30話 音速の果て
ゴォォォォォォォォッ!!!
王都の広場を、炎と鋼鉄の竜巻が蹂躙していく。
ザントのブースターから噴出される超高熱の排気と、二振りの刀が巻き起こす暴風。それは戦場に突如として現れた局地的な災害そのものだった。
ヴェリーナが事前に木々や瓦礫に刻み込んでいた『追跡の印』は、竜巻が通過するたびに足場ごと無残に粉砕され、燃えカスとなって消滅していく。
「……ッ、この馬鹿力……!」
ヴェリーナは舌打ちをし、破壊を免れた数少ない印へと空間跳躍を繰り返して逃げ回るしかなかった。
彼女の暗殺術は、相手の死角を突き、点から点へと移動して一方的に切り刻むからこそ無敵なのだ。だが今のザントには、死角という概念が存在しない。全方位が致死量の斬撃と超高熱に覆われているため、直接ザントの装甲に刻んだ印へ跳躍すれば、現れた瞬間に彼女自身がミンチにされてしまう。
「どうしたァ! 自慢の瞬間移動は逃げにしか使えねぇのか!!」
「野蛮人が……! そんな無茶な熱暴走、長続きするはずがありません!」
ヴェリーナの指摘は正しい。リミッターを解除したサイボーグの体は、長くは持たない。
だが、ザントはそれを承知の上で、限界までエンジンを回していた。
「あぁ、長続きしねぇよ! だから……一秒で終わらせてやる!!」
ザントが吠え、その場で高速回転させていた竜巻の軌道を、強引にヴェリーナの方角へと向けた。
ズドォォォォンッ!!
凄まじい地響きと共に、炎の竜巻そのものが、意思を持った巨大な獣のようにヴェリーナへと猛突進を開始したのだ。
「なッ……!?」
圧倒的な質量と熱波が迫り来る。
ヴェリーナは咄嗟に背後の印へ跳躍しようとしたが、ザントの竜巻が放つ暴風によって瓦礫が巻き上げられ、彼女の視界と退路を物理的に塞いでしまった。
「逃がさねぇよ、ヴェリーナ!!」
炎の壁の中から、赤熱化したザントの巨体が弾丸のように飛び出してきた。
彼は竜巻の遠心力を限界まで乗せた右手の打刀を、ヴェリーナの頭上から一切の躊躇なく叩き落とす。
「くぅッ……!」
ヴェリーナは空間跳躍を諦め、青白い双剣を頭上で交差させて防御姿勢をとる。
ガギィィィィィンッ!!!
ドロステの最高峰の鍛冶技術で作られた双剣と、サイボーグの規格外の馬力が正面から激突する。
だが、その物理的な重量差は絶望的だった。
「が、あ……ッ!」
ヴェリーナの細い両腕が悲鳴を上げ、足元の石畳がクレーターのように陥没する。
完璧な防御の型を、暴力的な重さがミシミシと押し潰していく。双剣がザントの刀をかろうじて受け止めたものの、その衝撃波までは殺しきれなかった。
「これで、お揃いだぜッ!!」
ザントは右手の打刀を押し込んだまま、空いていた左手の小太刀の柄を、無防備になったヴェリーナの顔面へと猛烈な勢いで横殴りに叩きつけた。
パリィィィィンッ!!!
鋭く甲高い破砕音が戦場に響き渡った。
ヴェリーナが新調したばかりの美しい白い仮面が、ザントの渾身の一撃によって真っ二つに砕け散り、空中に白い破片が舞い散る。
「きゃあぁぁッ!?」
顔面への強烈な衝撃に、ヴェリーナの体勢が完全に崩れた。
彼女はそのまま石畳の上を数メートルほど無様に転がり、土埃まみれになってようやく停止した。
「……ハァッ、ハァッ……どうだ、嬢ちゃん」
ザントは全身から凄まじい熱気とオイルの煙を噴き上げながら、刀を肩に担いでニヤリと牙を見せた。
彼の装甲はボロボロで、今にも機能停止しそうだったが、その瞳に宿る闘志の炎は少しも衰えていない。
一方のヴェリーナは、ゆっくりと石畳から上体を起こした。
パラパラと、割れた仮面の残骸が彼女の顔から落ちる。
その下から露わになったのは、美しい素顔――そして、これまで一切の感情を見せなかった彼女からは想像もつかないほど、激しく動揺し、不機嫌さに歪んだ表情だった。
「……また。また、私の顔を……ッ」
ヴェリーナは震える手で自身の頬に触れ、ポタッと落ちた一滴の血を見て、ギリッと奥歯を鳴らした。
水路でのアザゼルに続き、今度は粗大ゴミと見下していたサイボーグにまで、自らを覆い隠す完璧な『仮面』を剥ぎ取られたのだ。
それは彼女にとって、自身の暗殺術が力技でねじ伏せられた敗北感と、完璧主義なプライドを泥靴で踏みにじられたに等しい屈辱だった。
「頭の悪い、下等な鉄屑が……よくも……よくも……!!」
ヴェリーナの透き通るような声は、もはや怒りで低くドス黒く濁っていた。
冷徹な暗殺者の仮面が剥がれ落ち、そこにあるのは、計算を狂わされて癇癪を起こす、一人の不機嫌な女の顔。
「ハハッ! なんだ、感情あンじゃねぇか! そっちのツラの方が、人間らしくてずっといいぜ!」
ザントは彼女の怒りを煽るように豪快に笑い飛ばし、二つの刀を再び鋭く構え直した。
戦況は完全に逆転した。計算と跳躍を封じられ、冷静さを失った暗殺者と、すべてを力でねじ伏せる鉄の巨人。二人の死闘は、いよいよ最終局面へと差し掛かろうとしていた。
パラパラと、純白の仮面の破片が石畳へと滑り落ちる。
無機質で冷徹な暗殺者の象徴は完全に砕け散り、そこから露わになったのは、血が滲むほどに唇を噛み締め、剥き出しの憎悪で顔を歪ませたヴェリーナの素顔だった。
「……ッ、ふざ、けんなよ……」
彼女の口から漏れたのは、先ほどまでの透き通るような冷徹な声とは似ても似つかない、ドス黒く濁った怨嗟の唸りだった。
美しかったはずの双眸には血走った血管が浮かび、彼女は折れた爪が食い込むほどに青白い双剣の柄を握りしめた。
「ふざけんなよ、この……この、薄汚い裏切り者がァッ!!」
ドロステの誇り高き『第2番隊隊長』の口調が、荒くれ者と全く同じ、粗野で荒々しいものへと完全に崩落した瞬間だった。
彼女はもう、冷徹な暗殺者としての計算も、空間支配の優位性もかなぐり捨てていた。ただひたすらに、目の前に立つかつての同僚のサイボーグを解体したいという純粋な殺意だけで、真っ向からザントへと飛びかかった。
「死ねッ! 死ね死ね死ね死ねェッ!!」
ガガガガガガッ!!
怒りに身を任せたヴェリーナの双剣が、ザントの二つの刀に力任せに打ち付けられる。空間跳躍の緻密な連携も、死角を突くステップもない。ただ速く、ただ重く、感情のままに刃を振り回す。
だが、そんな大振りの怒りの連撃など、歴戦の重みを知るザントの装甲を貫くには至らない。
「ハッ! なんだなんだ、仮面が割れたらお上品な言葉遣いも一緒に割れちまったのか!? ガラの悪いお姫様だぜ!!」
「黙れッ! てめぇが……てめぇみたいな下等な鉄屑が、私の顔を汚すなッ!!」
キィィィンッ!!
ザントが長尺の打刀でヴェリーナの右刃を弾き上げると、彼女の体勢が大きく崩れた。だが彼女は引かない。引くことすらプライドが許さないのだ。
「そもそも……私は昔からッ、てめぇのそのデカい図体も、うるせぇ駆動音も、全部が気に食わなかったんだよ!!」
ヴェリーナの喉の奥から、長年抑え込み、澱のように溜まり続けていたドロドロとした本音が噴き出した。
共に聖騎士団の隊長として白亜の城にいた頃から抱えていた、強烈な劣等感と嫌悪。彼女は刃と刃を激しく交差させながら、血を吐くような声で叫んだ。
「てめぇが第4番隊の隊長に這い上がってくる前まで……私は、この聖騎士団で誰よりも『最速』だった! 私の空間跳躍に追いつける者など誰もいなかった! それが私の絶対の玉座だったんだ!!」
彼女の脳裏に焼き付いているのは、あの屈辱の記憶。
下品で野蛮な鉄の塊が、圧倒的なエンジンの馬力と直進速度だけで、自らの『最速』という玉座を脅かしたあの日のことだ。
「だけど……てめぇが隊長に並んだせいで、私はてめぇと比べられるようになった! 城の連中も、他の隊長どもも、コソコソと陰で囁きやがる! 『ヴェリーナの足も速いが、直線ならザントの方が上だ』とか! 『空間跳躍よりも、あのサイボーグの爆発力の方が実戦向きだ、あいつは音速で走れるからな』とか!!」
ガィィィンッ!!
ヴェリーナの狂乱の斬撃が、ザントの肩の装甲を浅く切り裂く。だがザントは微動だにせず、ただ冷ややかに、目の前で喚き散らす女騎士の醜態を見下ろしていた。
「冗談じゃない……! 無神経な鉄屑と、神聖なる空間を支配する私が、どうして同じ天秤に乗せられなきゃならない!? てめぇさえ……てめぇさえいなければ、私は完璧なままでいられたんだよォォォッ!!」
それは、誇り高き騎士の正義などではない。
ただの『見栄』と『劣等感』。自分よりも優れた存在を認められない、あまりにもちっぽけで肥大化したエゴの爆発だった。
その悲痛なまでの叫びを聞き終えたザントは。
交刃の圧力で彼女を力強く押し返し、ブシューッと関節から白い排熱の蒸気を吐き出しながら、腹の底からバカにするような大きな溜息をついた。
「……ハァ。くだらねぇ」
「なんだと……ッ!?」
「『あいつの方が速いって言われたからムカつく』だぁ? なんだそのガキの駆けっこみてぇな悩みは。てめぇ、そんなクソみてぇな人気投票を気にして、今まであの息苦しい仮面被って生きてきたのかよ」
ザントの赤いカメラアイが、憐れむように細められた。
「教えてやるよ、お姫様。てめぇが俺より『遅い』理由をな」
「てめぇ……殺すッ!」
「てめぇはな、てめぇ自身の『プライド』とか『城での評価』とかいう、クソほど重たくてどうしようもねぇ荷物を背負いすぎなんだよ。だから足が鈍る。だから、仮面が割れたくらいでそんなに無様に喚き散らすんだ」
ザントは二つの刀を肩に担ぎ、彼女の劣等感を容赦なく抉り出すように、言葉の刃を突き刺した。
「俺もちょっと前までは、てめぇらと同じようにあの窮屈な城の中で、そんな下らねぇモンに縛られて生きてた。……だがな、隊長を辞めて裏都市に寝返って、あいつらと一緒に泥水を啜ってみて、ようやく分かったんだわ」
ザントの脳裏に、リドやド・ガン、そして無惨に命を奪われたマリィの姿が浮かぶ。
「あいつらにとっての『強さ』や『速さ』ってのは、誰かに褒められるためのモンじゃねぇ。明日の飯にありつくため、大切な家族の命を守るため、ただ生き残るために必死で伸ばす『執念』だ。……その本物の執念の前じゃあ、城の中で綺麗に着飾って点数競い合ってるだけのショウウインドウの飾り人形なんて、クソの役にも立たねぇんだよ」
「…………ッ!!」
図星だった。
見下していたはずの裏都市の泥臭さを肯定し、自分たちの誇りを「飾り人形」と切り捨てたザントの言葉が、ヴェリーナの心臓を深く貫いた。
顔面からスッと血の気が引いたかと思うと、次の瞬間、その空白を埋め尽くすように、沸騰するほどの爆発的な『激怒』が彼女の全身を支配した。
「……殺す……殺す殺す殺す!! てめぇだけは、私がこの手で完全に解体してやるッ!!」
ヴェリーナの身体から、かつてないほど濃密な青白い魔力が噴き上がり、彼女の周囲の空間そのものが歪み、ミシミシと悲鳴を上げ始める。
冷静さを完全に失い、ただの怨念の塊と化した暗殺者。
ザントはそんな彼女の姿を前に、少しも怯むことなく、好戦的な牙を剥き出しにして獰猛に笑い飛ばした。
「おう、来いよ! そんな重てぇプライド、俺が一緒にこの泥の中に引きずり下ろしてやるぜェェェッ!!」
「死ねェェェッ!!」
ヴェリーナの絶叫と共に、青白い双剣が空間を跳躍し、ザントの急所を狙って全方位から殺到する。
だが、怒りに完全に支配され、冷静な計算も緻密な死角への入り込みも忘れた暗殺者の刃など、もはやザントの敵ではなかった。
「……遅ぇよ」
ザントは静かに呟くと、左手の小太刀を正確な軌道で跳ね上げた。
ガキンッ!という甲高い音と共に、ヴェリーナの右の刃が弾き飛ばされる。その反動で体勢を崩した彼女の懐へ、ザントはブースターの微調整だけで滑り込むように踏み込んだ。
「あ……ッ!」
ヴェリーナが硬直したその一瞬の隙を、ザントの野蛮な暴力が見逃すはずもなかった。
右手の長尺の打刀が、下から上へと猛烈な速度で振り上げられる。
ガガァァァァンッ!!
ヴェリーナが咄嗟に盾にした残りの左の剣ごと、彼女の細い身体が宙へと激しく打ち上げられた。
衝撃で青白い特殊合金の剣が真っ二つにへし折れ、破片が空を舞う。空中で完全に無防備となった彼女に向けて、ザントは容赦なく追撃の蹴りを腹部に叩き込んだ。
「ガ、はァッ……!!」
肺から空気を根こそぎ吐き出しながら、ヴェリーナは石畳の上を鞠のように何度もバウンドし、瓦礫の山に激突してようやく止まった。
「……ゲホッ、ゴホッ……あ、あぁ……」
土埃の中で、ヴェリーナは血を吐きながら痙攣したように咳き込んだ。
もはや立ち上がる力すら残っていない。純白だった軍服は泥と自身の血で汚れ、美しかった素顔は苦痛と屈辱で惨めに歪んでいる。魔力も底を尽き、彼女の身体を覆っていた青白い光は完全に消え失せていた。
絶対的な死が、すぐそこまで迫っていた。
ズシン、ズシンと。
重い駆動音を響かせながら、ザントがゆっくりと歩み寄ってくる。
そして、抵抗する力も失い、瓦礫に背を預けて座り込むヴェリーナの首筋に――ザントは、ひんやりと冷たい打刀の刃をピタリと添えた。
「…………ッ」
刃先が僅かに皮膚に食い込み、ツーッと一筋の赤い血が彼女の白い首筋を伝って流れる。
少しでもザントが腕に力を込めれば、彼女の首は容易く胴体から切り離される。絶対的な敗北。完璧な暗殺者としての誇りが、裏都市の泥水に完全に沈んだ瞬間だった。
「……殺しなさい」
ヴェリーナは、虚ろな、しかしどこか諦観の混じった瞳でザントを見上げた。
「てめぇのような……下等な裏切り者に情けをかけられるくらいなら、死んだ方がマシだ。……さっさと首を刎ねろ」
それは、彼女に残された最後の、そしてひどく惨めなプライドだった。
だが、ザントは刃を押し込むことも、勝ち誇って嘲笑うこともしなかった。
ただ、眼下に座り込むかつての同僚を、どこか退屈そうに、そして憐れむような赤いカメラアイで見下ろしていた。
「……」
沈黙が広場に落ちる。
そして次の瞬間。
シャコンッ、という軽い金属音と共に、ヴェリーナの首筋から冷たい感触が消え去った。
「……え?」
ヴェリーナが間の抜けた声を漏らす。
見れば、ザントは彼女の首に添えていた二つの刀を、あっさりと背中の鞘へと収めていたのだ。
「な、何を……」
「終わりだ。てめぇの負けだよ、ヴェリーナ」
ザントは背中のブースターからプシューッと白い排熱の蒸気を吐き出すと、呆然と座り込むヴェリーナに背を向けた。
「な、なぜ……なぜ殺さないッ!!」
ヴェリーナが血を吐くような声で叫んだ。
殺されないことは、彼女にとって命を奪われる以上の屈辱だった。自分は相手にとって、殺す価値すらないゴミだと宣告されたに等しいのだから。
「私を哀れんでいるのか!? ふざけるな、戻ってきて私を殺せ!! てめぇが私を殺さない限り、私は何度でも……ッ!」
「……わりぃな」
背中を向けたまま、ザントが低く、しかし確かな温もりを持った声で遮った。
「俺はもう、誰かに勝った負けたの、くだらねぇ見栄の張り合いに付き合ってやるほど暇じゃねぇんだ」
ザントはチラリと肩越しにヴェリーナを振り返り、ニカッと、裏都市のチンピラらしい不敵な笑みを浮かべた。
「それに……俺を待ってる人がいるんでな。こんなとこで油売ってたら、あのうるせぇ天使ちゃんにまた怒られちまう」
「……ッ」
ヴェリーナは、声を出せなかった。
ザントのその言葉には、かつて彼が城にいた頃には決して持っていなかった、揺るぎない『強さ』と『目的』が宿っていた。誰かと自分を比べて生きるのではなく、ただ大切な誰かのために背中を向けて歩き出すその姿は、あまりにも大きく、彼女のエゴでは到底手の届かない場所にあるように見えた。
ザントはそれ以上何も語らず、足元のスラスターを軽く吹かした。
ドォンッ!という音と共に、彼の巨体が宙へ舞い上がり、アザゼルがゼンガルと死闘を繰り広げているであろう広場の中央へと、一直線に飛んでいく。
後には、静まり返った瓦礫の山と。
己のちっぽけなプライドごと完全に心を折られ、泥だらけの石畳の上で一人、力なく立ち尽くすヴェリーナの姿だけが残された。




