2話 裏都市バスティオン
月は雲に覆われ、夜の街は陰を孕んでいた。
アザゼルは裏通りの狭い道を進んでいた。湿った石畳が靴底を鈍く叩く。
空気は重く、焦げた鉄と酒の匂いが鼻を刺した。遠くで猫が鳴き、酔いどれの喚声がこだまする。
王都の裏側――《バスティオン》。
その都市の名は、天界にて知っていた、だが、自分の目で見るのは初めてだった。
表の聖堂や市場から追われた者たちが流れ着く、影の街。
アザゼルは初めて見る混沌の中で、何もかもが異質に感じられた。
天界では、すべてが「整えられて」いた。光も、言葉も、秩序も。
だがここには、形なきものが溢れている。笑いと嘲り、欲と痛み、愛と絶望――それらがひとつの路地に押し込まれていた。
空腹が腹の底を刺した。
天界にいた頃、飢えなど知らなかった。だが今は違う。身体が重く、指先が震える。
やはり、天使ではもう無くなっている、ということを再認識させられた。
通りを抜けるたび、露店の光がちらついた。焼いた魚、干しパン、香辛料の匂い。
アザゼルは立ち止まり、ぼんやりと見つめる。
それを見た店主が眉をひそめた。
「おい、何じろじろ見てんだ。買う気がねぇなら帰んな」
「……すまない。知らないだけだ」
「は? ……知らねぇ? どこの出だ、お前」
周囲の視線が集まる。
アザゼルの白金の髪と、金の瞳。地上ではありえない色だ。
通りの灯がその髪を照らし、群衆の中で異様に浮かび上がっていた。
「髪の色……見ねぇ顔だな、異邦のやつか」
「またか。最近多いな、戦の難民だろ」
「いや、見ろよ。あの目。金色だ。気味が悪ぃ」
「いや、売れば高く売れるかもしれねぇ」
囁きが波紋のように広がる。
アザゼルは顔を伏せたが、すでに遅かった。
ひとりの男が鼻を鳴らしながら言った。
「おめぇ、名前は?」
「……アザゼル」
「アブ? なんだそれ、虫みてぇな名前だな!」
笑いが起こる。誰かが真似をして「アブだ、アブが来たぞ!」と叫ぶ。
群衆は興味と侮蔑を入り混ぜた目で彼女を見た。
アザゼルの胸の奥に、冷たいものが広がる。怒りではない――理解されぬ痛みだった。
「……違う。アザゼルだ」
「聞こえねぇな! アブだ、アブでいいだろ! この街じゃ名なんざ飾りだ!」
いくら訂正しても、何故かアブと呼ばれる、なんなんだろうか?
その瞬間、何かがアザゼルの肩にぶつかった。
振り向けば、少年が石を投げていた。周囲が笑う。
「異邦人はここじゃ疫病みたいなもんだ。余計なこと言う前に消えろよ」
アザゼルは拳を握りしめた。だが、反撃はしない。
人間たちは恐怖の目で見ている。
――自分は天から堕ちた存在だ。
光を失い、今はただの「人間」にすらなれない。
その時だった。
雑踏の奥から、低い声が響いた。
「おい、やめとけ。裏通りで喧嘩を売るな」
群衆がざわめき、道が割れる。
そこに現れたのは、一人の青年だった。
外套のフードを目深に被り、腰には刃を携えている。
瞳は灰色――冷めた光を宿していた。
「こいつをいじめても、得はねぇ。血の匂いが増えるだけだ」
男たちは舌打ちをして散っていく。
アザゼルはゆっくりと青年を見た。
彼は彼女を一瞥し、無造作に言った。
「……名前は?」
「アザゼル」
「……アブ、か。まあいい。俺はリド。ここじゃ名前なんて、どうでもいい」
青年――リドは、くるりと背を向けた。
アザゼルはしばらくその背中を見つめた。
彼の歩く姿には、どこか影があった。だが同時に、奇妙な静けさが漂っている。
喧騒と腐臭の街の中で、唯一「沈黙」を纏う存在。
「ついて来い。……腹、減ってるだろ」
リドはそう言い残し、暗い路地へと消えた。
アザゼルは一瞬迷い――だがその後を追った。
リドに導かれ、アザゼルは裏路地を抜けた。
湿った石壁が立ち並び、頭上では無数の洗濯物が風に揺れている。夜風に混じって、鉄と油と人の匂いが漂っていた。
どこからか水滴の音が絶え間なく響く。街の底に、目に見えない川が流れているかのようだった。
やがて二人は、廃れた建物の前で足を止めた。
古びた看板には、かつての酒場の名残がうっすらと残っている。
リドは鍵を取り出し、錆びついた扉を押し開けた。
「入れ。誰も来ねぇ。今は俺の寝床だ」
中は暗く、埃の匂いがした。
だが、机の上には油ランプが灯っていた。
明かりが広がると、古い地図と工具、そして食べかけのパンが見えた。
アザゼルは戸口で立ち止まったまま、部屋を見渡す。
「……住んでいるのか、ここに?」
「ああ。地上の底だ。上の連中に知られたら、すぐ焼き払われる。……だが静かだろ」
リドはランプを調整しながら、視線を投げた。
その灰色の瞳には、諦めとも覚悟ともつかぬ色が宿っている。
「腹、減ってるだろ。……ほら」
パンをちぎり、差し出す。
アザゼルはためらいながら受け取った。
口に含むと、固く乾いていた。だが、ほんの少しだけ温かい。
「……これが、地上の食物……」
「不味いか?」
「……いや。生きている味だ」
リドは短く笑った。
だがその笑いには、どこか刺がある。
沈黙ののち、彼は言葉を探すように呟いた。
「お前、何者だ? あの目……この街じゃ見ねぇ色だ」
アザゼルはわずかに目を伏せる。
天界のことは語れない。喉の奥で言葉がせき止められる。
まるで、何かに封じられているかのように。
「……覚えていない。ただ、目が覚めたら空の下にいた」
「……そうか。まあ、誰にでも過去はある。思い出さない方がいい時もな」
リドはそれ以上詮索せず、ランプの火を弱めた。
外では風が鳴り、遠くの通りで喧騒がこだまする。
人々の怒号、笑い、そして誰かの泣き声――。
アザゼルはそれを聞きながら、胸の奥に重いものを感じた。
「ここは……なぜ、こんなにも苦しそうなんだ」
「苦しいのは、上に見えない“正義”があるからだよ」
「正義……?」
「王都の聖職者どもは言う。“異邦人は穢れ”だと。生まれも肌も、神に似ていなきゃ罪人扱いだ。……俺たちは、その『罪人の底』さ」
アザゼルはゆっくりと息を吐いた。
天界にいた頃、「正義」は光の名であり、全ての理の象徴だった。
だが、ここで語られる正義は――誰かを押し潰すための鎖のように思えた。
「お前も見ただろ。お前の容姿なんて笑うやつらを。あれがこの街の現実だ。異国の名も、異なる姿も、ここじゃ生きづらい」
アザゼルは手の中のパンを見つめた。
それは乾き、ひび割れ、崩れそうでありながら――確かに「生きるための糧」だった。
彼女は小さく呟く。
「……それでも、人は生きているんだな」
「生きるしかねぇからな」
その言葉の重さを噛み締めていると、
階下から軋む音がした。
――コン、コン。
リドが警戒の目を向ける。
「こんな時間に誰だ……」
扉が開き、小柄な影が顔を覗かせた。
月明かりに照らされたその姿は、まるで小動物のようにか細い。
栗色の髪を二つに結び、大きな瞳を瞬かせている。
年の頃は十にも満たないだろう。
古びたワンピースを着て、裾をぎゅっと握りしめていた。
「リド……ごめん、また夜に……」
声は震えていた。
リドは表情を緩め、肩をすくめる。
「マリィ。お前、また追い出されたのか」
「う、うん……でも、ちゃんと働こうとしたんだよ? でも……パンが一つ足りないって、叩かれちゃって……」
アザゼルはその姿に目を奪われた。
その仕草、その声。あまりにも儚く、傷つきやすい。
だが、ほんの一瞬――彼女の瞳の奥に、冷ややかな光が閃いた。
まるで計算された悲哀を映すように。
「ここにいろ。外は危ねぇ」
リドはパンの欠片を差し出す。
マリィは小さく微笑み、両手でそれを受け取った。
その笑みは可憐で、あどけない。
そして、弱々しく、今にも崩れてしまいそうな体だった。
マリィはアザゼルに気づくと、ぱちりと瞬きをした。
「……あれ、このお姉さん、だれ?」
「今日拾った。名は……アブ、だ」
「アブ……?」
マリィは小首を傾げ、にっこり笑う。
「へんな名前。でも、やさしそう」
アザゼルは何も答えなかった。
ただその笑顔を見つめた。
天界にはなかった、複雑な笑顔――純粋さと、偽りの境界を曖昧にした笑みだった。
夜の灯が揺れ、三人の影を壁に映した。
リドは煙草に火をつけ、マリィはパンをかじりながら彼の膝元で丸くなる。
アザゼルはただ、窓の外の月を見上げていた。
そこには天界の光よりも遠く、冷たい輝きがあった。
(……ここが、地上の「現実」か)
アザゼルは、ふと思った。自分の目的のため、地上に落ときに誓ったあの目的。
天界――自分が堕とされたその頂へ、再び立つ、そして、ソロモンを殺すために。
それだけが、彼の存在を繋ぎとめる唯一の糸だった。
けれど、地上に落ちてからの日々は、あまりにも無惨だった。
飢え、痛み、嘲り、鎖。どれもが彼を人のように削っていく。
いつの間にか、空を見上げることすら怖くなっていた。
あの光を見れば、自分の惨めさが突きつけられるからだ。
なぜ、自分だけがこうも不幸を背負わねばならないのか。
誰よりも信じ、誰よりも忠実だったはずなのに。
それでも天は、彼を見捨てた。
この世界に堕ちてから、何度も願った。
「これは罰ではない」と。
「まだ戻れる」と。
だが、その言葉さえ、今では空虚に響く。
もう天へと続く道など、どこにも見えない。
踏み出すたびに、足元の泥が絡みつき、希望を沈めていく。
目的は、遠い霧の向こうに消えてしまった。
――いや、もしかしたら最初から、自分にはそんな道などなかったのかもしれない。
重く沈む胸の奥で、微かに何かが軋んだ。
それでも彼は、歩くことをやめられない。
不幸を呪うことしかできない己を、せめて進むことで誤魔化すように。
「......現実はそう、甘くはなかったのかもしれない」
彼女はそう思いながら、胸の奥で確かに感じていた。
この街には、見えない何かが潜んでいる――。
それは、天界の理よりも、はるかに生々しく、危ういものだった。




