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2話 裏都市バスティオン

「堕天使だと?」

 私が声高らかに宣言した昨晩の余韻は、リドの大きな欠伸によって呆気なくかき消された。

「……そりゃまた、ずいぶんとファンタジーな身の上だな。で、その元天使様は、掃除と洗濯、どっちが得意なんだ?」

「は?」

「ここはタダ宿じゃねぇんだ。居候するなら働け。それとも何か? 天使様は霞でも食って生きていけんのか?」

 鼻で笑うリドに、私はギリッと奥歯を噛み締めた。

 この私が。天界で高潔なる任務に就いていたこのアザゼルが、便所掃除や泥まみれの服の洗濯をしろだと?

「……断る。私は誇り高き――」

「じゃあ出てけ。ほら、マリィも寝るぞ」

「はーい! アザゼルちゃん、おやすみなさーい!」

 ランプの火がフッと消され、私は暗闇の中に一人取り残された。


「......」


 ……結局、私は毛布の端っこにくるまり、屈辱に震えながら朝を迎えることになったのだった。

   * * *

 翌朝。

 私が連れてこられたのは、裏都市の端に広がる広大な「ゴミ山」だった。

 カラン、コロン。

 遥か頭上の暗い空から、パラパラと空き缶や鉄屑が降ってくる。ここは王都の連中が捨てた廃棄物が降り積もる『降下区』と呼ばれる場所らしい。

「うぅ……くさい」

「我慢しろ。俺たちの今日のメシ代は、この山の機嫌にかかってるんだ」

 鼻をつまむ私をよそに、リドは慣れた手つきでゴミの山を漁り始めた。

 マリィも「宝探しだー!」と無邪気に走り回り、プラスチックの破片などを拾い集めている。

「ほら、お前も突っ立ってないで手伝え」

「……触りたくない。雑菌がうつる」

「あのな、お前もう十分泥だらけだぞ」

 痛いところを突かれ、私は渋々足元のガラクタを漁り始めた。

 だが、見つかるのはひしゃげたパイプや、錆びついて使い物にならない歯車ばかりだ。

「チッ、今日はハズレか。精密パーツの中身が生きてりゃ、高く売れるんだがな……」

 リドが、赤茶色の錆で完全に固着した小さな鉄箱を放り投げた。

 私はそれを拾い上げ、ふと右手の小指を見つめた。

(……あのチンピラに撃った時、微かな衝撃はあった)

 もしかすると、力を込める対象を絞れば、この程度の鉄箱なら破壊できるのではないか?

 箱を壊して中身だけ取り出せば、少しは見直されるかもしれない。

「……おい、人間。見ていろ」

 私は箱の鍵穴に右手の小指を突き立てた。

 精神を集中させる。破壊しろ。粉々に吹き飛ばせ!

「ふんッ!」

 ――パシュッ。

 小指から淡い緑色の燐光が漏れ、鍵穴を包み込んだ。

 ジジ……ジジジ……。

「……あ?」

 リドが間抜けな声を漏らす。

 爆発は起きなかった。だが、その代わりに信じられない現象が起きていた。

 鍵穴の周りにこびりついていた分厚い赤錆が、まるで意思を持った生き物のようにボロボロと剥がれ落ちていく。

 そしてその下から現れたのは――新品同様に磨き上げられた、ピカピカの銀色の地金だった。

「……は?」

 私は呆然と箱を見つめた。

 壊れていない。それどころか、直っている。

「おい……アザゼル。お前、今何やった?」

 リドが血相を変えて私の手首を掴んだ。

「な、何もしていない! ただ破壊しようと……」

「サビが……消えてる。いや、元に戻ってるのか……?」

 リドは箱をひったくり、カチャリと鍵を開けた。スムーズに蝶番が動き、箱が開く。

 彼は興奮した様子で私を振り返った。

「すげぇ! お前、ただの居候じゃねぇ! 『生きた研磨剤』だ!」

「誰が研磨剤だ! 不敬な!」

「よし、片っ端からサビを落とせ! 今日は焼肉だ!」

「や、焼肉……!?」

 その単語に、私の喉がゴクリと鳴った。

 いけない。誇り高き天使が、地上の肉塊などに釣られてなるものか。

 だが、あの泥スープの味を思い出すと、背に腹は代えられない。

「……わ、分かった。だが勘違いするな。私が肉を食べたいからではない。お前たちの貧相な食生活を哀れんで……」

「はいはい、天使様はいいから手動かせ」

   * * *

 数時間後。

 私たちは麻袋いっぱいに「新品同様のパーツ」を詰め込み、裏都市の鉄工地区へと向かった。

 カン、カン、と重い槌音が響く巨大なトーチカのような工房。

 リドが扉を叩くと、ズズズと地響きを立てて重厚な鉄扉が開いた。

 吹き出す熱気の中から現れた影を見て、私は息を呑んだ。

「……山、か?」

 見上げるほどの巨体。身長は優に三メートルを超えている。

 丸太のような腕に、岩盤のように盛り上がった筋肉。頭には溶接用のゴーグルをつけ、手には人をミンチにできそうな巨大なハンマーを握っていた。

「ひぃッ……!?」

 マリィが悲鳴を上げ、私の背中に隠れる。

 私も無意識に右手の小指に力を込めた。

 なんだこの怪物は。こんな狭いスラムに、これほどの質量の暴力が隠れていたというのか。

 戦えば、間違いなく一撃で潰される。

 巨人は私たちを見下ろし、ゴーグルの奥の目をしばたたかせた。

 そして――。

「……ひ、ひぃッ!?」

 私たちが悲鳴を上げるより先に、巨人が悲鳴を上げて後ずさった。

「り、リドぉ……! し、知らない人がいるぅ……!」

 野太い、しかし震え上がった声。

 巨人はハンマーを落とし(ドスンと地面が揺れた)、顔を両手で覆ってガタガタと震え出した。

「こ、怖い……! その目つきの悪いチビ……睨んでるぅ……殺されるぅ……!」

「……は?」

 私は拍子抜けして、握った小指の力を抜いた。

 目つきが悪いチビだと? 私のことか?

 この岩山のような巨人が、私ごときに怯えているのか?

「おいド・ガン、落ち着け。こいつらは俺の仲間だ」

「ほ、本当に……? 僕をいじめない……?」

「いじめねぇよ。ほら、今日は極上のパーツを持ってきたんだ」

 リドが宥めすかすと、ド・ガンと呼ばれた巨人は、おずおずと指の隙間からこちらを覗き見た。

 彼はリドが差し出した袋から、私がサビを落とした歯車を取り出した。

 巨大な指先が、繊細な手つきで歯車を撫でる。

 その瞬間、ド・ガンの表情が変わった。

「……っ!」

 怯えが消え、ゴーグルの奥の瞳が鋭く光る。

 彼は歯車を耳元に当て、真剣な顔で何かを聞くような仕草をした。

「……生きてる」

「は?」

「この鉄……呼吸してる。サビを落としただけじゃない。金属の『死んだ時間』が巻き戻ってる……!」

 ド・ガンは興奮した様子で、鼻息荒く私に詰め寄った。

「すごい……! こんなの初めてだ! 鉄が喜んでる! 君、魔法使いなの!?」

「ち、近寄るな! 暑苦しい!」

 私が後ずさっても、ド・ガンは止まらない。

 彼は私の手を(指先だけで優しく)掴み、ブンブンと振った。

「気に入った! これなら最高の武器が作れるよ! 全部、言い値の倍で買い取る!」

   * * *

 帰り道。

 リドの懐は、ド・ガンから受け取った銀貨でずっしりと重くなっていた。

「へっ、まさかあのド・ガンがここまで食いつくとはな。お前、本当にすげぇ才能持ってるぜ」

 リドがホクホク顔でキセルをふかす。

 マリィも「お肉! お肉!」と機嫌良く私の手を握って揺らしている。

「……ふん。神の力を研磨剤扱いとは、世も末だな」

 私はそっぽを向きながら、ポケットの中で冷たい銀貨の感触を確かめた。

(金属が、呼吸している……か)

 単なる浄化ではない。

 ソロモンの『豊穣』――生命を与え、活性化させる力が、無機物にまで作用しているのだ。

 嘲笑われた最弱の力。

 だが、この最低最悪な泥の街では、確かな「価値」を持っていた。

「アザゼルちゃん、手ぇつなご!」

「……歩きにくい。離せ」

「えへへ、やだ!」

 私はため息をついたが、その小さな手を振りほどく気にはなれなかった。

 悪くない。

 力を取り戻し、天界へ帰るまでの暇つぶしとしては、この奇妙な連中との生活も……。


* * *

 分厚いスモッグに覆われた空の下、酸い鉄と油の匂いが立ち込めるいつもの帰路。だが、ふと路地の角を曲がった瞬間、全く場違いな暴力的なまでの「甘い香り」が私の鼻腔を強烈に刺激した。

 思わず足を止める。

 視線の先には、トタン屋根を継ぎ接ぎしただけの薄汚い屋台があった。

 しかし、そこで売られているものは、この泥まみれの街において異彩を放っていた。

 店主の男が錆びた機械をカラカラと回すと、微かな熱気と共に、淡いピンク色をしたふわふわの綿のようなものが生み出されていく。その隣には、無数の気泡を閉じ込めた琥珀色のドロドロとした液体が、分厚いガラス瓶の中でとろけそうに輝いていた。

「…………」

 私は無意識のうちに屋台の前まで引き寄せられ、その「甘い塊」たちを穴の開くほど見つめていた。

 天界の果実は、確かに清らかで美しかった。だが、あれは水のように透き通っていて、味などほとんど無いに等しい。それに比べて、なんだこの下品なまでに主張の激しい香りは。砂糖が焦げ、溶け、結晶化する時の、脳髄を直接殴りつけてくるような暴力的な誘惑。

「……おい」

 不意に、肩をポンと叩かれた。

「はッ!?」

 私はビクッと肩を震わせ、慌てて振り返った。いつの間にか数メートル先まで歩いていたはずのリドが、ジト目で私を見下ろしている。その足元では、マリィが不思議そうに小首を傾げていた。

「えっと……そ、そう! 天界は雲の上だったからな! 地上で雲が売られているなんて珍しくて、ついかつての故郷を思い出し、視察をだな……ッ!」

「まだ何も言ってないぞ」

「うぐッ……」

 リドの冷ややかなツッコミに、私は言葉を詰まらせた。

 彼は屋台と私の顔を交互に見比べると、大きなため息をつき、残酷な現実を突きつけた。

「あのなぁ。今日はちょっと稼げたからって、あんなガキのオヤツに無駄遣いする余裕はねぇんだよ。……ほら、帰るぞ」

「…………」

 その言葉は、天界から追放されたあの日と同じくらい、私の心に深く、暗い影を落とした。

 ……そうか。私は一文無しの居候。あの甘美な匂いを放つ未知の食べ物を口にすることは、許されないのだ。

 私はうつむき、泥だらけの靴先を見つめた。背中の奪われた翼の傷跡よりも、なぜか胸の奥がひどくズキズキと痛む。分かりやすく肩を落とし、私はとぼとぼとリドの背中について歩き出そうとした。

「……あー、もう! クソッ、分かったよ! そんな捨て犬みてぇなツラすんな!」

 ガシガシと紫の髪を掻きむしり、リドが舌打ちをした。

 彼は屋台の親父に銅貨を数枚投げつけると、乱暴な手つきで「ピンク色の雲」を受け取り、無言で私の胸に押し付けてきた。

「今回だけだぞ。鉄のサビ落としを頑張った特別ボーナスだ」

「なっ……! べ、別に私はこんなものを欲していたわけでは……!」

 強がりながらも、私の視線はすでに手の中の「綿菓子」に釘付けだった。

 棒に巻き付けられたそれは、光を透かすほど薄く、繊細な糖の糸が幾重にも重なって層を作っている。顔を近づけると、ザラメ糖が熱で融解した時に特有の、焦げる寸前の香ばしさと強烈な甘い匂いが鼻腔を支配した。

「……ふむ。毒見をしてやる」

 私は大きく口を開け、そのピンク色の雲の半分を思い切りガブリと嚙みちぎった。

 ――瞬間。

 シャクッ、という微かな歯触りがあったかと思うと、口の中に広がったはずの巨大な雲は、唾液に触れた途端にシュワァァッと音を立てて幻のように溶け去ってしまった。

 後に残ったのは、舌の上にこびりつくような濃厚な砂糖の甘味だけ。

「……え」

 私は唖然として、手元の棒と空間を交互に見つめた。

 あんなに巨大だったのに。一口で、消えた?

「……少なッ」

 私がボソッと呟いた恨みがましい一言に、リドが顔を覆った。

「当たり前だろ! 綿菓子なんて九割が空気なんだよ。なんでお前、猛獣みてぇな食い方してんだ……」

 不完全燃焼だ。舌が、脳が、もっと強烈な糖分による物理的な「質量」を求めている。

 私の飢えた視線は、自然と隣にある「琥珀色のドロドロ」へと吸い込まれた。

 リドはもう一度深い深いため息をつき、親父から二本の短い木の棒を受け取った。その先端には、たっぷりと水飴が巻き付けられている。

「貸せ。これはこうやって、空気を含ませて白くなるまで練ってから食うんだ。その方が甘みが増す」

 リドの手の中で、琥珀色だった水飴が、練られるごとに真珠のような鈍い輝きを放つ乳白色へと変化していく。粘り気を増したそれは、照明の光を乱反射し、まるで宝石のようにとろりとした艶を帯びていた。

「ほらよ」

 渡された水飴を、私は今度こそ慎重に口に運んだ。

 ちゅるり、と舌先で舐め取ろうとした、その時だ。

「んんッ!?」

 硬い。いや、極めて粘度が異常に高いのだ。

 引きちぎろうと歯を立てるが、水飴は私の口と木の棒の間で、びよーーんと限界まで伸びていく。細い糸のようになった飴がプツンと切れ、私の頬に、鼻の頭に、ペタペタと張り付いた。

「んぐッ、むぐぅぅ……!」

 私は焦った。この甘露を一滴たりとも逃してなるものか。

 べたつく口元も気にせず、私は棒に嚙みつき、絡まりつく水飴と格闘した。口内を支配するのは、綿菓子とは全く異なる、重厚で暴力的なまでの甘さ。粘り気のある糖液が舌にまとわりつき、飲み込むことすら容易ではないが、それがたまらなく幸福だった。

「うわぁ……汚い食べ方」

 呆れ果てたリドの声が降ってきた。

「お前、本当に元天使かよ。マリィの方がよっぽど綺麗に食べるぞ」

「アザゼルちゃん、お鼻におヒゲができてるよー!」

 マリィが無邪気に笑いながら指を差す。

 だが、そんな声は私の耳には全く届いていなかった。

(……美味い。美味すぎる……!)

 頬に張り付いた飴を舌先で無理やり舐め取りながら、私は夢中で甘露を貪り続けた。

 神よ。あなたからすべてを奪われ、この泥水のような街に突き落とされたが。

 地上に落ちてただ一つ、この下等で、野蛮で、最高に甘ったるいジャンクフードの味を知れたことだけは、感謝してやってもいい。

 私は誇り高きアザゼル。

 口の周りをベタベタに光らせ、二本の棒を熱心に舐め回す私の背中には、目に見えない黒い羽が、歓喜のあまりバタバタと揺れていたかもしれない。


「あ、そうだリド」

 ふと、通りすがりの情報屋が、リドに声をかけてきた。

 その顔は、酷く青ざめていた。

「気をつけろよ。……上から、『白い悪魔』が降りてきたって噂だ」

「悪魔? 聖騎士団がスラムに何の用だ」

「分からねぇ。だが、そいつは音速で移動して……『堕ちた天使』を探してるらしい」

 心臓が、冷たく跳ねた。

「見つかった奴はみんな、ミンチにされてるってよ」

 見上げた紫色の空は、どこまでも淀んでいた。

 私の安息は、まだ始まってすらいなかったのだ。

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