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28話 泥の意地、白亜の刃

巨漢ガイムが完全に意識を失い、地面に突っ伏したのを見届けると。

張り詰めていたリドの心臓の糸が、プツリと音を立てて切れた。


ボトッ……。


彼の手から、マリィの血に濡れたダガーが滑り落ちる。

否、滑り落ちたのはダガーだけではなかった。見れば、リドの右腕は肘の先から無惨にも斬り飛ばされていたのだ。

死闘の最中、ガイムの大剣の余波を浴びて腕を失っていながらも、彼は狂気的な復讐心と極限のアドレナリンによって痛みをねじ伏せ、完全に『痩せ我慢』で立ち続けていただけだった。


「……わりぃ、マリィ……。俺、少し……休むわ……」


限界を迎えたリドの身体は、そのまま糸の切れた人形のように、血だまりの中へと前方に倒れ込んだ。

だが、彼が冷たい石畳に顔を打ちつける前に、泥だらけの太い腕が彼をしっかりと抱きとめた。


「よくやったぞ、リド!!」

「腕をきつく縛れ! 止血しろ!!」

「あとは俺たち大人に任せろ。お前はもう、十分すぎるくらい戦った……!」


駆けつけてきた裏都市の住人たちが、手際よくリドの右腕を布で縛り上げ、迅速に応急処置を施していく。命に別状はない。

仲間たちの温かい声に包まれながら、満身創痍の少年の戦いは、ここで無事に幕を下ろしたのだった。


――場面は変わり、激戦が続く王都の広場。


無数の聖騎士たちを掻き分けながら、私とザントは、次なる標的である隊長格たちを見据えて並び立っていた。


「作戦通り、私が第1番隊隊長ゼンガルをやる! お前は第2番隊隊長のヴェリーナをやってくれ!」


私が戦場の喧騒に負けない声で指示を飛ばすと、ザントは残された右腕の駆動音を重く唸らせながら、ひどく心配そうに眉をひそめた。


「俺はいいが……お前、本当に一人でゼンガルをやれるのか? あいつ……純粋な剣の腕前だけで言えば、聖騎士団でもトップクラスだぞ」

「……」

「いくら権力が無限に使えるからって、お前の『豊穣』の出力は小指の先っぽだけ、豆粒みてぇな範囲しかねぇんだぞ。今の人間並みの細腕じゃ、真正面からあの老骨の大剣を受け止めきれるわけがねぇ。あまりにも無謀だ……」


ザントの懸念はもっともだった。神の権力に魔力切れという概念はなくとも、私に宿っている力が「小指の先だけ」という極小のものであることに変わりはない。純粋な身体能力と剣技において、私はあの老練な剣士に遠く及ばないのだ。


だが、私は不敵に口角を上げ、真っ直ぐにゼンガルのいる方向を見据えて力強く言い放った。


「大丈夫だ。あいつは……私がやる。会った時から決めた」

「決めた、って……お前な」

「私はあいつに、120%勝てる」


一切の迷いも恐れもない私の断言に、ザントは一瞬、ポカンと目を丸くして言葉を失った。

しかし次の瞬間――彼は呆れたように肩をすくめ、フッと面白そうにニヤリと笑った。


「……へっ、言うじゃねぇか。根拠はさっぱり分からねぇが、天使ちゃんがそこまで言うなら信じてやるよ」


「ああ。だが……お前も、ヴェリーナを早めにやってくれよな。あいつのあの異常な機動力を残しておくと、全体の作戦が狂う。因縁も何もない相手だろうが、絶対に長引かせるなよ」


「了解だ。あのすかした女の足、俺の馬力でへし折ってやるよ」


ザントはいつもの不敵な笑みを浮かべ、背中のブースターから、青白い炎を勢いよく噴き出させた。


「お前こそ、俺が終わるまで絶対に死ぬなよ!」


強烈な爆炎と共に、ザントが一瞬にして空高く舞い上がり、ヴェリーナのいる戦場へと一直線に飛んでいく。

私はその背中を見送った後、深く息を吸い込んだ。

右手小指の先に宿る、極小で無限の『豊穣』の光。これこそが、あの老剣士の誇りごと打ち砕く絶対の刃となる。


私は血塗られた石畳を踏み締め、冷たい刃を構えて待つ第1番隊隊長――ゼンガルの元へと、決死の歩みを進めた。


血と泥にまみれた戦場を抜け、私は広場の中央付近に陣取る第1番隊の元へと歩を進めた。


怒号と悲鳴が飛び交う凄惨な乱戦のただ中にあって、その一角だけが、まるで別の空間のように静まり返っていた。

そこに立っていたのは、ドロステ聖騎士団・第1番隊隊長、ゼンガル。


澄み切った秋空のような、爽やかな水色の髪を風に揺らす、うら若き青年だった。

手には、彼の細身でしなやかな体躯によく似合う、美しく装飾された『レイピア』が握られている。血生臭いこの広場にあって、彼の純白の軍服には泥一つ、血の一滴すら跳ねていない。

まるで彼が立つ半径数メートルだけが、この残酷な殺し合いの現実から切り離された、優雅な舞台であるかのようだった。


「お待ちしておりましたよ。空より堕ちた、美しき元天使様」


ゼンガルはこちらの姿を認めると、嫌味のない、ひどく爽やかな笑みを浮かべた。

そして、すらりとした細い剣をスッと下げ、貴族が舞踏会でパートナーを誘うかのような、完璧で紳士的な一礼を見せた。


「こんな血と泥に汚れた場所であなたをお迎えしなければならないこと、一人の紳士として、ひどく心苦しく思います。本来であれば、もっと美しい花園でお茶でもご一緒したかったのですが」

「…………」


私はその涼しげな顔を見て、腹の底から煮えくり返るような怒りを必死に抑え込んだ。

彼らが仕組んだ悪辣な作戦のせいで、ド・ガンは心を壊され、リドは片腕を失い、幼いマリィは無惨な肉塊に変えられたのだ。その地獄の光景を同じ空間で見ておきながら、この男は狂気的なまでに澄んだ顔で「紳士」を気取っている。

狂っている。エノクに絶対の忠誠を誓うこの国の聖騎士たちは、根元から『命の価値観』がバグっているのだ。


「……随分と余裕だな、ゼンガル。仲間が次々と泥水を舐めさせられているというのに、助けに行かなくていいのか?」

「ええ。私がいちいち手を下さずとも、彼らは自らの責務を全うすることでしょう。それに……」


ゼンガルはゆっくりと顔を上げ、細めた水色の瞳で私を真っ直ぐに射抜いた。

その瞳の奥には、爽やかな笑顔とは裏腹の、氷のように冷たく鋭い剣客の殺気が満ちていた。


「私の役割は、この国に仇なす最大の反逆者である『あなた』の首を、エノク女王陛下とビター総隊長の下へお届けすること。……誇り高き神の眷属と剣を交える機会など、そうあるものではありませんからね」

「誇り高い、か。生憎だが、私の神聖な羽はもがれ、権力は小指の先に宿る豆粒ほどの豊穣の力しか残っていない。今の私は、貴様らが見下す地べたを這う人間と大差ないぞ」


「ご謙遜を」

ゼンガルはふっと微笑み、細い剣を胸の前で優雅に構え直した。

「たとえ泥に塗れようとも、あなたの瞳に宿るその知性と闘志は、決して堕ちてはいない。……全力をもって、あなたを『浄化』させていただきます」


チャキッ、と。

極限まで研ぎ澄まされた細剣が、朝日に反射して眩く輝いた。

無駄な筋力に頼らず、相手の急所を点で穿つことに特化した刺突剣。あのガイムの大剣とは真逆の、洗練された速さと正確さこそが彼の武器なのだろう。


「……来い」


私は深く息を吐き出し、道中で拾い上げた折れた長剣の柄をしっかりと握り締めた。

右手小指の先に宿る、極小の『豊穣の権力』。出力は最低最悪だが、魔力切れのないこの無限の力と、神の眷属としての戦術眼があれば、どんな天才剣士が相手だろうと必ず突破口は開ける。


爽やかな笑みを浮かべる水色の髪の紳士と、泥だらけの堕天使。

王都の広場を吹き抜ける風が止んだその一瞬を合図に、静かで、そして最も苛烈な死闘の火蓋が切って落とされた。


――王都の広場、西側戦線。


血煙と砂塵が舞い上がる乱戦の只中を、一筋の青白い閃光が一直線に切り裂いていた。


「どけェェェッ! 邪魔だァッ!!」


背中のブースターから最大出力の爆炎を吹き出しながら、サイボーグであるザントは、弾丸のような速度で戦場を低空飛行していた。

彼の行く手を阻もうと、純白のマントを羽織った聖騎士たちが幾重にも盾の壁を構築するが、ザントにとっては紙細工に等しかった。彼は健在な両腕――鈍く光る強靭な鋼鉄の腕を交差させ、そのまま重戦車のように盾の壁へと激突した。


「ぐわぁぁぁッ!?」

「ば、化け物……ッ!」


鋼鉄の質量と超音速の推進力。ただそれだけの力任せの突進で、十数人の聖騎士たちが悲鳴を上げて宙を舞う。

ザントは一切の減速をすることなく、戦場の最奥、冷たい静寂が支配する一角へと急ブレーキをかけて着地した。


ズドォォォォンッ!!


石畳が放射状に砕け散り、舞い上がった土煙が風に流されていく。

その土煙の向こう側から、音もなくヌルリと姿を現したのは――第2番隊隊長・ヴェリーナだった。

彼女の顔の半分は、地下水路でアザゼルの能力によって粉砕されたはずの『白い仮面』によって再び覆い隠されている。新調された無機質なその仮面の奥で、冷徹な双眸がザントを静かに見据えていた。手には、青白い燐光を放つ特殊合金の双剣が逆手に握られている。


「……随分と派手な登場ですね、鉄屑」


ヴェリーナの透き通るような、それでいて絶対零度の声が響く。


「まさか、あなたの方からこの私に死に急いで来るとは思いませんでした。……前回の水路で、あなたにおぶさって砲台気取りだった、あの威勢のいい堕天使はいないのですか?」


その言葉には、明確な侮蔑と挑発の色が混じっていた。

前回、アザゼルの能力とザントの機動力という変則的なコンビネーションによって一杯食わされた彼女にとって、単騎で突っ込んできたザントの行動は愚行にしか見えなかったのだろう。


だが、ザントは鋼鉄の首をゴキボキと鳴らしながら、ニッと好戦的な牙を剥き出しにして笑った。


「ハッ。あいつなら今頃、てめぇらの一番偉い剣士サマと、サシでタイマン張ってる最中だよ。……天使ちゃんはな、俺の背中なんかにしがみついてなくても、一人で十分に強いんだわ」


ザントは腰に帯びていた鞘に両手を伸ばし、シャキィィンッ!という鋭い金属音と共に、二振りの刀を同時に引き抜いた。

右手に長尺の打刀、左手にやや短めの小太刀。サイボーグの圧倒的な膂力と、健在な両腕の精密なモーター制御があるからこそ扱える、変則的な二刀流の構えだ。


「あいつがゼンガルの相手をきっちり終わらせるように、俺は俺で、機動力バカのあんたをここで完全にスクラップにするのが仕事なんでね」

「……私を、スクラップに?」


ヴェリーナの仮面越しの声が、ほんの僅かに冷笑を含んだ。


「神の眷属という反則の盾を失った、ただの機械人形が。この私を捕らえられるとでも?」

「やってみりゃ分かんだろ!!」


ザントの怒号と共に、彼の足元からスラスターが火を吹いた。

石畳を抉りながら、ザントの巨体が瞬時にヴェリーナの懐へと跳躍する。右手の刀が大上段から空気を叩き割るような轟音を立ててヴェリーナの頭上へと迫った。


だが。


「遅い」


ヴェリーナの姿が、陽炎のようにフッと『消失』した。

ザントの右の刃が空しく石畳を真っ二つに叩き割った瞬間、彼の背後の空間が歪んだ。

音もなく、風の揺らぎすらなく出現したヴェリーナの双剣が、ザントの首の関節部――装甲の隙間を狙って交差するように振り抜かれる。


「――見えてんだよッ!」


ザントの赤いカメラアイが背後の脅威を瞬時に演算し、彼は振り下ろした右腕の勢いを強引に利用して身体を反転させながら、左手の小太刀を瞬時に跳ね上げた。

ガキィィィンッ!!

左の刀がヴェリーナの双剣の斬撃を完璧に受け止め、激しい火花が散る。


「ほう。ただの力任せではないようですね」

「てめぇのその厄介な瞬間移動も、二つの刀なら防ぎきれるってことだ!」


ザントは左手の刀で双剣を弾き返すと同時に、再び右手の刀で横薙ぎの反撃を繰り出した。

しかし、ヴェリーナは人体の構造を無視したような柔軟なブリッジでその刃を紙一重でかわし、そのまま両手をついてバネのように跳躍。ザントの頭上を飛び越えながら、彼の方や背中のブースターめがけて、流星雨のような短剣の連撃を浴びせかける。


チィィィンッ! ガガガガガガッ!!


王都の広場に、無数の金属音がけたたましく鳴り響いた。

ヴェリーナの動きは、文字通りの『殺戮の舞踏』だった。彼女の超高速の立体機動は、相手の死角を無限に突き続ける。

一方のザントも、二つの刀を旋風のように振るい、サイボーグ特有の演算能力と完璧な重心移動で、彼女の猛攻をギリギリのところで弾き返し続けていた。


「チッ……相変わらず、ハエみたいにちょこまかと鬱陶しい嬢ちゃんだぜ!」

「無様な。当たらなければ、どんな力も無意味ですよ」


ヴェリーナが距離を取り、青白い双剣をだらりと下げて冷たく言い放つ。


「この国に仇なす『不純物』である以上、ここで確実に処理します。……先ほどの水路の時のように、泥水の中で無様に這いずり回るか。それとも、ここで首と胴体を離されるか。好きな方を選びなさい」


「悪いな。どっちの選択肢も、俺の趣味じゃねぇんだわ」


ザントは二つの刀を八の字に構え直し、ブースターの排熱をシューッと白い蒸気として吐き出しながら、不敵に笑った。


「俺たち裏都市の意地ってやつを、その白い仮面ごと真っ二つに叩き割ってやるよ!!」


空を切り裂く青白い双剣と、重力すら叩き割る豪快な二つの刀。

それぞれの誇りと意地を懸けた二人の死闘が、再び猛烈な火花を散らして激突した。

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