26話 反撃、開始
絶望的な死の重圧がのしかかる中、私は自身の内側へと意識を深く沈めた。
神の権力に『魔力切れ』や『枯渇』などというチャチな概念はない。生ある限り、それは無限に引き出せる理不尽な力だ。
だが、私の身体の末端――右手小指の先端に宿るその力は、針の穴を通すようなごく僅かな、文字通り『微弱』な出力しか持たない。
(……この一滴にも満たない出力で、あの巨漢を吹き飛ばすことは不可能だ。……だが)
私の持ち前の戦いの頭脳が、極限状態の中で氷のように冷たく冴え渡っていく。
ザントは先ほど、「洗脳ガスが脳の神経を焼き切り、命令だけを聞く人形にしている」と言った。
ならば、力任せに破壊する必要はない。精密機械の基盤に一滴の水を垂らせば、全体がショートして機能停止するように……人体の制御中枢に、この『過剰な生命の力』をピンポイントで叩き込めばいいのだ。
「ザント!! あと三秒……いや、一秒だけでいい! 奴の動きを完全に止めろ!!」
「無茶言うな……ッ! ああもう、やってやるよォォォッ!!」
私の鋭い指示に、ザントは残された右腕の駆動系を完全に焼き切る覚悟で、ド・ガンの巨体に真正面からしがみついた。ギチギチと金属がひしゃげる凄まじい音と共に、ド・ガンの振り下ろそうとしたハンマーの動きが、ほんの一瞬だけピタリと停止する。
その刹那の隙を、私は見逃さなかった。
血だまりを蹴り、地を這うような低い姿勢でド・ガンの懐へと滑り込む。
「グルルゥゥッ!?」
足元をすり抜けた私に気づき、ド・ガンが濁った瞳を下へ向け、空いた左腕で私を握り潰そうと手を伸ばす。
だが、遅い。
私はすでに、ド・ガンの死角である背後へと回り込んでいた。
狙うは、人間の身体と脳を繋ぐ最も重要な神経回路が集中する場所――首の後ろ、延髄の直上。
私は右手の指を折りたたみ、ただ一本、微かな緑色の光を宿した『小指』だけを鋭く突き出した。
「神の権力は、命を救うためだけのものじゃない。……『過剰な成長』は、時として猛毒となる」
ズチュッ……!
私の右手の小指が、洗脳によって膨張しきったド・ガンの太い首の裏側へ、突き刺すような勢いで押し当てられた。
その瞬間、小指の先に宿る一滴にも満たない『豊穣の権力』が、ド・ガンの皮膚を透過し、直接神経系へと流し込まれる。
「ガ、アァ……ッ!?」
ド・ガンの動きが、雷に打たれたように完全に硬直した。
豊穣の力とは『命を爆発的に芽吹かせる力』だ。
洗脳ガスによって焼き切られ、無理やり繋ぎ合わされていた彼の脳神経は、送り込まれた豊穣の力によって瞬時に異常な細胞分裂を引き起こした。
切断されていた神経が爆発的に再生・増殖し、互いに絡み合い、許容量を遥かに超えた生体信号が脳内を駆け巡る。それは例えるなら、細い電線に落雷の超高電圧を流し込んだようなものだ。
「アァァァァァァッ!!」
白目を剥き、ド・ガンの全身の筋肉が異様な痙攣を起こした。
脳が処理しきれないほどの情報量と、過剰な細胞再生による凄まじいショートアウト。ビターたちが仕込んだ完璧な洗脳のコントロールシステムは、この『小さすぎる生命の爆発』によって内側から完全に破壊されたのだ。
「ゴ、ァ……」
やがて、口から大量の白泡を吹き出し……。
ド・ガンの巨体は、まるで糸の切れた巨大な操り人形のように、ドスンッ!と地響きを立ててその場に崩れ落ちた。
ピクリとも動かない。完全なる昏倒。
右手の小指一本、たった一撃の極小の出力で、私は最悪の殺戮兵器と化していたド・ガンを無力化することに成功したのだ。
「……はぁっ、はぁっ……」
私は小指を下ろし、その場に膝をついた。魔力切れなどではないが、極度の緊張と精神の疲労から、ドッと全身の力が抜け落ちていく。
「や、やったのか……?」
ザントが壊れた右腕を押さえながら、信じられないといった表情で倒れた巨漢を見下ろした。
私は無言で頷く。ド・ガンは死んではいない。脳のショートによって深い昏睡状態に陥っただけだが、少なくとも今はもう脅威ではない。
だが、安堵する余裕など一秒もなかった。
チャキッ、カチャ……。
無機質で冷酷な金属音が、四方八方から我々を締め上げてくる。顔を上げれば、広場をすり鉢状に囲むように、純白のマントを羽織ったドロステ聖騎士団の本隊が、抜刀した状態で整然と立ち並んでいた。
数千の刃が朝日に反射し、逃げ場のない完全な包囲網が完成している。
カラン……。
その絶望的な光景を前に、乾いた音が石畳に響いた。
音の主は、リドだった。
彼の泥だらけの手から、彼が常に肌身離さず持ち歩き、マリィを守るために振るっていた使い込まれたダガー(短剣)が、力なく滑り落ちたのだ。
「もう……ダメだ……」
リドは、マリィの血で赤黒く染まった自らの両手を虚ろに見つめ、ガクリと膝から崩れ落ちた。
「俺たちが……勝てるわけ、なかったんだ……。マリィは死んだ……おっちゃんも、あんな化け物にされちまった……。全部終わりだ……俺たちはここで、ゴミみたいに殺されるんだ……」
完全に心が折れた、うわ言のような呟き。
その声は伝染病のように、周囲で立ち尽くしていた裏都市の大人たちにも波及していった。「ああ……」「神様……」と、次々に武器を取り落とし、迫り来る白亜の死刑執行人たちを前に、戦意を喪失して座り込んでいく。
圧倒的な力と不条理を前に、弱き人間たちが絶望に屈しようとしていた。
だが。
「――ふざけるなッ!!」
私の腹の底から絞り出した鋭い怒声が、朝の広場にビリビリと響き渡った。
私は血だまりを踏み越え、膝をつくリドの胸ぐらを両手で乱暴に掴み上げ、その顔を無理やり私と正面から向き合わせた。
「な、なにを……」
「貴様、そのザマは何だ! そんな泥水を啜るような弱々しい顔で無様に殺されて、マリィが喜ぶとでも思っているのか!!」
「……ッ!!」
マリィの名を出され、リドの肩がビクンと大きく跳ねた。
私はさらに、彼を突き飛ばす勢いで言葉の刃を叩きつける。
「あの子は最期まで、貴様の背中を信じていたはずだ! ド・ガンを取り戻すのだと、恐怖に震えながらも笑って戦場に出てきた! そのあの子の命を無駄にして、貴様はここで涙を流して終わるつもりか!?」
リドの瞳が激しく揺れる。私は彼から手を離し、今度は昏倒している巨大なド・ガンを指差した。
「見ろ、あの男の無惨な姿を! 身勝手な権力者どもに誘拐され、心を完全に壊される人体改造を施され……あろうことか、自分が最も愛した『家族』を自らの手で殺させられたのだぞ!?」
私の言葉に、裏都市の住人たちがハッとして顔を上げた。
そうだ。これはただの悲劇ではない。すべては、あの白亜の城にふんぞり返る者たちが、意図的に仕組んだ悪辣なゲームなのだ。
「奴らは我々を虫けらと見下し、家族の絆すらも嘲笑い、殺戮のための爆弾として利用した! この悪逆非道な仕打ちを、ド・ガンの血の涙ほどの無念を、貴様らはこのまま見過ごして泥の中で死ぬのか!? 悲しみに溺れるな!! 絶望に足を止めるな!! 貴様らの心の中にあるその惨めな感情を、すべてドロステの狂った正義を焼き尽くす『怒りの炎』に変えろッ!!」
私の叫びが広場に木霊し、やがてフッと消えた。
重く、息苦しい沈黙が戦場を支配した。
リドは、俯いたまま何も言わなかった。
前髪が目元を隠し、その表情は読み取れない。ただ、彼の肩が小刻みに震え、固く結ばれた唇からツーッと一筋の血が流れていることだけが見えた。
どれほどの時間が経っただろうか。
聖騎士団の包囲網がジリジリと狭まり、彼らが無慈悲な刃を振り上げようとした、まさにその時。
「…………ふざけるな」
裏都市の集団の中から、一人のくたびれた男が、絞り出すような低い声で呟いた。
彼は顔を上げ、ド・ガンの巨体と、血の海に染まった広場を見渡し……やがてその顔を、凄惨なまでの憎悪で歪ませた。
「ふざけるなぁぁぁッ!! ドロステの白豚どもめェェェッ!!」
男の喉が裂けんばかりの咆哮が、朝の空気をビリビリと震わせた。
それは、彼らが地下の泥水の中で何十年も抑え込んできた、理不尽に対する怒りの爆発だった。彼らは錆びた鉈を拾い上げ、血走った目で聖騎士団を睨みつけた。
「俺たちの家族をッ! 仲間をッ! これ以上好きにさせてたまるかァァッ!!」
「殺せ! 一匹残らず道連れにしてやるッ!!」
「うおおおおおおおおおッ!!!」
一人の男の咆哮は、瞬く間に炎のように燃え広がり、戦意を喪失していた裏都市の住人たちを次々と立ち上がらせた。
絶望は狂乱の闘志へと完全に変換された。何百という弱者たちが、もはや命の惜しさなど微塵も感じさせない獣の群れとなり、武器を天に掲げて地鳴りのような叫びを上げたのだ。
その、熱狂と怒りの渦の中で。
リドは、ゆっくりと石畳に手を伸ばした。
マリィの血がこびりついたその手で、彼が掴み取ったのは――先ほど自ら手放した、一本のダガーだった。
「……そうだ。俺は……」
リドは、ふらつく足で立ち上がった。
その瞳からは絶望の濁りが完全に消え去り、代わりに、血の涙を煮詰めたような、昏く冷たい復讐の炎がメラメラと燃え上がっていた。
彼はギリッと奥歯を噛み砕くほどの力で食いしばり、ダガーの柄を、手のひらから血が滲むほどに強く、強く握り直した。
「俺は……絶対に、許さねぇ。……マリィの命を弄んだ奴らも! おっちゃんをこんな姿にした奴らも!! 俺たちからすべてを奪った、あの白い悪魔どもを一匹残らず、俺がぶっ殺してやるッ!!」
怒りと決意に満ちた少年の叫びが、裏都市の民の咆哮と完全に同調し、一つの巨大な意志となって聖騎士団へと叩きつけられた。
――その様子を、背後から見ていたサイボーグ、ザント。
彼は失った左腕の断面から火花を散らしながらも、ただ静かに、立ち上がったリドの背中を見つめていた。
励ましの言葉も、同情の言葉も、今の彼らには不純物でしかないと理解しているかのように。
ザントは一切の言葉を発することなく、ただ無言のまま、残された右腕の駆動音を重く、低く唸らせるのだった。




