んだ。

「が、あァッ……!!」

「どうしました? 自慢の神の権力で、私を錆びつかせてみてはいかがですか?」

 ドゴォォォンッ!!

 三発目、四発目。

 的確に内臓を破壊し、呼吸を封じる残忍な連撃。水色の髪を揺らす爽やかな紳士の顔をした男は、一切の感情を乱すことなく、まるでサンドバッグを叩くような単調なリズムで私の腹を殴り続けた。

 私は朦朧とする意識の中で、必死に右手の小指を彼に向けようとする。だが、その些細な抵抗すらも読まれていたかのように、彼は私の右手首を細剣の柄で激しく打ち据え、いとも容易くその動きを封じた。

「あ、ぐ……ぅ……ッ」

「無駄ですよ。あなたのような力も速度もない泥まみれの素人に、私を捉えることなど不可能です」

 メキィッ!と、ついに肋骨が嫌な音を立てて砕けた。

 激痛に目の前が真っ白になり、私はとうとう堪えきれず、人形のように崩れ落ちた。

 ドサッ、と泥と血の水溜まりの中にうつ伏せに倒れ込む。全身の神経が悲鳴を上げ、指先一本すら動かすことができない。呼吸をするたびに肺に激痛が走り、口からごぼごぼと血の泡が溢れ出た。

(……く、そ……身体が……動か、ない……)

 泥水を舐めながら、私は霞む視界で眼前の純白のブーツを睨みつけた。

「……はぁ」

 頭上から聞こえてきたのは、ひどく退屈そうな、深い溜息だった。

「期待外れもいいところですね。私はまだ、何も魔法も、奥義も使っていないというのに」

 ゼンガルは、泥に這いつくばる私を見下ろし、心底つまらなそうに首を振った。

「これだったら……あの野蛮なザントが来てくれれば、少しは楽しめたものを。元とはいえ、あなたのような羽の折れた不完全な存在と戦うのは、私の剣を汚すだけでしかありません」

 彼は細剣についた僅かな汚れを布で拭き取ると、再びその鋭利な切っ先を、ピタリと私の首筋へと向けた。

 刃先から伝わる、絶対的な死の冷気。

「ま、いいでしょう。私の任務は、エノク女王陛下に仇なす不純物を『浄化』すること。……私はただ、お前の首をエノク様に献上するまでです」

 ゼンガルが、処刑人のように細剣を高く振り上げる。

 私の心臓を貫き、その首を胴体から切り離すための、冷酷で完璧な一撃。

 死の影が、私の全身を完全に覆い尽くした。

 冷酷な死の宣告と共に、ゼンガルの細剣が私の首めがけて振り下ろされた。

 完璧な軌道。回避も防御も不可能な、処刑の一撃。

 私は血反吐にまみれたまま、ただその冷たい刃が自身の命を刈り取る瞬間をじっと見つめていた。

 ――だが。

 その凶刃が私の皮膚を裂くよりも、ほんのコンマ一秒早く。

 『ズドォォォォンッ!!』

 私の真横の空間から、凄まじい爆炎とソニックブームが弾け飛んだ。

 猛烈な突風が泥水を巻き上げ、視界を青白い熱波が覆い尽くす。

 直後、鼓膜を劈くような硬質な金属の激突音が広場に鳴り響いた。

「……おっと」

 ゼンガルが初めて、その涼しげな顔に僅かな驚きを浮かべ、後方へと軽やかに跳躍して距離を取った。

 彼が先ほどまで立っていた場所――私の目の前には、石畳を大きく抉りながら強引に急ブレーキをかけた、見慣れた巨大な鋼鉄の背中があった。

 二振りの刀を交差させ、ゼンガルの必殺の一撃を間一髪で弾き飛ばしたその男は、肩の関節からプシューッと白い排熱の蒸気を吐き出しながら、ゆっくりと私を見下ろした。

「……遅いぞ、**ザント**……」

 私は砕けた肋骨の激痛に顔を歪めながら、口端から血を流してそう悪態をついた。

 今まで彼を「鉄屑」としか呼んでこなかった私が、初めてその名を口にした瞬間だった。

 ザントは赤いカメラアイを瞬かせ、一瞬だけ目を丸くした。

 しかしすぐに、いつものようにニカッと好戦的な牙を剥き出しにして、呆れたように鼻で笑った。

「……ハッ。なんだよ、天使ちゃん。あんなにドヤ顔で『俺はあいつに120%勝てる』って豪語してたのに、なんだそのザマは。泥と血でぐちゃぐちゃじゃねぇか」

「……フン。120%勝つための、入念な準備運動だ」

「強がりもそこまでいくと立派だぜ。……で? こっからどうやって勝つんだよ。お前、もうまともに立つことすらできねぇだろ」

 ザントの言う通りだ。私の身体はゼンガルの残忍な拳によって完全に破壊され、両足には力が入らない。

 だが、私の瞳から闘志の炎は消えていなかった。

 私は震える右腕を伸ばし、ザントの鋼鉄の足にすがりつくようにして上体を起こすと、彼を見上げてはっきりと告げた。

「……私をおぶれ」

「…………は?」

 ザントの赤い瞳が、信じられないものを見るように点滅した。

「私をおぶれと言っているんだ。……あの地下水路で、ヴェリーナをやった時みたいにな」

「……ッ」

 その言葉に、ザントはかつての記憶を鮮明に呼び起こした。

 あの夜。圧倒的な速度と空間跳躍で襲い来る仮面の暗殺者に対し、動体視力に劣る私が『砲台』となり、超高速で動けるザントが『足』となることで、強引にアウトレンジから叩き潰したあの変則戦法。

 ――『お、おんぶしろというのか!? この誇り高き元天使の私が、下等な鉄屑の背になんて!』

 ――『乗り心地が最悪だ。後で背中にフカフカのクッションを取り付けろ』

 あの時、あれほどまでに屈辱に顔を赤くして喚き散らし、嫌がっていたプライドの塊のような元天使が。

 今、血反吐を吐きながら、自分から「背中に乗せろ」と命令しているのだ。

「……ぷはっ!」

 ザントは、こらえきれないというように天を仰いだ。

「ぷははははっ! あーっはっはっはっは!!」

 戦場のど真ん中だというのに、ザントは腹を抱えて豪快に笑い飛ばした。

 鋼鉄の身体がガシャガシャと鳴るほどの、心底愉快そうな大爆笑。

「お前っ……あん時、あんなにブチ切れて文句タラタラだったのによ! まさか自分から言い出すとは思わなかったぜ!」

「……るさい、黙れッ! 笑うな、舌を噛み切って死にたくなるだろうが!」

 私は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、砕けた肋骨が痛んで激しく咳き込んでしまった。

「ああ、わりぃわりぃ。……だが、最高の作戦だ。お前がその気なら、俺の背中はいつでも空いてるぜ」

 ザントは二つの刀を一度鞘に収めると、私に背を向けて低くしゃがみ込んだ。

 私は歯を食いしばりながら、血に濡れた腕で彼の分厚い鋼鉄の首に抱きつき、その背中へとガバッと飛び乗った。

 ゴツゴツとした金属の感触が、折れた骨に響いて激痛が走る。だが、それ以上に……この背中は、どうしようもないほどに温かく、頼もしかった。

「……随分と奇妙な真似をしますね」

 数メートル先で、ゼンガルが細剣を下段に構えながら、冷ややかな視線を送ってきた。

「満身創痍の堕天使をおぶって戦う? 大道芸のつもりですか。あなたがかつての同僚ヴェリーナをどう退けたかは知りませんが、私にそのような小細工は通用しませんよ」

「小細工かどうか、その上品な身体で直接味わってみな」

 ザントが立ち上がり、再び二振りの刀を引き抜く。

 私はザントの肩越しから、右手の小指を前方――ゼンガルへと真っ直ぐに突き出した。

 指先に宿る、極小にして無限の魔力。先ほどまでは私が自力で逃げ回りながら発動させるしかなかったため、罠としてしか機能しなかった。

 だが今は違う。

「行くぜ、天使ちゃん。振り落とされんなよ!」

「誰に言っている。……あの水色の気取った紳士の顔を、泥水に突っ込ませてやれ!」

 『ズバァァァァァンッ!!!』

 ザントの足元から、極大のスラスターが青白い火柱を上げて爆発した。

 広場の石畳を粉砕しながら、サイボーグの巨体が音速を超えた弾丸となって、ゼンガルへと一直線に突進する。

「速い……が、直線的すぎる」

 ゼンガルは全く動じることなく、迫り来る私たちに向けて細剣を突き出した。

 彼の異常な剣速から放たれる、不可視の刺突の嵐。

 だが、ザントはそれを刀で弾くことすらせず、私の指示を待った。

(――今だ!)

「腐れェッ!!」

 私が右手の小指から淡い緑色の『豊穣の光弾』を放つ。

 それは一直線に飛来し、ゼンガルの放った無数の刺突の軌道――彼自身の細剣の刃に、正確無比に着弾した。

「なにッ!?」

 パシュッ!という音と共に、ゼンガルの美しき細剣の刀身が一瞬にして赤錆に覆われ、ボロボロと砂のように崩れ落ちた。

 武器を失い、完全に無防備となった紳士の顔に、初めて明確な『焦り』が浮かび上がる。

「ハハハハッ!言っただろ、120%勝てるってなァ!!」

「それは私が先に......」

「うっせぇ!!!四の五の言わずに行くぜ!!!」

 ザントの咆哮と共に、二つの刀が唸りを上げる。

 誇り高き堕天使の頭脳と無限の魔力、そして裏都市の荒くれ者の圧倒的な機動力が一つになった完全無欠の『変則機動』。

 泥と血にまみれた最強の二人の反撃が、今、ついに始まったのだ。


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