1話 気色の悪い地上
「泥水は、ひどく鉄の味がした」
それが、地上に落ちた私の最初の感想だった。
肺に汚れた酸素を入れるたび、背中の傷が焼け焦げるように痛む。
かつてそこにあった、私の誇りであり魂そのものだった『純白の翼』は、根元から無残にむしり取られていた。泥にまみれた身体を起こそうと、無意識に背中の羽ばたきでバランスを取ろうとして――何もない喪失感に絶望し、再び無様に泥水へと突っ伏す。
――たかが人間のために、神の掟を破るとはな。
脳裏に蘇るのは、かつての友であり、私をこのゴミ溜めへと突き落とした男、ソロモンの冷酷な声。
人間を助けた。たったそれだけの理由で、私は天界を追放された。高潔な天使としての地位も、力もすべて奪われて。
分厚い紫色のスモッグに覆われた空からは、天界の美しい光など微塵も見えない。
ここは『裏都市』。
地上の人間たちが、見たくないものや汚いものをすべて押し付けた、掃き溜めのような場所だった。
「……動け」
私は地面を這うようにして、身体を引きずった。
死んでたまるか。絶対に這い上がって、あの傲慢な神の喉笛を食いちぎってやる。
だが、現実は残酷だ。
「あらぁ? 見ない顔ねぇ。こんな泥まみれの路地裏に、ずいぶんと極上の布をまとったお姫様が転がってるじゃない」
毒々しいルージュを歪めた笑い声と共に、三人の女が私の行く手を塞いだ。
どいつもこいつも安っぽい香水のキツい匂いをさせ、ハイエナのように飢えた眼をしている。だが、その退廃的な空気すらも武器にするような、スラム特有の危険な色気を纏った女たちだ。
彼女たちの視線は、私の泥だらけの服と、その下にある肉体を値踏みするように舐め回していた。
「近寄るな……ッ。下等生物が」
私はゆっくりと立ち上がり、彼女らを睨みつけた。
翼は奪われた。だが、天界から追放される刹那、私はソロモンから強引に『神の権力』を奪い取ってやったのだ。神が宿ると呼ばれる、強大な力の一つ、『豊穣』。
この力さえあれば、こんなチンピラ共など一瞬で塵に変えられる!
――ピキィィン……ッ!
私の全身から、一瞬だけ『本物の神格』と呼ぶべき恐るべき威圧感が放射された。
「な、何よコイツ……!?」
「空気が、重……ッ」
女たちの顔が恐怖に引き攣り、本能的な死の予感にヒールを鳴らして後ずさる。
その隙を見逃さず、私は右手を鋭く突き出し、殺意を込めて叫んだ。
「消し飛べェッ!!」
――ポシュッ。
炭酸の抜けたような、間抜けな音が響いた。
私の右手の、小指の先っぽ。そこから豆粒のような緑色の光弾がひょろひょろと飛び出し、先頭の女の豊かな胸元に当たって、パチンと弾けた。
「…………」
「…………は?」
女は怪訝な顔で自分の胸の谷間を叩き、それから腹を抱えて甲高く爆笑した。
「アハハハハッ! ちょっと何今のぉ!? 静電気?」
「可愛い手品だこと。脅かすなら、もうちょっとマシな手使いなさいよ!」
絶望で視界が暗転した。
小指の先っぽ。私が渾身の力で奪い取ったはずの神の権力は、なんと『小指の先』ほどの面積にしか宿っていなかったのだ。
これではまるで、「お前にはこれくらいがお似合いだ」というソロモンからの陰湿な嫌がらせではないか。
「さ、大人しくしなさいな。アンタのその極上の服……一枚残らずひん剥いて、高く売ってあげるからさァ!」
先頭の女が、赤いマニキュアの剥げた爪を伸ばしてくる。屈辱に歯を食いしばり、目を閉じた、その時だった。
「……あー、うるせぇ」
路地の奥から、気だるげな声が響いた。ふわりと、鼻をつく甘い紫煙の香りが漂う。
崩れかけた木箱の上に、黒紫の髪をした青年が座っていた。ボロボロの服を着ているが、その瞳はひどく冷たく、獲物を狙う獣のように鋭い。彼は口元のキセルから、紫色の煙をふぅっと吐き出した。
「俺のシマで騒ぐな。昼寝の邪魔だ」
「あァ? 誰よアンタ、引っ込んでな――」
女が怒鳴り終えるより早く、青年の姿が掻き消えた。
音すらなかった。
「――え?」
女が胸元と足元の違和感に気づき、視線を落とす。彼女のタイトなレザースカートの留め具、そして胸元のコルセットの紐が、すべて『完璧な切断面』を残して音もなく切断され、ハラリと地面に落ちた。
気づけば青年――リドは、半裸になって硬直する女の背後に立っていた。その手には、月光を鈍く反射する黒塗りのナイフが、女の頸動脈にピタリと添えられている。
「命が惜しければ、消えな。五秒数える」
殺気すら感じさせない、ただの作業のような冷徹な宣告。
「ひっ……!? ば、化物……ッ!」
圧倒的な暴力と技術の差を理解した女たちは、恥じらいよりも先に死の恐怖に悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「ったく。面倒くせぇ」
リドはナイフをしまい、興味なさそうに私を見下ろした。助け起こす気など毛頭ないらしい。
その視線が、私の着ている泥だらけの服の生地を値踏みするように舐める。
(……こいつの服、天界の特注の絹か。泥を落として闇市に流せば、一年は遊んで暮らせるな)
彼の瞳の奥で、盗賊としての冷徹な損得勘定が弾き出されたのが分かった。
「行くぞ、マリィ」
「はーい!」
リドの背後から、元気いっぱいに飛び出してきたのは、ボロボロのワンピースを着た十歳にも満たない少女だった。
彼女は私の姿を見ると、ぱぁっと顔を輝かせて駆け寄ってきた。
「ねえリド! このお姉ちゃん、お人形さんみたいで綺麗! 連れて帰ろ!」
「はあ? 捨てとけ。服だけ剥ぎ取れりゃ十分だ」
「やだ! 放っておいたら死んじゃうよ!」
マリィは私の泥だらけの手を、両手でギュッと握りしめた。
その手は小さくて、ひどく温かく、そして純粋な優しさに満ちていた。人間は私を裏切った憎き存在のはずなのに、不思議と振り払うことができなかった。
「……チッ。今回だけだぞ。金にならなきゃすぐ追い出すからな」
リドが頭を掻きむしりながら、計算高い素振りを隠すように忌々しげに私を睨んだ。
***
案内されたのは、下水道の奥にある薄暗い廃墟だった。
「ほらよ。食う元気がありゃ死にはしねぇだろ」
リドが、欠けたマグカップをドンと机に置いた。
中に入っていたのは、泥水にしか見えない茶色く濁ったスープだった。焦げた匂いが鼻をつく。
天界では光の雫や果実しか口にしてこなかった私に、こんなものを飲めと言うのか。
「……いらん。こんな汚らわしいもの」
「あっそ。じゃあ捨てるわ」
「……待て。少しだけ、毒見をしてやる」
私はマグカップを両手で包み込んだ。
プライドよりも、飢えが勝る。屈辱に耐えながら一口啜る。
……苦い。そして信じられないほど不味い。
「マリィ、あれを取ってくれ」
「うん! お砂糖だね!」
マリィが戸棚から、小さな瓶を持ってきた。中には貴重な角砂糖が入っている。
私はクールで高潔な表情を一切崩さぬまま、瓶から角砂糖を一つ、二つ、三つ……とマグカップへ落としていく。
「……おい」
リドがジト目で私を見た。
「ちょっと苦かっただけだ。……四、五、六」
「いや、お前」
「消耗したエネルギーの回復には糖分が必要不可欠だからな。七、八、九……」
「入れすぎだろ! お前の脳みそ、砂糖で出来てんのか!」
最終的に《《十個の角砂糖》》が沈んだ泥スープは、暴力的な甘さを放っていた。
だが、これがいい。私は真顔のまま、甘ったるい泥水を一気に飲み干した。
「ふぅ……」
胃の腑に熱が広がる。少しだけ、背中の痛みが和らいだ気がした。
マグカップを置いた私を見て、リドがふぅっと紫色の煙を吐き出した。
その視線は、先ほどまでの気だるげなものではなく、鋭い刃のように私を射抜いていた。
「……で? 飯の代金代わりに、そろそろ聞かせてもらおうか」
「なんの事だ」
「とぼけんな。その見たこともない上等な服の仕立て。小指の先から出た、豆鉄砲みたいな変な能力。……最初の威圧感だけは、本物だったからな」
リドはキセルを机にコツンと叩き、私を真っ直ぐに見据えた。
「お前、一体何者だ?」
静寂が下りる。
マリィも不思議そうに小首を傾げている。
私は、自分の右手の小指を見つめた。
ちっぽけで、微弱で、ソロモンに嘲笑われた力。だが、私はもう誤魔化すつもりはなかった。
《《「私は、アザゼル」》》
泥だらけの服の裾を強く握りしめ、私は言い放つ。
「天界で人間を庇った罪で、翼を奪われ、地上に落とされた……堕天使だ」
リドの目がわずかに見開かれる。
私はゆっくりと立ち上がり、天上――遥か彼方の雲の上を睨みつけた。
「必ず天界へ帰り、私をこんな姿にした神……ソロモンの喉笛を食いちぎる。……そのために、お前たちを利用させてもらうぞ」
復讐の宣言は、暗い廃墟の底に静かに溶けていった。
* * *
王都ドロステの地下最下層。
光すらも圧死するほどの絶対的な暗闇と、永遠に続くかと思われる静寂だけが支配する特別牢獄。
その深淵の底で、じゃらり、と重々しい鉄の鎖が這う音が鳴った。
「あははっ! ねえねえ、見ましたぁ?」
不気味なほど弾んだ、若く元気な女の声が沈黙を切り裂いた。
暗闇の中で鎖に繋がれたまま、彼女はまるで遠足の前の子供のように無邪気に両足をパタパタと揺らし、首を異常な角度に傾けて暗闇の奥へと呼びかける。
「哀れな天使が落ちてきましたねぇ! どうですかキアリク、見えますか?」
「……ええ。嫌でも見えるわ」
その問いかけに答えたのは、牢獄の中央に静かに座る、一人の『普通の女』だった。
狂気と異形が蔓延るこの空間において、彼女の姿はあまりにも平凡すぎた。派手な装飾もない、街角にでもいそうな普通の女。だが、その瞳だけが、地の底から遥か地上の泥水に這いつくばる堕天使の姿を、まるで顕微鏡を覗き込むように正確に捉えていた。
「自慢の羽をむしり取られて、みすぼらしく泥を啜っている。高潔な神の使いが聞いて呆れるわね……本当に、滑稽で惨めな姿」
「ざぁこ♡」
普通の女の言葉を遮ったのは、耳障りなほど甲高く、人を小馬鹿にしたような幼い声だった。
太い鎖の上に器用に跨り、足をぶらぶらと揺らしているのは、幼稚園児ほどの小さな『少女』だ。
彼女は意地悪な笑みを浮かべ、あかんべえをするように舌を出してゲラゲラと嗤っている。
「んなの、すぐ死んじゃうに決まってるじゃん! 神様からポイ捨てされたゴミなんだから、あんなの生きてる価値なし! ……でもぉ」
生意気なメスガキの少女は、ふと嗤うのをやめ、その無機質な瞳を細めた。
「でも……あのてんしちゃん、なにかもってるよ?」
「……なにさね」
普通の女が、感情の読めない平坦な声で聞き返した。
少女は鎖の上で立ち上がり、腹を抱えて笑い転げた。
「神様の『権力』! 持ってるには持ってるけど、あはははっ、右手の小指の、さらに先っぽだけ! あんなの豆粒じゃん! 神様にどんだけ嫌われてんのって話! ざーっこ♡ よわよわのへっぽこてんちゃんだぁ!」
その滑稽な事実に、元気な若い女と普通の女が、くすくすと嘲笑を漏らす。
「あははっ! 最高ですね! ねえ、早くあのおもちゃで遊びましょうよぉ!」
「抜け駆けは許さないわよ。まずは私が、あの生意気な小指を丁寧に切り落としてから……」
「はぁ!? ぜーったい私が先! 私がてんしちゃんを泣かして、泥水飲ませて踏んづけてやるんだから! ねえ、キアリクもそう思うでしょ!?」
少女が暗闇の奥に向かって叫んだ、その時だった。
――ギチ、ギギギギギギギッ……!!
頭上の闇が、蠢いた。
ただ鎖が鳴ったのではない。牢獄の天井を支える岩盤そのものが、規格外の重量と筋力によって悲鳴を上げた音だった。
暗闇の奥から、ずずり、と這い出てきたのは、座った状態でありながら三メートルは優に超える、異常な体躯を持つ『長身の女』だった。
「……ああ……。いいねェ……」
地鳴りのように低く、内臓の底を這いずるような酷く気だるげな声。
極度に猫背になった姿勢から、乱れた黒髪の隙間越しに見下ろしてくるその双眸には、獲物をいたぶる底知れぬサディズムと、身の毛のよだつような成熟した色気が同居していた。
彼女がわずかに動くだけで、その豊満な肉体を縛る極太の鎖が、飴細工のようにちぎれそうに軋む。
「……プライドだけは一丁前で……泥水すすって這いつくばる姿……。……ひどく、そそられるじゃないか……。……内臓をひきずり出して……絶望に染まる泣き顔が、見てみたいねェ……」
長身の女は、長く艶やかな舌で己の唇をねっとりと舐め上げた。
その圧倒的で不気味な存在感に、元気な若い女がはしゃいだ声を上げる。
「あはは、キアリクったら変態ですねぇ! じゃあ、四人で仲良くあの天使を解体しましょうよ!」
「そうね。まずは手足の腱を順番に……」
「だから私が先だってば! おっきいだけのおばさんは黙っててよね!」
少女がわがままに叫び、三人がそれぞれの残虐な遊び方を口々に騒ぎ立てる。
冷たい地下牢獄に、異形たちの醜悪な歓声が響き渡った。
「…………」
長身の女は、極度の猫背のまま、乱れた前髪の奥で白目を剥き出しにするような虚ろな視線を、騒ぎ立てる三人へ向けた。
「……ほんとに……。……ピーチクパーチクと……」
低く、気だるげな呟き。
「……鬱陶しいねェ……お前ら……」
――グチャァッ!!!!
次の瞬間。
破裂音と共に、生意気な少女の甲高い笑い声が、永遠に途絶えた。
長身の女の丸太のように太く長い腕が、瞬きすら許さぬ速度で振り抜かれ――少女の頭部を、熟れたトマトのように軽々と握り潰していたのだ。
「え……?」
「あ……?」
元気な若い女と、普通の女が、呆然と固まる。
だが、驚愕の声を上げる暇すら与えられなかった。
長身の女の巨体が弾かれたように跳躍する。
「あはッ――」と笑みを浮かべたままの元気な若い女の胴体が、規格外の蹴り一発で文字通り上下に真っ二つに分断され、臓物を撒き散らしながら石壁に叩きつけられた。
「ひっ……!」
最後に残った普通の女が、恐怖に顔を引き攣らせて後ずさろうとしたが、遅い。
長身の女の巨大な手が、普通の女の顔面を鷲掴みにする。そのまま、まるで雑草でも引き抜くかのような無造作な動作で、メキィッ!と頸椎を引きちぎった。
ほんの数秒。
圧倒的、かつあまりにも理不尽な暴力。
さっきまでやかましく響いていた四重奏は、肉の潰れる嫌な音と、血の雨が滴る音だけに変わった。
「……あーあ。……すぐ壊れちまう………私たちは本当に脆いねェ………」
長身の女は、血の海と化した牢獄の真ん中で、だらりと長い腕を垂らして立ち尽くしていた。
首のない普通の女の死体を足蹴にし、顔面に付着した血糊を、艶かしい手つきでゆっくりと拭い取る。
彼女は、自身の足元に転がる、頭の潰れた小さな少女の死体を見下ろして、気だるげに呟いた。
「……おしゃべりが過ぎるよォ、キアリク……。……おもちゃは、アタシ一人で……たっぷり可愛がってやるさね……」
そう、この地下牢獄で狂笑を上げていた四人は、最初から全員が『キアリク』という同じ名前を共有する存在だった。
だが今、生き残ったキアリクは、ただ一人。
「……待ってるよォ……小指の天使ちゃん……」
血に濡れた長身の異形は、暗闇の天井を見上げ、底知れぬ狂気と色気を孕んだ恐ろしい笑みを、どこまでも深く刻み込んだ。




